第5話フィレンツェ宴席でのハルドゥーン

文字数 1,699文字

ハルドゥーンの集団は、いつの間にか、ビザンティン風の衣装に着替えている。
色合いや模様も華やかであり、絹で織られた衣装である。
それぞれに楽器を携え、宴席の中心で、ジプシー音楽を奏で始めた。

「あの、衣装だけでも、ローマ以東の、豊かさを否応なしに身に知らされてしまいます」
司教はシャルルの横に座り、苦笑いを浮かべている。
「確かに、ローマは世界の中心ではありますが、あくまでも政治上というか軍事上のことで、文化や富の蓄積という面では、東方には及びもつかない」
ミラノの司教も、時折は、東方の豊かさをシャルルに語ることはあった。
しかし、ここフィレンツェの司教の、東方についての話し方は、「冷静な分析」というよりは、それ以上に東方に対する「憧れ」のようなものが強いのではないか・・
シャルルは、ジプシーの踊りをうっとりと見つめ、音楽に手を叩く司教の想いを、そう感じ取っている。

音楽と踊りが、最高潮に達しようとする時、ゆっくりとハルドゥーンが、ジプシー集団の中心に向かう。
宴席に連なる全員が、ハルドゥーンに割れんばかりの拍手を浴びせる。
司教は音楽と踊りに酔いしれ、すでに陶然とした顔になっている。

ハルドゥーンは、ステージの中心に立つと、両手で全員の拍手を制した。
そして、その眼を一旦閉じる。
宴席全員が、ハルドゥーンの一つ一つに動きに集中するなか、ハルドゥーンはその顔を星空に向ける。
胸の前で十字を切ると、低い声で何かを語りだした。

「・・・アラム語では・・・」
シャルルの顔色が、変わった。
「・・おそらく・・・主イエスがヘブライ語と同じように、日常的に使われた言葉と・・」
「その通りで・・」
司教の顔が緊張している。

「今・・・ラテン語に・・」
「やはり・・・ヨブ記・・」
シャルルは、姿勢を正している。
「しかし、ここでヨブ記とは・・なぜ、ヨブ記・・・」
司教の肩が震えている。
「うん、やはり、ハルドゥーンの底は深い」
シャルルの瞳が、輝いている。


ジプシーの奏でる音楽が変わっている。
ハルドゥーンの低い声に合わせて、時折、竪琴を弾くだけである。
そして、その静かな響きが、緊張感を宴席の全員に与えている。
「おそらく、聞いている人たち、聖職者たちも含めて、内容は理解できていないと思われます」
「ここフィレンツェでも、私が形式的な祈祷や説教は行っています」
「しか、ヨブ記など ・・本格的なものになると・・」
「おそらく単なる呪文のたぐいと聞いているのでしょう・・」
フィレンツェの司教は、少し哀しげな表情である。
「内容はわからないかもしれません。しかし、ハルドゥーンの語りは、確実に、心を捉えています。」
シャルルは、司教の哀しみと布教の徒労からくる空しさを理解している。
ここに集まっている有力者たちは、表面上はキリスト教の信者であり、献金も多額である。
しかし、内実は、それぞれの社会的な地位の保全のため、「便宜的に改宗」した人々がほとんどなのである。

「心からユダヤ由来の神を拝む人がどれだけいるのでしょうか」
「そして、それは聖職者たちにおいても、同様なのです」
「世間の風向きが変われば、どうなるのかは全くわかりません」
司教は、ますます哀しそうな顔をする。

ハルドゥーンの言葉が続いている。
「高潔なヨブ・・・住民の中でも特に高潔であった。
七人の息子と三人の娘、そして多くの財産によって祝福されていた。
ヨブが幸福の絶頂にあった頃のある日、天では主の御前に「神の使いたちが集まった。
そして、その中にサタンも来ていた。
主はサタンの前にヨブの素晴らしさを示す。
サタンにしても、ヨブの義を否定することはできない。
しかし、サタンは、ヨブの信仰心の根拠を怪しみ、
ヨブの信仰は利益を期待してのものであって、
財産を失えば神に面と向かって呪うだろうと指摘する」

ハルドゥーンの言葉は続いていく。
見上げると満天の星が輝いている。
「ハルドゥーンのあんな真面目な顔・・・初めて」
メリエムはシャルルの隣にそっと座った。
「少し寒くなってきたね。」
シャルルはメリエムの肩を抱いた。
「私にとっては、ヨブとかなんとかより、この温かさが、神様そのもの・・」
メリエムの頬が赤くなっている。
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