第10話

文字数 1,118文字

 女の腿の傷から溢れ、(したた)るそれは、足の指の先で(たま)を結ぶや、ぽたり、ぽたりと落ちる。落ちれば、瞬時に地に吸い込まれて消えるが、その上から、そのあとから、間断(かんだん)なく滴り続ける。血としか思えぬのだが、なぜか水のように透明なのである。
 女の足元を凝然(じっ)と見つめているうちに、少年の中で黒い蛇のような想念が鎌首をもたげ、身体の内側を執拗に()い回り始める。異形の者が相争うて吸っていたもの。澄んだ水の如き血。舐めればたちどころに喉の嵐は静まり、この狂おしいまでの渇きも癒えるのではあるまいか。
 唇を地に押し付けようとして、少年ははっと我に返る。自分は一体、何をしようとしているのか。自分の考えの筈がない。蛇。そう、この蛇のせいだ。
 激しく頭を振って蛇を身のうちから追い出そうとする。ところが蛇は逃げるどころか、闇の底に悠々と蜷局(とぐろ)を巻き、鎌首を揺らし、炎の如き舌をちろちろと吐いてみせる。
 傷から直接吸おうというのではない。地に染み込んだそれを、ちょっと舐めてみるだけだ。そうすれば、この苦しい咳も少しは収まってくれるに違いない。ぽたり、ぽたり。また落ちる。また滴る。とうとう(こら)え切れなくなって、舌で女の足元の土を、ひとなめ舐めた。

 最初は殆ど土の味しかしなかった。でも味蕾(みらい)の一点に、灯でも(とも)した如く仄かな甘味が滲むや、板のように突っ張っていた舌が、嘘みたいに滑らかに動き出す。一度血の味を覚えた舌は、狂ったように更なる甘露を求める。地に滴り落ちるまで待ち切れず、腿から脹脛(ふくらはき)へ伝い落ちてきた、か細い流れを荒々しく舌で堰き止め、貪るばかりに吸いあげる。吸えば吸うほど甘く、うっとりするほど快い。今や自分の全身が、ただ一個の舌と化したように、上へ上へと這い登る。女の目から見れば、その姿はもはや最前の魑魅(ちみ)魍魎(もうりょう)と何ら変わるところなきあさましさ、(おぞ)ましさだったに違いない。

「お許し下さいまし、お許し下さいまし……これが(わたし)の身に残る最後の血、命の雫でございます。これを失いますれば、たちどころに息絶えます。こんなことならいっそ、あの妖怪どもに食い散らされた方がまだしもましでございました。……なまじ拾った命と思えばこそ、憂き世に未練も残ります。お許し下さいまし、お許し下さいまし。どうか、どうか。後生でございます、御慈悲でございます」
 綿綿(めんめん)と、嫋嫋(じょうじょう)と、()口説(くど)く女の悲しい恨み事に、少年の胸は張り裂けんばかりに痛む。しかし、自分の軀が自分のものでない。必死で引き離そうとする舌が、磁石に吸い寄せられる鉄片のようにまた近づく。吹き出る汗が目に沁みる。視界が揺れ、濁り、流れ、そしてゆっくり暗転する。

 闇の中に、透明な――いや、一瞬だけ、ぱっと紅い花弁が崩れて落ちた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み