第3話
文字数 1,642文字
浅草にある 柳北小学校の新任教師、 龍泉寺 拓臣は5階のビルの窓から王子神社の鳥居を見下ろし、大きなため息をついた。神社前の本郷通りは高度成長期のマイカーブームの影響もあって、よく渋滞するようになっており、時折鳴らす車のクラクションが騒々しい。
「君は、僕のことを全て忘れて生まれてきたというのか・・・」
拓臣の脳裏には前生の記憶が蘇った。
亜也子と別れたのは1904年の明治37年5月30日、日露戦争へ出征した日だった。生まれたばかりの娘、 奏絵を抱いた亜也子が家の門の前に立つ。新緑の柳が微風に揺れる。亜也子は細く白い指で拓臣の手をギュッと握った。亜也子の眼差しが温かい色を帯びている。
「拓臣様はきっと生きて戻られます、亜也子には軍服を着た拓臣様が奏絵の女学校入学を祝う姿も、結婚を祝う姿も見えております。拓臣様、戦地ではお辛いことも多うございましょう、苦しいことも多うございましょう。ですが、拓臣様、私の 心視に間違いはありません。どうかご安心なさってくださいませ。亜也子は拓臣様のご帰還をきっと、きっと信じております」
拓臣は涙を浮かべる亜也子の肩に、そっと手を置いた。奏絵はすやすやと寝息を立てている。亜也子の身体が微かに震えていた。
「亜也子、君の 心視を信じるよ。僕は大丈夫だ。僕たちはやっと夫婦になれたんじゃないか。これまで父娘で生まれたり、姉弟で生まれたり、なかなか夫婦になれなかった。最後に夫婦だったのはいつだ。初めて出会った平安の世じゃないか。やっと現世では共にに生きてゆける・・・そう思ったら、この戦争だ。僕は君でなければダメだ。僕の人生には君だけでいい。もう君の側から離れたくはないよ」
亜矢子の頬に涙が幾筋も光る。
「拓臣様。私も、拓臣様と共に歩む人生が訪れ、心から感謝しています。今世で、やっと夫婦になれる出逢いとなって、亜矢子は本当に嬉しゅうございます。こうして私たちに初めて子どもが授かったんですよ。この千年、どんなに長くこの時を待っていたかと思うと・・・」
嗚咽する亜矢子の声は声にならなかった。
「亜矢子、待っていてくれ。僕は必ず君の元に帰る。心から愛している。この気持ちは永遠に変わらない」
拓臣も涙をこらえて背を向けた。振り返って亜矢子を見たら、任務も使命も全て投げ出してしまいそうだった。 亜矢子は声を出さずに泣きながら、拓臣の出征していく背に向かい手を振り続けていた。
亜也子の言った通り、拓臣は 旅順総攻撃で作戦失敗により左肢に 銃創を受け、9月10日に戦地から帰還した。しかし亜也子は1年のうち一番の 厄日である9月1日、 大禍時の瞬間移動を妖魔に狙われて命を落としていたのだった。それからの拓臣は左肢が不自由なまま、軍の医者である医監の任務が解かれ、軍から徴集を受けることもなく、家業の 醫院を継いだ。確かに、奏絵の女学校入学や卒業、更には結婚まで見届けたが、1915年、各地で治めていた 修験者の一部が反旗を翻した挙句、妖魔に取り込まれてしまった。
世の中が戦争に突入している中で二神獣しか召喚できず、妖魔との戦いで深手を負い、拓臣もまた命を落とした。やはり四神獣の力、願わくば五神獣の力を得たい、その心と亜矢子への思いから今回は早く転生した。
亜矢子もきっと同じ思いでいるはずだ。だとしたら、いつもより早く亜矢子も転生しているだろう。それに奏絵が子どもを産んでいたとしたら、我ら一族の血を濃く強く引いているはずだ。もしかしたら奏絵もまだ存命しているかも知れない。一刻も早く、亜矢子や娘の奏絵、そして奏絵の子どもを探しあてたい。
平安から 虎視眈々と人身を狙ってきた妖魔や鬼が、江戸末期の戦乱に乗じて随分と数を増やしている。我らの力で、戦争のない平和な大和を維持しなければならない。それがこの力を 賜った我ら一族の使命だからだ。それにしても・・・と、拓臣はまた大きく、ため息をついた。
「今度の転生は失敗したのか、亜矢子・・・」
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