第6話 

文字数 2,044文字

「えろう、すんません、姉さん、ほんとにすんません。勘弁してやってください」
ひたすら謝るパンチに、

「蝶々も、鳥越の若い衆に色目使って(たら)し込んじゃって、まあ。ほんと、いい根性してるわ、あんた」
 初音はそう捨て台詞を吐き、(びん)付け油の匂いをまき散らしながら、これみよがしに着物の肩を手で払いながら去っていった。

パンチの横で蝶々美花はまだぐずぐず泣いていて、生後半年の子どもは目を開けて何事もなかったようにパンチを見ている。その時、蝶々美花に抱かれた胸で、子どもの目の底から赤い炎らしきものがチラっと光り、小さな唇から低い声で「(えん)じゃぁ」と発し薄笑いを浮かべた。が、交通事故以来、視力の弱くなったパンチにも、涙が止まらない蝶々美花は子どもの異変には全く気づかなかった。

 パンチは蝶々美花が哀れでならなかった。ゼンザと駆け落ちしたのが15才だと聞いている、それから一年、まだ16才の小娘が生まれて間もない赤子を抱いて、古女房に「泥棒猫」「あんたさえいなかったら、楽々は立派な噺家になれたんだ」「このサゲマン」と、言いたい放題言われる姿を見ると、自分がボクサーとして復帰できないと知れたときに、周囲からさんざん悪態をつかれたこと重なってくる。

「さあさあ、蝶々さん。初音の姉さんはもう行ったから、安心して帰りなよ」
「でも、私・・・ごめんなさい、パンチさんを巻き込んでしまって・・・とんだトバッチリで・・・」
蝶々美花の嗚咽(おえつ)は止まることなく、その場に固まって動けないでいる。

これは一人で帰すわけにも行かないかと、パンチは車で待っているマサに頭を下げて、もう行っていいですからと手振りで示した。車中で頷くマサを見て、パンチはもう一度、マサに頭を下げる。

「蝶々さん、家まで送っていきますよ、いいですかい」
蝶々美香はコクンと首を振る。

パンチは蝶々美花の肩に手を置き、並んで左衛門通りを歩きだした。ゼンザのやつ、こんな可愛い女房を置いて、取り立てが終わったら、浅草の「キャバレーよしこ」に通い詰めていやがる。そりゃぁ、よしこママは30手前の女盛りで、あれもあれで色気あるいい女に間違ぇねえ。それにしてもだ。初音の姉さんはさておき、少女歌手、天才美人歌手と言われた蝶々美花を引退させちまって、晴れてねんごろになった途端、もう飽きたなんて、とんでもねえ野郎だ。許せねえ。パンチは怒りがこみあげてくる。

「蝶々さん、あんた、ゼンザの野郎にまだ惚れているのかい」
蝶々美花はパンチの言葉にハッとして、言葉もなく俯いた。

どうせそんなことだろう。一時は、惚れた、はれたで駆け落ちしても浮気ばかりして家にも寄り付かねえ、金もろくに入れねえ、そんな男をいつまでも惚れているわけはねぇってもんだ。

「蝶々さん、悪いことは言わねぇ。ゼンザとは別れて実家に帰んな。あんたはまだ若いから、いくらだってやり直しができる。今日にでも荷物をまとめるって言うなら、このまま俺が手伝うぜ」

「パンチさん、ありがとうございます。わたし、実家には帰れないんです」

「なんで? 駆け落ちしたことを親御さんはまだ怒っているのかい」

「違うんです。両親は早くに亡くなり、叔父夫婦に育てられていたんです。中学を出るころ、もうトルコに出られる年齢だから稼いでこいって言われて家を飛び出したんです。それっきり、戻ったこともなくて。だから、もうどこへも行くあてなんて・・・」

 不幸はついて回るもんだな、と、パンチは視力の弱くなった目に涙を浮かべた。
「蝶々さん、だったら俺んところへ来いよ。俺が蝶々さんも、坊主の面倒も全部見てやるさね。あっ、いや、その俺のことが嫌だって言うんなら、無理にとは言わないが・・・」
 急に口から本音が出てしまい、パンチは頭をポリポリ()いた。

「あの、嫌なんて、そんなことありません。でも、パンチさんに迷惑がかかるんじゃないかと思うと」

「えっ、本当かい?」
 仰天したのはパンチの方である。一周り以上も年下の小娘にからかわれているんだろうか、それとも素直な性格なのか、こんな大事なことを一つ返事できる訳はねえんじゃねえかと、蝶々美花の顔を覗き込む。見たところ嘘をついている素振りはない。だとすると、それほどまでに身の振りを考えていたってことか。パンチは蝶々美香への愛おしさがさらに募った。

「なあに、ゼンザの野郎は去る者は追わずってやつさ。おめえさんが家を出たと知ったら、すぐにでも合点するさ」

「あの、本当ですか、私なんか・・・この子も小さいし。でも、私なんかのために」

「いいってことよ。俺に任せな、悪いようにはしねえ。まあ、すぐに所帯を持とうなんて考えちゃいねえ。俺は夜になったら鳥越商事に泊まるから安心しなよ。それに、なんつうんだ、まあ、それだけじゃねぇけどな」
 惚れてるんだよ、初めて見た時からずっと、と喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。蝶々美花の頭を撫でると、コクンと首を縦に振った。蝶々、俺は金輪際、おめえを泣かせたりしねぇよ。そうパンチは心で呟いた。
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登場人物紹介

