或る侍の半生 前編
文字数 4,676文字
ある日の暮れ方のことである。一人の男が羅生門の下で夜が来るのを待っていた。
羅生門といっても、都の玄関口としての威容は損なわれて久しい。嵐によって倒壊した門はその半身を失い、残る半身もまた上層部分を無くして寂しげな姿で立っている。瓦は散らばり落ちて割れ、柱は丹塗りの剥げた口から乾きと腐りに蝕まれ、石段に走る亀裂の隙間の緑だけが命を感じさせる。
門がこの有様であるのだから、洛中 の荒廃ぶりは酷いものである。度重なる天災によって飢えと疫病みに満たされた都は毎日のように死骸を吐き出す。かつては密かに捨てられていたそれもいよいよ人目を憚ることをやめ、既にここは門というより死骸置き場の相を呈していた。
裸の死骸の中に混じって襤褸を纏う者が数人、ここを宿と定めて座り込んでいる。もっとも、その中の何人が実際に動くとも分からない。野宿者たちは互いに鴉となって剥ぎ取りの頃合いを伺いながら、やがて来る自分の番に怯えている。
男もまた、その一人であった。根無し草となって数年、盗みやごみ漁りによって幸か不幸か生き延びている彼だったが、このところはいよいよ盗る物も尽きてきた。市が寂れ、人通りも絶えた今では狐狸や蛇でさえ生存競争の敵手である。
終いにはそこいらに転がる死骸に齧りつくことさえも考えに上がった。疫病みを恐れて踏みとどまった後で、男は皮肉な笑みを浮かべた。かつてここに鬼が出たという話も、存外からくりはこんなものなのかもしれない。物盗りも人殺しも出るとあらば、人喰いの箍が外れたところで何の不思議もない。そんな時代がもう何年も続いているのだ。
男が虱だらけの頭を掻きむしっていると、都の外に広がる葦原の向こうから三つの人影が近づいてくる。貴人と、あとの二人はその付き人のようだ。貴人は歌など詠いながら悠々と栗毛の馬を歩ませている。狩衣に笠、長弓に太刀、立派な装いはどれをとってもその人の身分の一流たるを物語っていた。
男はしめたとばかりに身を屈めて駆け出した。狙いは馬だ。奪って逃げて売り払えば、しばらくは糊口を凌ぐこともかなうだろう。
葦原を撫でる風に紛れて三間ばかりの距離へ寄り、馬の鼻先へ礫を打つ。馬は驚いて前身を持ち上げ、貴人は落馬するかに見えた。しかし貴人は器用にこれを乗りこなし、ついには馬をすっかり宥めすかしてしまった。
こうなると逃げ足の無くなった男は真っ向から戦いを挑むことになる。懐からどすと呼ぶにも粗い造りの短刀を取り出し、貴人へ一直線に突き進む。無謀な突進は眼前に現れた刃によって阻まれた。付き人が遮ったのだ。怯んだ男はもう一人の付き人に後ろから組み伏せられ、地面に押さえつけられた。
貴人が馬から降りてくる。男はまったくもって俎板の鯉となった我が身がこの貴人の気まぐれに委ねられていることを悟ると、畏怖とも哀願ともつかぬ表情を浮かべた。貴人はそれを憐憫に満ちた目で見つめたあと、連れ帰るように命じた。
男は常にその人を兵衛尉殿 と呼んでいた。だからここでもただ兵衛尉殿と呼ぶだけで本名は語れない。
兵衛尉殿は奇妙な人物だった。立派な寝殿造りの屋敷を構え、宮中へ出向いては歌を詠み、それでいて肩書の上では貴族でなく武士となっているのだから不思議である。
男はこの人物のもとで家人として働くこととなった。
屋敷での男の立場は実に肩身の狭いものだった。それは彼がここに迎えられた経緯によるところもあるが、それ以前にここの人間は彼とはまるで毛色が違うのだ。主人が主人である。他の家人たちもまた、どこか貴族的な風を吹かせていた。
