刀とノコギリ――丸山健二作品への愛と憎悪
文字数 3,018文字
休日の特別授業に出てきた上級生。昼過ぎの善光寺高校文芸部の部室には狛村日和、高崎玲奈、京泊孝彦がいた。
狛ちゃん、丸山健二さんの作品を本棚に入れたいんだけど。
『おはぐろとんぼ夜話』……うわっ、分厚いなあ。しかも上下巻。
特殊な改行を使うようになったせいかしらね。とはいえ丸山さんは長野県出身で唯一の芥川賞作家だし、県下の高校の文芸部としては棚に置いておきたいわ。
意識高いねえ。わたしも丸山作品には好きなものが多いけどさ。
高崎に読まされたから、なんだかんだで既読が多いんだよな。俺は圧倒的に初期作品が好きだが。
私見だけど、丸山作品は初期、中期、後期の三つにはっきり分けられると思う。デビュー作にしていきなり芥川賞を獲った「夏の流れ」が1966年。そこから『野に降る星』が出た90年までが初期。
でも、この期間の作品を分類するのは極めて難しいわ。最初期はハードボイルドのような簡潔な表現で人物を切り取っていた。けれど途中からは幻想的な表現を織り交ぜて、リアリズムと幻想が渾然一体になった独特の世界観を作り出していったの。
例えば72年に出た短編集『三角の山』。ここに収録されている「満月の詩」という短編はその路線の収穫だと思ってる。かと思うと、79年の『アラフラ海』という短編集ではリアリズム路線の作品が多かったりで、時期によって分けるのは難易度が高い。
でも三つのステージに分けられるということは、明確な区切りがあることはあると。
そうね。やっぱり92年に刊行された『千日の瑠璃』が大きな転機になっている。
『千日の瑠璃』は千の視点から街と人を語るっていうとんでもない趣向だったな。それだけ視点がある分、当然分厚い本になる。
『千日の瑠璃』以降、丸山作品は重厚長大化し始めるわ。単巻でも分厚かったり、上下巻の作品が目に見えて増えていく。文体も変わって、行動描写主体の文章から思想が押し出された文章に変化する。そして森羅万象への言及が増える。
個人的な見解としては、2014年の『トリカブトの花が咲く頃』からを後期と見るわ。13年にメルヴィルの『白鯨』を超訳した『白鯨物語』を出して、次のステージに入ったということね。
確かに、『トリカブト』以降は詩のような文体で書かれるのが基本になっているな。句点読点がほぼなく、一行の半分くらいの分量で次の行へ移行する。行頭のスペースがだんだん大きくなって、文章が左へ下っていくのが視覚的にわかる。で、半分をまたいだら再び上に戻って左下へ降下していく。これ自体は他の作家もたまにやることだが、続けているのは丸山健二だけだろう。
お二人のベストを聞いてみたいな。わたしは『月に泣く』。さっき玲奈ちゃんが言った、リアリズムと幻想が混じり合った作品ってことになるのかな。場面を細かく切りながら人物像を浮かび上がらせていくんだ。
迷うところだけど、『ぶっぽうそうの夜』を挙げておこうかしら。復讐譚という筋を持たせつつ、村や街――様々な人間社会への批評も展開している。文体の圧力も強くていいわね。ちなみにぶっぽうそうは野鳥の名前よ。念のため。
俺は三作目の『明日への楽園』だな。この頃はまだ会話を使っているんだ。時期が進むにつれて丸山作品からはカギ括弧を使った会話がなくなっていく。会話が際だって上手いかと言われると微妙だが、その人物の辿ってきた人生がうっすら見えるような言い回しを的確に選んでいる。
全員2000年より前に出た作品を挙げたね。重厚長大化はわかりやすい変化だけど、他にも変わっていったところはあるのかな。
『千日の瑠璃』以前の作品は、特定の場面だけを切り出し、そこに登場人物の人生を凝縮させて映し出すって感じなの。刀で棒を横に切って、限定的な面を見せるような。
対して『瑠璃』以降は人物や世界を徹底的に描き込む方向に進んでいった。棒を縦に置いて、ノコギリでもっと長く広い断面を露出させるようにね。
ぶっちゃけると、俺は13年の『風を見たかい?』あたりから疑問を覚えるようになったんだよ。改行についてはいいんだ。問題は言葉の選び方でさ。
福田和也さんは『作家の値うち』の中で、『虹よ、冒涜の虹よ』に対して「夜郎自大な文章」と批判していたけど、そういう?
ちょっと違う。初期作品はさ、誰もが普通に使っている言葉を、普通の人なら思いつかないような組み合わせにして文章にしていたと思うんだよ。ネット上で触れられてたのは『黒暗淵の輝き』の冒頭かな。そこに本があったはずだ。
丘のいただきにそびえ立つ杉の大木のてっぺんに、陽が昇った。昇った瞬間、上下左右にわかれた梢の枝のために、光が十文字に裂けた。丘をとりまく円味をおびた低い山々や、杉の真下に拡がる台地や、台地の周囲の谷間に無数の濃い影が生じた。それは朝露に濡れた緑色の影だった。杉の大木の影は、開かれた水門から流れるダムの水のように、一直線に長さを増して行った。つららを思わせる梢の尖端は、草に覆われた二本の小川を横切り、ススキの原っぱを渡って、行手にある何もかもを貫き、台地を真っぷたつに区切った。
すごく映像的な文章だ。頭の中にイメージが一気に広がってくる。
だろ? こういう文章を平然と書いちゃう人なんだよ。だが近年の作品だと「この世界観にふさわしいのだろうか」って首をかしげる四字熟語とかカタカナの単語が出てくる。さっきの『風を見たかい?』で言うと、これは気ままにさすらう泥棒の話なんだ。初期のような文章で軽やかに行くかと思えばそうじゃない。やけに思想が前面に出ているし、ヒートアイランド現象とか公序良俗とか、かつてならもっと別の言い回しで表現していたはずの言葉が出てくる。俺はそれがどうしても引っかかった。
煮えくり返るような暑さの表現なら、真夏の路上教習を描いた「ひまわりの道」という短編で実践例を示しているものね。
俺は平易な言葉で斬新な表現を組み立てる人が好きなんだ。初期作品はまさにその理想型だった。それだけにこの変化が、俺にとってはかなりつらいんだよ。
高崎が第三ステージ最初の作品と見ている『トリカブトの花が咲く頃』にしても、草原の一人称で文明批判とか人類批判とかをするわけさ。でも、「それって人間側に立脚した発想だよね」っていうのにもぽつぽつ出くわすんだ。語り手の「巡りが原」と書き手の丸山健二、両者の瞬間的な乖離を感じて現実に引き戻される。これを「深化する文学」って謳われてもはっきり言って戸惑いを覚えるし、文学論を語った『真文学の夜明け』もなぜか小説と同じ文体で困惑するしかないしな……。
まさかドマリー先輩がそこまでのめり込んでいたなんてね。意外だったわ。
……なんか俺の愚痴みたいになって申し訳なかったな。ともかく、俺は丸山健二が好きであり、嫌いでもある。ふるさと出身の作家だから余計に悩ましいけど、この先も作品を手に取り続けるような気はしているよ。
感情がこんがらがったら好きな作品を読み返せばいいさ。
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