第1話 あおり運転
文字数 2,387文字
山口良一は首都圏近郊の農家の長男として育つ。稼業の方は両親の代に早々に廃業し、都内への利便性を鑑みて、地元の不動産業者の誘いもあり、マンション経営に鞍替えしてしまった。(広大な土地を担保にマンションを建て、販売したり賃貸したりして儲ける)バブル景気の真っ只中で大成功を収める。
所有の500坪の田畑は数億に化けた。良一はいまこの恩恵にかろうじてあやかっている。いくら金があっても働かない「小原庄助」(民謡・会津磐梯山に登場する朝寝、朝酒、朝湯が大好きで身上(しんしょう)を潰した人)さんではいつしか枯渇する。
現在では、5年前に亡くなった両親の預貯金も食い潰して、事業を売却した不動産会社との契約から毎月支払われる25万円でなんとか生活している。自宅はマンションの1階に提供されていて、住居費がかからない分気楽といえる。
妻は、両親が経営していたマンション管理会社の社員だった。彼女にしてみれば、バブル当時全盛を誇った会社を乗っ取ることにまんまと成功した訳で、玉の輿に乗った気分だったに違いない。けれどバブルはいっ時の砂上の楼閣、瞬く間に破裂して、残ったのは築40年もののマンションの一室のみ。まさに、狐につままれた気分だろう。
良一は今朝も20年前に新車で購入したフェアレディzを磨く。楽しみと言えばこれしかない。購入当時は人気のスポーツカー。今でもカスタマイズを施す。新型車は垂涎の的だが、還暦でローンを組めない彼には高嶺の花子さん。既存の車を磨き上げて満足するしかない。
同じ駐車場には幸いなことに軽自動車ばかりで、見劣りさせられるようなものはない。ぴかぴかの車でいつも近在を一周し、いきつけのパチンコ屋に寄る。ジェットサウンドマフラーで爆音を放つから、彼の存在は衆目を集めることになる。
彼にはそれが自慢。恰好がいいので見てくれている、そう信じて疑わない。気に入らないことは、妻が決して助手席に乗りたがらないことだ。狭くて座りにくいし、運転が乱暴でコワイと拒否る。いつしか彼女は自分の小遣いで中古の軽自動車を購入し、買い物などに出掛けるようになっている。何を考えているのやら。
運転席に乗り込むと、もはや戦闘機のコックピットにいる気分になる。ミサイル発射ボタンでもあれば「トップガン」のヒーロー。その敵は、交通法規を護らない他車。もしくは自分勝手な運転をする輩。
警察官を自任する良一は常に他車に眼を光らせる。この場合の規範は自分の運転。せっかくのスポーツタイプなので子気味のよいドライビングがモットー。こだわりのマニュアルシフトチェンジは腕の見せ処。また、赤いキャリパーの特別仕様のブレーキシステムは、右左折時に減速加速動作をスムーズに演出してくれる。
いちばん苛立つのは速度制限以下のトロい車、もしくは突然割り込んでくる不法侵入車。こっちは気持ちよくシフトを刻みスピードに乗っている。サウンドも低から高へと頂きに昇って行く調べ。その最中に邪魔される。
大概は、軽自動車の高齢者か女だ。クラクションをけたたましくがなり立てる。しばらく追走し、赤信号で停車しようもんなら、わざわざ車を降りて邪魔した車の運転手に文句をつけに行く。多くは謝るが、ボケた高齢者は知らん顔をしてやがる。そんな奴にはウィンドウを叩いて暴言を浴びせる。
今日は意味もなく車線変更をして来て、円滑な進行を妨げた20代の男女を、1キロ先のコンビニまで追尾して罵声を浴びせた。女の方はスマホを良一に向ける。動画を撮っていやがる。バカか。録画を警察に持って行っても、悪いのはムリに車線変更をしたお前たちの方だ。そんな理屈が分からないのか。世も末だ。