男は芸を解さない。皆が鍛錬もそこそこに歌詠みに消えた後も、彼は剣を振り続けるより他なかった。
もっとも、それは彼の性に合っていた。一切の雑念を捨てて無心になること、高みを目指して己を研ぎ澄ますことは彼にとってごく自然な営みとして習慣づいた。
物質的な欠乏から来る走性とは決定的に異なる、明確な自我。一人の人間を満たすだけの本質が、自己の同一性が、彼の中に溶鉄のごとく注がれていったのだ。
やがて男が一端の剣士となったころ、兵衛尉殿はそのはたらきを認めて男に褒美を与えた。見事な宝刀だった。刀身に映りこむ自分の顔を見つめたとき、男はなるほど自分はとうとう一振りの剣として形を結んだのだと、すべてに合点した。そして己の生を剣の道に捧げることに何の疑いも持たなかった。
男はあるとき屋敷の廊下を歩き回っていた。何だったかの探し物をしてのことである。ところがそれがどうにも見当たらないもので、急いでいた男は主人たちの住む部屋の方へと入っていってしまった。
手当たり次第に部屋を覗いて回るうち、男は一人の女に出会った。女はしばらく唖然とした様子でいたが、すぐに慌てて口元を隠した。男は怪しいものではないと言って名乗り、女の名を聞いた。女は答えることなく逃げていった。
男には何が何だかさっぱり分からなかった。無理もない。高貴な女性の姿を見ること、名前を聞くこと、平民の彼はその行為の持つ意味について全くもって無知だった。
翌日、男が平素のように一人で稽古をしていると、昨日の女が人目を憚るようにやってきた。それもそのはずである。彼女はあの兵衛尉殿の娘だった。男のことを人伝に聞き、昨日のことを謝りにきた……というのは建前で、実際は彼の奇妙な人となりに興味を持ったのだという。
兵衛尉殿の娘は口が立ち、無口な男の手を引くように絶え間なく話を続けた。そこには男の突然の来訪に驚いていた昨日の姿は無く、それどころか冗談を言ってみせたり口下手な男をからかったりとその振る舞いは町娘のように奔放だ。
男は最初、適当にあしらって稽古に戻るつもりでいた。だが次第にそれは頭の隅へと追いやられ、気付けば随分な時間を彼女と話しこんでいた。男にはそれが不思議でたまらなかった。
それから月に何度かそんなことがあった。そのうち男は毎日のように彼女は今日来るだろうかと意識するようになった。
そしてそんなことを考えながら一日の終わりを迎えるたび、身の入らない稽古に費やした無為な時間を悔いる。それが何日も続くもので明日から場所を変えようかと思うと、ちょうど彼女がやってくる。別れる頃にはその考えも無くなっている。
既に自分が彼女に好意を抱いているのは明白だった。四六時中どっかりと頭の中に居座る想いは、もはや拭って拭えるものではない。
さりとて彼女は兵衛尉殿の娘。自分のような者がこれ以上を望むことが許されないのは、彼女がどれだけ気さくに接していても分かった。
男は自分が分からなかった。彼の中には剣こそ本懐と信じ、生じてしまった気の迷いを絶たんとする自分がいた。彼女を慕い、届かぬ思いを秘める自分もいた。そして身に着けてしまった常識や道徳を疎み、かつてのように我慾の赴くまま目の前のすべてを掴もうとする獣の声もまた、彼の中にあった。
ある晩、男はもう何度目ともつかない真夜中の覚醒に呻きを上げ、寝返りを打った。不快な意識は再び彼を繋ぎ止め、眠りへと至る長い時間が続く。それを断ち切ったのは、女の悲鳴だった。
