第2話 平凡な主婦
文字数 3,314文字
青山春香は平凡なアラフォーの主婦。大体の家庭がそうであるように、いつまで経っても中古マンションも、ましてや一戸建て住宅も買えない。万年賃貸マンション暮らしだけど、せめて心地のよい場所にと、3年待ちで立地条件が売りの、新し目のUR賃貸に引っ越して来た。
予想通りに快適な環境で、春は桜、夏は近隣の遊園地の花火、秋は色とりどりの紅葉、冬は冠雪の富士山と、四季の恩恵にあずかっている。高校に入り立てと中学生の息子2人は近くの公立学校に通っている。もちろん専業主婦で済むほど家計は楽ではない。けれどコロナでスーパーでのパートを失った。それでも今は週に2度、3時間だけだけど、お弁当屋さんのバイトにありついている。
賃貸住宅にありがちな騒音問題も、新居ではさほど気にならない。以前には、頭の狂った隣の住人から壁を叩かれた経験もある。あとは、毎夜繰り返される風呂場での調子が外れたアカペラの熱唱とか、子供たちによる大運動会ハラスメントなどで、騒音には神経質になっていた。今回はセーフ。パートやバイトで一日、部屋を留守にしていれば、気にならないのかもしれない。しかし今はおうち時間がとにかく長い。
青山家の朝は洗濯から始まる。わんぱく少年たちは衣服を汚す。毎朝着ていく服に体操着、給食のエプロンなど、それにパジャマ。ベランダには干しきれないほどの洗濯物が居並ぶ。それらを干すのにザっと30分はかかる。
春香はきっちりとした性格。何でも皺を伸ばしてから干したい。こうすることでアイロン掛けは必要なくなるし、経験から長持ちもすることも知っている。さらに、Tシャツはこう、靴下はこう、と干し方に気を配る。ベランダの日照時間には限りがあるからだ。
さて、主婦業はどんなに大変でも、傍に上司がいる訳ではないので、幾らでも気分転換して楽しめる。春香はベランダからの眺望を満喫する。春夏秋冬、光景は絶えず変化する。逼迫する家計の中でもこれはタダ。
ほぼ丘のてっぺんに建つ青山家のベランダからは、南東方向が一望出来てよいはず。けれどそう上手くはゆかない。半分ほどは別のマンションに眺望を邪魔される。そこはURと大手デベロッパー分譲マンションの差かなぁ。邪魔してるマンションのベランダからは180度全開の景色が見えることだろう、羨ましい。
引っ越してきてから2回目の花見が過ぎて、ハナミズキの盛りを迎える。この街にはハナミズキ通りと称する並木道があるのだが、これも建物に邪魔をされてその半分しか見えない。それでも、ピンクに白と小ぶりな花弁がいかにも愛らしい。鳴き声が可愛いメジロがよく遊びに来ている。
自然の風景ばかりではなく、人間の営みも眼に飛び込んで来る。毎朝、定刻に出勤する女子が慌ててマンションの階段を駆け下りて来て、自転車にまたがる。もう少し早く家を出れば、ゆっくりと出掛けられると思うのだが、逆にますます切迫度がます。秒を削るのに命を賭けてるんだろうか。
そしてもうひとりの常連さん。年の功は50代、たぶん還暦近い。底冷えの朝でも炎天下でも、黙々と自家用車を磨いている。ある時は、いち日かけて何の意味があるのか、金ぴかのエンブレムをボンネットに付け、またある時は、ピンクに輝くLEDライトをヘッドライトの下に設えている。懐中電灯片手に、長時間中腰のまま、ただただエンジンルームを覗き込んでいることもしばしばだ。
よくもまぁ、あんなにやることがあるもんだ。青山家の軽自動車は一年中日の当たらない駐車場に停めたままなのに。そして、春香はこの人物に、恐ろしい思いをさせられた。