福宮 アヤコ(ふくみやあやこ):浅草の柳北《りゅうほく 》小学校に通う6年生の女子。両親が失踪した過去を持つが明るく前向きな性格。勉強はあまり好きではないが、成績は標準になるよう気をつけている。祖父も鳥越《とりごえ 》商事のクセの多い社員も慕っていて、社員からもアヤコは可愛がられている。ある日、蔵の中から放たれた碧い光りを浴びたことにより、突然不思議な力に目覚めていく。


福宮政太朗(ふくみやまさたろう):アヤコの祖父。生まれも育ちも浅草鳥越。江戸時代から続く日銭《ひぜに 》の金貸しで鴉金屋《からすがねや 》の家業を継いだ。親兄弟は全員戦死している。今は鴉金屋の名称を変え鳥越商事有限会社の社長として治まっている。政太朗の妻はアヤコの生まれる前に他界。娘のトワコに婿養子を迎えたが、トワコが失踪後、婿養子は出奔した。それ以来、男手ひとつでアヤコを育てている。かなりの負けず嫌い。鳥越神社のお祭り男でもある。


松葉正太郎(まつばまさたろう):通称マサ、マサ兄《に 》い。本名を知る人は少ない。額に斬られた傷を持つ。昼でもサングラスをかけ、白いスーツに黒いワイシャツ、赤いネクタイ、白い靴の服装を好む。時々、バイクでどこかへ出かけている。口数も少なく謎めいたところがある。


マクノウチさん:元前頭力士の五月海山(さつきかいざん)。痛風が悪化したことで30歳で引退したが、120kgの迫力ある巨体を政太朗が目をつけ、鳥越商事の取り立て家業として社員にした。口が悪いため、ささいなケンカが絶えないが根に持たない性格。鳥越商事に来てから30kgの減量に成功したことを自慢している。浅草出身。

トビさん:上野池之端の大工で棟梁鳶辰の息子。通称は池之端の辰一。中学校を卒業して15年目に棟梁になったが、36歳の年に銀座で建築中のビルから、見習い職人をかばって転落し、左腕を複雑骨折して家業を放棄した。父親の大工棟梁が政太朗と同じ鳥越神社のお祭り男のよしみで口添えされたため社員となった。

ジンギさん:元浅草金杉組のヤクザ、三筋豪。通称は三筋の兄貴。組内で若頭の地位を争っているところ、相手の策略にハマって小指を落とすことになった。ケンカっ早く博打好き。政太朗とは麻雀店で知り合っていて、事の経緯を知った政太朗がヤクザ稼業から足を洗うように勧め、カタギになる約束で鳥越商事で働くこととなった。

パンチさん:元ライト級のプロボクサー、ビクトリー勝田。日本チャンピオンとなり多額のファイトマネーが入ったため、スポーツカーを購入したが、その車で交通事故を起こして視力が悪化してしまう。再起不能と診断されたことでプロから引退する。しばらく無職の生活を送っていたが、中学時代の同級生で元前頭力士の五月海山が鳥越商事に入社したことを知り、政太朗に頼み込み、鳥越商事に入社した。

ゼンザさん:元落語家で前座まで上った根岸亭楽々(ねぎしていらくらく)。根岸亭の師匠の娘、初音と相思相愛になり、初音が妊娠したことで破門されるが、噺家として人気が出てきていたところだったため、師匠も謝罪を受けとめて結婚することで許された。子どもも生まれ3人家族で過ごしていたが、地方に寄席の出張公演した帰り、たまたま遊びに行ったキャバレーで16歳の演歌歌手「蝶々美花」に一目惚れし、二人で駆け落ちした。再度、落語家は破門、根岸亭とは絶縁となっていたが、鳥越神社のお祭りで景気の良さそうな鳥越商事を目にして、政太朗に雇ってくれるよう頼み込み入社した。

龍泉寺 拓臣(りゅうせんじたくおみ):アヤコの通う柳北(りゅうほく)小学校の新任教師。実家は龍泉寺製薬株式会社で、龍泉寺家は平安時代に源氏、平氏と並ぶ橘氏、橘諸兄(たちばなのもろえ=葛城王)を祖に持つ家系であり、呪術道を極めた修験者の長として各地で秘密裏に活動させている。千年以上前世からの記憶を忘れずにいる体質を持ち、特殊な能力も合わせ持つ。

花川戸みつ(はなかわどみつ):政太朗の遠縁。福宮家のお手伝いさん。

清島奏絵(きよしまかなえ):アヤコの通う柳北小学校に転校してきた6年生の女子生徒。実家は清島建設株式会社で、県犬養橘三千代(あがたいぬかいたちばなのみちよ)を母とする葛城王の弟で橘佐為(佐為王)を祖に持つ家系であり、霊力を持つ歩き巫女を束ねる一族。龍泉寺拓臣と同じく、千年以上前から前世の記憶を持ち、霊力と合わせた特殊能力を使える。

真島艶乃(まじまつやの):アヤコの通う柳北小学校、6年1組の担任教師。実家は千葉の醤油蔵元で真島醤油造場。蔵元の一人娘で跡継ぎだが、公務員の教職に憧れ、都内で一人暮らしをしている35歳。思い込みが強くプライドが高い性格。ときどき生徒を見下すクセもあるため、真島を慕う生徒はおらず、当然生徒の人気もない。

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