男はすぐにそれが兵衛尉殿の娘のものだと気づくと、刀も帯びぬままに駆け出した。宝刀が見当たらなかったためである。そしてそれは今まさに夜盗の手によって兵衛尉殿の娘に向けられていた。
男は夜盗が振り下ろす軌道に割り込み、拳を突き上げた。男の肉が裂かれ、夜盗の顎が砕ける。
痛み分けとなった両者はしばらく喘ぎながら睨みあっていたが、屋敷が騒がしくなってくると、夜盗は宝刀を持ったままどこかへと消えた。
屋敷の者が集まってくる。夜盗を威嚇するべく意識を保っていた男だったが、脅威が去ると高揚は収まり、精神は肉体の損傷に従って希薄になっていく。愛しい人の泣き顔に見送られ、男は静かに目を閉じた。
猛烈な違和感に目を覚ます。一瞬のような闇の中で、だがそれなりの時間が過ぎたらしい。
屋敷の中を歩き回っていると、男は棺とその隣で眠る兵衛尉殿の娘を見つけた。棺が自分のものであることを悟ると、男は静かに「そうか、死んだのか」と呟いた。
「そうであってくれれば、話は早いのだが」
不意に背後から声がした。振り返ると、どこから忍び込んだのか、背の高い黒服が立っている。
男が誰何すると、黒服は彼岸よりの死神を名乗った。
「さて、我々は先刻三途の川にてお前の魂の断片を確認した。しかし同一人物の魂が欠落した状態でここに留まっている。何か心当たりは? 口寄せでも仕損じたか?」
男はなるほどこの違和感が欠落した魂に起因するものなのかと納得した。驚きはなかった。だが思い当たる節もまるで無かった。
「ふむ。ちなみに我々は絶対的な確認手段を有している。偽証は利益を齎さないが、それを踏まえても返答は同じか?」
男が沈黙をもって答えると、死神は続けた。
「では、最後の記憶について聞かせてもらおう」
「盗人に斬られた。それだけだ」
無口な男に苦笑を浮かべつつも、しばらく逡巡した後で死神は「あい分かった」と言って組んだ腕を解いた。
「さて、ひとまずこちらからの用件は済んだが……お前はこれからどうする?」
「どうする、とは何だ?」
「生きるか死ぬか、だ」
「選べるのか?」
「こちらに来た断片についてはともかく、ここに残っている以上お前の状態は事故による幽体離脱だ。彼岸へ渡れば断片と再会し、然るべき処遇を受けられるだろう。肉体に戻るのであれば、我々はそれを止める権限を持たない。死と呼ぶも生と呼ぶも、お前のこの後の行動次第だ」
男は悩んだ。だが、不思議とそれは以前に比べて明瞭な思考をもって行われた。
以前の彼であれば体を襲う違和感――魂の欠乏は差し迫った渇望として彼を怒鳴りつけ、駆り立てただろう。しかし、今の彼にはそれが無かった。
理性的な思考をもって自分を取り巻く万物に、自らの人生に対して意味付けをしたとき、大切なものは二つしかなかった。すなわち剣と、愛である。
「一つ、頼まれてくれるか?」
男は棺に目を落とした。
「誰にも知られずに蘇りたい」
「ふむ……一応、理由を聞いておこう」
「盗人を追わねばならん。いつ戻るとも知れぬ旅だ。別れは、一度でいいだろう」
死神は「そうか」と言ってから少しの間考えるそぶりを見せる。
「埋葬後の肉体を痕跡無く取り出すことなら可能だ。十分か?」
「痛み入る」
翌日、男は手筈通り屋敷の外に取り出された体に戻り、復活した。旅支度をしようにも、携えるものは何もない。男が歩を進めようとすると、死神が呼び止めた。
「一つ、言い忘れていた。再び生に還るのであれば、旧い名は捨ててゆくがいい。お前の名は既に彼岸の台帳に連なった。生ける死人など、妖のほかの何でもあるまい」
名付け親に思い入れは無くとも、その名で呼んでくれた者のことを想えば悲しみも生じる。だからこそ男は未練を絶つため、死神に新たな名を求めた。