こんな良一だが、駐車場に戻ると様相が一変する。同じマンションの住人には、とにかく愛想がいい。のべつ幕無し車のそばに張り付いていれば、多くの住人に出逢う。彼はそのひとりひとりに挨拶をし笑顔を振りまく。登下校時の小学生にまで声を掛ける。運転中の蛮行を知らない人は、孫可愛さの好々爺としか思わないだろう。
ある日、いつものパチンコ屋からの帰路、我が家まであと1キロもない距離で、またしても割り込みに遭った。今日こそはノンストレスで走行出来る処だったのに。腹立たしい。坂道下の十字路を左折して一気に300メートル加速できるのに、左から軽自動車が侵入して来た。
いったい何を考えてやがる。オレの車が左折したことは見てるだろう。なんで行き過ぎるのを待てないのか? 頭に来る。いつものようにクラクションを鳴らし、ハイビームを浴びせ続けて追う。ハザードを出して謝っているつもりなんだろうが、許されることではない。これが警察だったら前方不注意で罰金を喰らう処だ。まったく悪質極まりない。
すると、違反車両はあろうことか、自宅マンションの方に走って行く。違うルートにはなるが追い続ける。やがて車両は真向いのマンションの駐車場に入る。あまりにご近所なので躊躇いもあっが、正義感はそんなことでは揺らがない。
隣の駐車場までわざわざ入り、停車位置に収まった違反者の元に近づく。やっぱり女だ。怖いのかドアを開けようとしない。良一は運転席の横に立ち、ウィンドウを開けるように催促する。女は固まっている。
「お前はなんていう身勝手な運転をするんだ。もう少しで事故になる処だったぞ!」
良一はありったけの怒鳴り声を浴びせる。無表情な態度に余計に苛立つ。どうせ家に戻るには車を下りなければならない。それまで待つつもりで居た。ウィンドウガラスを叩き降りるように促す。微動だにしない女性。
5分ぐらい経ったろうか。異様な怒鳴り声を聞きつけた見慣れた隣人が、駐車場に顔を覗かせた。これは不味い。温厚な人物像に傷がついてしまう。
「とにかくふざけた運転すんなよ」
良一は捨て台詞を吐き自車に戻った。
所有の500坪の田畑は数億に化けた。良一はいまこの恩恵にかろうじてあやかっている。いくら金があっても働かない「小原庄助」(民謡・会津磐梯山に登場する朝寝、朝酒、朝湯が大好きで身上(しんしょう)を潰した人)さんではいつしか枯渇する。
現在では、5年前に亡くなった両親の預貯金も食い潰して、事業を売却した不動産会社との契約から毎月支払われる25万円でなんとか生活している。自宅はマンションの1階に提供されていて、住居費がかからない分気楽といえる。
妻は、両親が経営していたマンション管理会社の社員だった。彼女にしてみれば、バブル当時全盛を誇った会社を乗っ取ることにまんまと成功した訳で、玉の輿に乗った気分だったに違いない。けれどバブルはいっ時の砂上の楼閣、瞬く間に破裂して、残ったのは築40年もののマンションの一室のみ。まさに、狐につままれた気分だろう。
良一は今朝も20年前に新車で購入したフェアレディzを磨く。楽しみと言えばこれしかない。購入当時は人気のスポーツカー。今でもカスタマイズを施す。新型車は垂涎の的だが、還暦でローンを組めない彼には高嶺の花子さん。既存の車を磨き上げて満足するしかない。
同じ駐車場には幸いなことに軽自動車ばかりで、見劣りさせられるようなものはない。ぴかぴかの車でいつも近在を一周し、いきつけのパチンコ屋に寄る。ジェットサウンドマフラーで爆音を放つから、彼の存在は衆目を集めることになる。
彼にはそれが自慢。恰好がいいので見てくれている、そう信じて疑わない。気に入らないことは、妻が決して助手席に乗りたがらないことだ。狭くて座りにくいし、運転が乱暴でコワイと拒否る。いつしか彼女は自分の小遣いで中古の軽自動車を購入し、買い物などに出掛けるようになっている。何を考えているのやら。