近所の坂道で、充分に距離があることを確認してから本線に入った筈なのに、爆音クラクションと共にあおり運転され、家の駐車場まで追われ、駐車したウィンドウガラス越しに猛抗議された。脚はすくみ上り、あの恐怖は一生忘れない。ご近所さんが出て来てくれて事なきを得たが、何をされていたか分ったもんじゃない。いま想い出すだにあの怖さが蘇る。
「あのジイさんはクルマ気狂いだよ。あの赤い車だろう。あれはフェアレディと言って、もう20年落ちのシャコタン (車高短と言って、通常の車高よりも低くくする改造方法) 売っても10万円にもならない」
バルコニーに出て来た夫が、その人物を見つめて言う。
「ああ、そうなの。なんで大事にしてるの?」
「自分じゃ格好いいと信じて疑わないんだろう。見る人がみればすぐ分るさ。ポルシェとかフェラーリなら納得するけど。大体のあのジジイは自分が全て正しいと誤解してるどアホだ。この前、夏休みにマンションの玄関口に会社のライトバンを停めて荷物の積み下ろしをしてたら、邪魔だから退けろ、とほざきやがった。スペースは充分あって、車の出入りなんてワケないのによ」
春香は納得した。自分と同じ実害があって、それで文句があるわけだ。
「この前も幼稚園前に停めてた配送業者に、わざわざ文句をつけに行きやがった。向こうは仕事してるんだよ。とんでもないバカ野郎だ」
確かに幼稚園は前のマンションの隣に位置しているが、クルマ一台停車していても、出入りにはとりわけ不便はないはず。夫はそうとうヒートアップしている。
「でも、あのオジさん、同じマンションの人達には愛想がいいわよ。磨いている車の横を通りがかる人には、気軽にニコニコしながら声掛けしてる。そのたびに手を止めるもんだから、車磨きは夕方までかかる」
「そういうヤツいるだろう。都合のよい人たちには笑顔を振りまいて、気に入らない奴には上から目線の輩。たぶん奥さんにはヤッカイがられて、家から外に追い出されてるんじゃないかな」
まぁ、確かに♀族には、亭主元気で留守がいい、だろう。しかも自宅前で愛車いじりを趣味にしている分には、悪さも出来ない。健全な遊びの範疇。見た感じお金がかかっているようには見えない。家でとぐろを巻かれているよりはずっといい。
だが、ツードア車の助手席は乗りにくそうだし、後部には荷物も積めない。奥さんが助手席に乗る処なんてみたことがない。普段の買い物などはどうしてるんだろうか。つい余計なことまで考えてしまう。
「ああいう自己中のヤツは気楽でいいよ、まったく。こっちはあちこちに気を遣って生きてるのにさ」
人の悪口は鴨の味、という。ただこの人はいざとなると、何も言えない事もよく知っている。蔭でデカイ口は叩くものの、相対すると怖気付いておとなしくなってしまう。
ついでにこの夫にはふたつ疑惑がある。ひとつはもう10年前から風俗通いをしていること。また、最近は素人のパパ活女子たちに興味を示していること。どうして知っているか? 答はス・マ・ホ。時々、盗み見る画面から、やっていることの全容がのぞける。
当人はロックをかけているから安心と思ってるんだろうが、一緒に暮らしていればロック番号なんてとっくに知っている。♂族は常に若い女子を求める。それは繁殖という行為に深く関わっていると、学生の時の生物の授業で習った。
2人の子を成しても生殖本能は衰えを知らない。健康な子供を産めそうな他の若い個体に関心が向かう。ただお金がない分、大それたことは出来ない。愛人などとてもてともムリ。せいぜいお小遣いの数万円で、夜職女子にお相手をしてもらうしかない。
春香自身も夫にはなんの興味もない。腹が出た禿のオッサン。普通の主婦がそうであるように、韓流ドラマのイケメンに憧れる。これも生殖本能と一環と言える。♂だけにあって♀にないことは在り得ない。恥ずかしいので声高に言えないだけのこと。
ピンポン!