「ほう、私に問うか。……よかろう。ではその欠けた魂をもって一個と成し、人の道を外れぬことを祈ってこの名を授けよう」
その日、魂魄妖忌の長い旅が始まった。
羅生門といっても、都の玄関口としての威容は損なわれて久しい。嵐によって倒壊した門はその半身を失い、残る半身もまた上層部分を無くして寂しげな姿で立っている。瓦は散らばり落ちて割れ、柱は丹塗りの剥げた口から乾きと腐りに蝕まれ、石段に走る亀裂の隙間の緑だけが命を感じさせる。
門がこの有様であるのだから、
裸の死骸の中に混じって襤褸を纏う者が数人、ここを宿と定めて座り込んでいる。もっとも、その中の何人が実際に動くとも分からない。野宿者たちは互いに鴉となって剥ぎ取りの頃合いを伺いながら、やがて来る自分の番に怯えている。
男もまた、その一人であった。根無し草となって数年、盗みやごみ漁りによって幸か不幸か生き延びている彼だったが、このところはいよいよ盗る物も尽きてきた。市が寂れ、人通りも絶えた今では狐狸や蛇でさえ生存競争の敵手である。
終いにはそこいらに転がる死骸に齧りつくことさえも考えに上がった。疫病みを恐れて踏みとどまった後で、男は皮肉な笑みを浮かべた。かつてここに鬼が出たという話も、存外からくりはこんなものなのかもしれない。物盗りも人殺しも出るとあらば、人喰いの箍が外れたところで何の不思議もない。そんな時代がもう何年も続いているのだ。
男が虱だらけの頭を掻きむしっていると、都の外に広がる葦原の向こうから三つの人影が近づいてくる。貴人と、あとの二人はその付き人のようだ。貴人は歌など詠いながら悠々と栗毛の馬を歩ませている。狩衣に笠、長弓に太刀、立派な装いはどれをとってもその人の身分の一流たるを物語っていた。
男はしめたとばかりに身を屈めて駆け出した。狙いは馬だ。奪って逃げて売り払えば、しばらくは糊口を凌ぐこともかなうだろう。
葦原を撫でる風に紛れて三間ばかりの距離へ寄り、馬の鼻先へ礫を打つ。馬は驚いて前身を持ち上げ、貴人は落馬するかに見えた。しかし貴人は器用にこれを乗りこなし、ついには馬をすっかり宥めすかしてしまった。
こうなると逃げ足の無くなった男は真っ向から戦いを挑むことになる。懐からどすと呼ぶにも粗い造りの短刀を取り出し、貴人へ一直線に突き進む。無謀な突進は眼前に現れた刃によって阻まれた。付き人が遮ったのだ。怯んだ男はもう一人の付き人に後ろから組み伏せられ、地面に押さえつけられた。
貴人が馬から降りてくる。男はまったくもって俎板の鯉となった我が身がこの貴人の気まぐれに委ねられていることを悟ると、畏怖とも哀願ともつかぬ表情を浮かべた。貴人はそれを憐憫に満ちた目で見つめたあと、連れ帰るように命じた。
男は常にその人を
兵衛尉殿は奇妙な人物だった。立派な寝殿造りの屋敷を構え、宮中へ出向いては歌を詠み、それでいて肩書の上では貴族でなく武士となっているのだから不思議である。
男はこの人物のもとで家人として働くこととなった。
屋敷での男の立場は実に肩身の狭いものだった。それは彼がここに迎えられた経緯によるところもあるが、それ以前にここの人間は彼とはまるで毛色が違うのだ。主人が主人である。他の家人たちもまた、どこか貴族的な風を吹かせていた。
男は芸を解さない。皆が鍛錬もそこそこに歌詠みに消えた後も、彼は剣を振り続けるより他なかった。
もっとも、それは彼の性に合っていた。一切の雑念を捨てて無心になること、高みを目指して己を研ぎ澄ますことは彼にとってごく自然な営みとして習慣づいた。