運転席に乗り込むと、もはや戦闘機のコックピットにいる気分になる。ミサイル発射ボタンでもあれば「トップガン」のヒーロー。その敵は、交通法規を護らない他車。もしくは自分勝手な運転をする輩。
警察官を自任する良一は常に他車に眼を光らせる。この場合の規範は自分の運転。せっかくのスポーツタイプなので子気味のよいドライビングがモットー。こだわりのマニュアルシフトチェンジは腕の見せ処。また、赤いキャリパーの特別仕様のブレーキシステムは、右左折時に減速加速動作をスムーズに演出してくれる。
いちばん苛立つのは速度制限以下のトロい車、もしくは突然割り込んでくる不法侵入車。こっちは気持ちよくシフトを刻みスピードに乗っている。サウンドも低から高へと頂きに昇って行く調べ。その最中に邪魔される。
大概は、軽自動車の高齢者か女だ。クラクションをけたたましくがなり立てる。しばらく追走し、赤信号で停車しようもんなら、わざわざ車を降りて邪魔した車の運転手に文句をつけに行く。多くは謝るが、ボケた高齢者は知らん顔をしてやがる。そんな奴にはウィンドウを叩いて暴言を浴びせる。
今日は意味もなく車線変更をして来て、円滑な進行を妨げた20代の男女を、1キロ先のコンビニまで追尾して罵声を浴びせた。女の方はスマホを良一に向ける。動画を撮っていやがる。バカか。録画を警察に持って行っても、悪いのはムリに車線変更をしたお前たちの方だ。そんな理屈が分からないのか。世も末だ。
こんな良一だが、駐車場に戻ると様相が一変する。同じマンションの住人には、とにかく愛想がいい。のべつ幕無し車のそばに張り付いていれば、多くの住人に出逢う。彼はそのひとりひとりに挨拶をし笑顔を振りまく。登下校時の小学生にまで声を掛ける。運転中の蛮行を知らない人は、孫可愛さの好々爺としか思わないだろう。
ある日、いつものパチンコ屋からの帰路、我が家まであと1キロもない距離で、またしても割り込みに遭った。今日こそはノンストレスで走行出来る処だったのに。腹立たしい。坂道下の十字路を左折して一気に300メートル加速できるのに、左から軽自動車が侵入して来た。
いったい何を考えてやがる。オレの車が左折したことは見てるだろう。なんで行き過ぎるのを待てないのか? 頭に来る。いつものようにクラクションを鳴らし、ハイビームを浴びせ続けて追う。ハザードを出して謝っているつもりなんだろうが、許されることではない。これが警察だったら前方不注意で罰金を喰らう処だ。まったく悪質極まりない。
すると、違反車両はあろうことか、自宅マンションの方に走って行く。違うルートにはなるが追い続ける。やがて車両は真向いのマンションの駐車場に入る。あまりにご近所なので躊躇いもあっが、正義感はそんなことでは揺らがない。
隣の駐車場までわざわざ入り、停車位置に収まった違反者の元に近づく。やっぱり女だ。怖いのかドアを開けようとしない。良一は運転席の横に立ち、ウィンドウを開けるように催促する。女は固まっている。
「お前はなんていう身勝手な運転をするんだ。もう少しで事故になる処だったぞ!」
良一はありったけの怒鳴り声を浴びせる。無表情な態度に余計に苛立つ。どうせ家に戻るには車を下りなければならない。それまで待つつもりで居た。ウィンドウガラスを叩き降りるように促す。微動だにしない女性。
5分ぐらい経ったろうか。異様な怒鳴り声を聞きつけた見慣れた隣人が、駐車場に顔を覗かせた。これは不味い。温厚な人物像に傷がついてしまう。
「とにかくふざけた運転すんなよ」
良一は捨て台詞を吐き自車に戻った。