玄関チャイムが鳴った。そうか、もうそんな時間か。断りに断って来た新興宗教〇〇の勧誘。次男の同級生の親だった。保護者会でいやに親し気だと思ったら、これだ。もう、2、3度予定が入った、調子が悪いと、逃げて来た。しかしもう、断る理由が見つからない。
30分でいいから教区長に逢ってみない。霊感があるのよ。隠していたことも言い当てられちゃう。そんな軽いノリだったから、まぁ、仕方がないか。夫と同様に春香も、いざとなると思ったことを口に出す勇気がない。
予想通りに快適な環境で、春は桜、夏は近隣の遊園地の花火、秋は色とりどりの紅葉、冬は冠雪の富士山と、四季の恩恵にあずかっている。高校に入り立てと中学生の息子2人は近くの公立学校に通っている。もちろん専業主婦で済むほど家計は楽ではない。けれどコロナでスーパーでのパートを失った。それでも今は週に2度、3時間だけだけど、お弁当屋さんのバイトにありついている。
賃貸住宅にありがちな騒音問題も、新居ではさほど気にならない。以前には、頭の狂った隣の住人から壁を叩かれた経験もある。あとは、毎夜繰り返される風呂場での調子が外れたアカペラの熱唱とか、子供たちによる大運動会ハラスメントなどで、騒音には神経質になっていた。今回はセーフ。パートやバイトで一日、部屋を留守にしていれば、気にならないのかもしれない。しかし今はおうち時間がとにかく長い。
青山家の朝は洗濯から始まる。わんぱく少年たちは衣服を汚す。毎朝着ていく服に体操着、給食のエプロンなど、それにパジャマ。ベランダには干しきれないほどの洗濯物が居並ぶ。それらを干すのにザっと30分はかかる。
春香はきっちりとした性格。何でも皺を伸ばしてから干したい。こうすることでアイロン掛けは必要なくなるし、経験から長持ちもすることも知っている。さらに、Tシャツはこう、靴下はこう、と干し方に気を配る。ベランダの日照時間には限りがあるからだ。
さて、主婦業はどんなに大変でも、傍に上司がいる訳ではないので、幾らでも気分転換して楽しめる。春香はベランダからの眺望を満喫する。春夏秋冬、光景は絶えず変化する。逼迫する家計の中でもこれはタダ。
ほぼ丘のてっぺんに建つ青山家のベランダからは、南東方向が一望出来てよいはず。けれどそう上手くはゆかない。半分ほどは別のマンションに眺望を邪魔される。そこはURと大手デベロッパー分譲マンションの差かなぁ。邪魔してるマンションのベランダからは180度全開の景色が見えることだろう、羨ましい。
引っ越してきてから2回目の花見が過ぎて、ハナミズキの盛りを迎える。この街にはハナミズキ通りと称する並木道があるのだが、これも建物に邪魔をされてその半分しか見えない。それでも、ピンクに白と小ぶりな花弁がいかにも愛らしい。鳴き声が可愛いメジロがよく遊びに来ている。
自然の風景ばかりではなく、人間の営みも眼に飛び込んで来る。毎朝、定刻に出勤する女子が慌ててマンションの階段を駆け下りて来て、自転車にまたがる。もう少し早く家を出れば、ゆっくりと出掛けられると思うのだが、逆にますます切迫度がます。秒を削るのに命を賭けてるんだろうか。
そしてもうひとりの常連さん。年の功は50代、たぶん還暦近い。底冷えの朝でも炎天下でも、黙々と自家用車を磨いている。ある時は、いち日かけて何の意味があるのか、金ぴかのエンブレムをボンネットに付け、またある時は、ピンクに輝くLEDライトをヘッドライトの下に設えている。懐中電灯片手に、長時間中腰のまま、ただただエンジンルームを覗き込んでいることもしばしばだ。
よくもまぁ、あんなにやることがあるもんだ。青山家の軽自動車は一年中日の当たらない駐車場に停めたままなのに。そして、春香はこの人物に、恐ろしい思いをさせられた。
近所の坂道で、充分に距離があることを確認してから本線に入った筈なのに、爆音クラクションと共にあおり運転され、家の駐車場まで追われ、駐車したウィンドウガラス越しに猛抗議された。脚はすくみ上り、あの恐怖は一生忘れない。ご近所さんが出て来てくれて事なきを得たが、何をされていたか分ったもんじゃない。いま想い出すだにあの怖さが蘇る。