物質的な欠乏から来る走性とは決定的に異なる、明確な自我。一人の人間を満たすだけの本質が、自己の同一性が、彼の中に溶鉄のごとく注がれていったのだ。
やがて男が一端の剣士となったころ、兵衛尉殿はそのはたらきを認めて男に褒美を与えた。見事な宝刀だった。刀身に映りこむ自分の顔を見つめたとき、男はなるほど自分はとうとう一振りの剣として形を結んだのだと、すべてに合点した。そして己の生を剣の道に捧げることに何の疑いも持たなかった。
男はあるとき屋敷の廊下を歩き回っていた。何だったかの探し物をしてのことである。ところがそれがどうにも見当たらないもので、急いでいた男は主人たちの住む部屋の方へと入っていってしまった。
手当たり次第に部屋を覗いて回るうち、男は一人の女に出会った。女はしばらく唖然とした様子でいたが、すぐに慌てて口元を隠した。男は怪しいものではないと言って名乗り、女の名を聞いた。女は答えることなく逃げていった。
男には何が何だかさっぱり分からなかった。無理もない。高貴な女性の姿を見ること、名前を聞くこと、平民の彼はその行為の持つ意味について全くもって無知だった。
翌日、男が平素のように一人で稽古をしていると、昨日の女が人目を憚るようにやってきた。それもそのはずである。彼女はあの兵衛尉殿の娘だった。男のことを人伝に聞き、昨日のことを謝りにきた……というのは建前で、実際は彼の奇妙な人となりに興味を持ったのだという。
兵衛尉殿の娘は口が立ち、無口な男の手を引くように絶え間なく話を続けた。そこには男の突然の来訪に驚いていた昨日の姿は無く、それどころか冗談を言ってみせたり口下手な男をからかったりとその振る舞いは町娘のように奔放だ。
男は最初、適当にあしらって稽古に戻るつもりでいた。だが次第にそれは頭の隅へと追いやられ、気付けば随分な時間を彼女と話しこんでいた。男にはそれが不思議でたまらなかった。
それから月に何度かそんなことがあった。そのうち男は毎日のように彼女は今日来るだろうかと意識するようになった。
そしてそんなことを考えながら一日の終わりを迎えるたび、身の入らない稽古に費やした無為な時間を悔いる。それが何日も続くもので明日から場所を変えようかと思うと、ちょうど彼女がやってくる。別れる頃にはその考えも無くなっている。
既に自分が彼女に好意を抱いているのは明白だった。四六時中どっかりと頭の中に居座る想いは、もはや拭って拭えるものではない。
さりとて彼女は兵衛尉殿の娘。自分のような者がこれ以上を望むことが許されないのは、彼女がどれだけ気さくに接していても分かった。
男は自分が分からなかった。彼の中には剣こそ本懐と信じ、生じてしまった気の迷いを絶たんとする自分がいた。彼女を慕い、届かぬ思いを秘める自分もいた。そして身に着けてしまった常識や道徳を疎み、かつてのように我慾の赴くまま目の前のすべてを掴もうとする獣の声もまた、彼の中にあった。
ある晩、男はもう何度目ともつかない真夜中の覚醒に呻きを上げ、寝返りを打った。不快な意識は再び彼を繋ぎ止め、眠りへと至る長い時間が続く。それを断ち切ったのは、女の悲鳴だった。
男はすぐにそれが兵衛尉殿の娘のものだと気づくと、刀も帯びぬままに駆け出した。宝刀が見当たらなかったためである。そしてそれは今まさに夜盗の手によって兵衛尉殿の娘に向けられていた。
男は夜盗が振り下ろす軌道に割り込み、拳を突き上げた。男の肉が裂かれ、夜盗の顎が砕ける。
痛み分けとなった両者はしばらく喘ぎながら睨みあっていたが、屋敷が騒がしくなってくると、夜盗は宝刀を持ったままどこかへと消えた。
屋敷の者が集まってくる。夜盗を威嚇するべく意識を保っていた男だったが、脅威が去ると高揚は収まり、精神は肉体の損傷に従って希薄になっていく。愛しい人の泣き顔に見送られ、男は静かに目を閉じた。
猛烈な違和感に目を覚ます。一瞬のような闇の中で、だがそれなりの時間が過ぎたらしい。
屋敷の中を歩き回っていると、男は棺とその隣で眠る兵衛尉殿の娘を見つけた。棺が自分のものであることを悟ると、男は静かに「そうか、死んだのか」と呟いた。
「そうであってくれれば、話は早いのだが」
不意に背後から声がした。振り返ると、どこから忍び込んだのか、背の高い黒服が立っている。
男が誰何すると、黒服は彼岸よりの死神を名乗った。
「さて、我々は先刻三途の川にてお前の魂の断片を確認した。しかし同一人物の魂が欠落した状態でここに留まっている。何か心当たりは? 口寄せでも仕損じたか?」
男はなるほどこの違和感が欠落した魂に起因するものなのかと納得した。驚きはなかった。だが思い当たる節もまるで無かった。
「ふむ。ちなみに我々は絶対的な確認手段を有している。偽証は利益を齎さないが、それを踏まえても返答は同じか?」
男が沈黙をもって答えると、死神は続けた。
「では、最後の記憶について聞かせてもらおう」
「盗人に斬られた。それだけだ」
無口な男に苦笑を浮かべつつも、しばらく逡巡した後で死神は「あい分かった」と言って組んだ腕を解いた。
「さて、ひとまずこちらからの用件は済んだが……お前はこれからどうする?」
「どうする、とは何だ?」
「生きるか死ぬか、だ」
「選べるのか?」
「こちらに来た断片についてはともかく、ここに残っている以上お前の状態は事故による幽体離脱だ。彼岸へ渡れば断片と再会し、然るべき処遇を受けられるだろう。肉体に戻るのであれば、我々はそれを止める権限を持たない。死と呼ぶも生と呼ぶも、お前のこの後の行動次第だ」
男は悩んだ。だが、不思議とそれは以前に比べて明瞭な思考をもって行われた。
以前の彼であれば体を襲う違和感――魂の欠乏は差し迫った渇望として彼を怒鳴りつけ、駆り立てただろう。しかし、今の彼にはそれが無かった。
理性的な思考をもって自分を取り巻く万物に、自らの人生に対して意味付けをしたとき、大切なものは二つしかなかった。すなわち剣と、愛である。
「一つ、頼まれてくれるか?」
男は棺に目を落とした。
「誰にも知られずに蘇りたい」
「ふむ……一応、理由を聞いておこう」
「盗人を追わねばならん。いつ戻るとも知れぬ旅だ。別れは、一度でいいだろう」
死神は「そうか」と言ってから少しの間考えるそぶりを見せる。
「埋葬後の肉体を痕跡無く取り出すことなら可能だ。十分か?」
「痛み入る」
翌日、男は手筈通り屋敷の外に取り出された体に戻り、復活した。旅支度をしようにも、携えるものは何もない。男が歩を進めようとすると、死神が呼び止めた。
「一つ、言い忘れていた。再び生に還るのであれば、旧い名は捨ててゆくがいい。お前の名は既に彼岸の台帳に連なった。生ける死人など、妖のほかの何でもあるまい」
名付け親に思い入れは無くとも、その名で呼んでくれた者のことを想えば悲しみも生じる。だからこそ男は未練を絶つため、死神に新たな名を求めた。
「ほう、私に問うか。……よかろう。ではその欠けた魂をもって一個と成し、人の道を外れぬことを祈ってこの名を授けよう」
その日、魂魄妖忌の長い旅が始まった。