「あのジイさんはクルマ気狂いだよ。あの赤い車だろう。あれはフェアレディと言って、もう20年落ちのシャコタン (車高短と言って、通常の車高よりも低くくする改造方法) 売っても10万円にもならない」
バルコニーに出て来た夫が、その人物を見つめて言う。
「ああ、そうなの。なんで大事にしてるの?」
「自分じゃ格好いいと信じて疑わないんだろう。見る人がみればすぐ分るさ。ポルシェとかフェラーリなら納得するけど。大体のあのジジイは自分が全て正しいと誤解してるどアホだ。この前、夏休みにマンションの玄関口に会社のライトバンを停めて荷物の積み下ろしをしてたら、邪魔だから退けろ、とほざきやがった。スペースは充分あって、車の出入りなんてワケないのによ」
春香は納得した。自分と同じ実害があって、それで文句があるわけだ。
「この前も幼稚園前に停めてた配送業者に、わざわざ文句をつけに行きやがった。向こうは仕事してるんだよ。とんでもないバカ野郎だ」
確かに幼稚園は前のマンションの隣に位置しているが、クルマ一台停車していても、出入りにはとりわけ不便はないはず。夫はそうとうヒートアップしている。
「でも、あのオジさん、同じマンションの人達には愛想がいいわよ。磨いている車の横を通りがかる人には、気軽にニコニコしながら声掛けしてる。そのたびに手を止めるもんだから、車磨きは夕方までかかる」
「そういうヤツいるだろう。都合のよい人たちには笑顔を振りまいて、気に入らない奴には上から目線の輩。たぶん奥さんにはヤッカイがられて、家から外に追い出されてるんじゃないかな」
まぁ、確かに♀族には、亭主元気で留守がいい、だろう。しかも自宅前で愛車いじりを趣味にしている分には、悪さも出来ない。健全な遊びの範疇。見た感じお金がかかっているようには見えない。家でとぐろを巻かれているよりはずっといい。
だが、ツードア車の助手席は乗りにくそうだし、後部には荷物も積めない。奥さんが助手席に乗る処なんてみたことがない。普段の買い物などはどうしてるんだろうか。つい余計なことまで考えてしまう。
「ああいう自己中のヤツは気楽でいいよ、まったく。こっちはあちこちに気を遣って生きてるのにさ」
人の悪口は鴨の味、という。ただこの人はいざとなると、何も言えない事もよく知っている。蔭でデカイ口は叩くものの、相対すると怖気付いておとなしくなってしまう。
ついでにこの夫にはふたつ疑惑がある。ひとつはもう10年前から風俗通いをしていること。また、最近は素人のパパ活女子たちに興味を示していること。どうして知っているか? 答はス・マ・ホ。時々、盗み見る画面から、やっていることの全容がのぞける。
当人はロックをかけているから安心と思ってるんだろうが、一緒に暮らしていればロック番号なんてとっくに知っている。♂族は常に若い女子を求める。それは繁殖という行為に深く関わっていると、学生の時の生物の授業で習った。
2人の子を成しても生殖本能は衰えを知らない。健康な子供を産めそうな他の若い個体に関心が向かう。ただお金がない分、大それたことは出来ない。愛人などとてもてともムリ。せいぜいお小遣いの数万円で、夜職女子にお相手をしてもらうしかない。
春香自身も夫にはなんの興味もない。腹が出た禿のオッサン。普通の主婦がそうであるように、韓流ドラマのイケメンに憧れる。これも生殖本能と一環と言える。♂だけにあって♀にないことは在り得ない。恥ずかしいので声高に言えないだけのこと。
ピンポン!
玄関チャイムが鳴った。そうか、もうそんな時間か。断りに断って来た新興宗教〇〇の勧誘。次男の同級生の親だった。保護者会でいやに親し気だと思ったら、これだ。もう、2、3度予定が入った、調子が悪いと、逃げて来た。しかしもう、断る理由が見つからない。
30分でいいから教区長に逢ってみない。霊感があるのよ。隠していたことも言い当てられちゃう。そんな軽いノリだったから、まぁ、仕方がないか。夫と同様に春香も、いざとなると思ったことを口に出す勇気がない。