第12話

文字数 1,359文字

「何よ、魂でも抜けたような顔をして」
 わたしはぼんやり顔を上げた。いつの間にか、母が帰ってきていた。
 母は週に一度、わざわざ市電で二十分もかけて公民館の合唱教室に通っている。何が楽しいのかわたしにはよくわからないが、母にとっては大切な時間らしい。
「あ、お帰り」
「お帰りじゃないわよ。わたしが入ってきても気づかないんだから。どこまでぼんやりしているの。大学の先生なんて聞こえはいいけど、非常勤講師の給料なんて雀の涙だし、わたしたちがいなくなったら、あんたひとり、どうやって生きていくつもりなの?」
「今度、お見合いでもしようかな」
「またばかなことを――」と反射的に言いかけた母が、急にまじまじとわたしを見た。「本気なの?」
「前言ってたじゃない? そういう話があるって」
「だってあんた、全然興味がなさそうだったから」
「気が変わったの」
 わたしはのろのろと、立ち上がった。身体の芯に鈍い痛みがあり、ひどくだるかった。仙骨は粉微塵(こなみじん)に砕けてしまったらしい。
 立ち上がるついでに、畳の上に落ちていた団扇を拾う。団扇の紙の中を、金魚が二匹泳いでいる。金魚はびっくりしたようなつぶらな目で、わたしを見つめた。
「そう言えば、最近慶ちゃん来ないわね」
 急に思い出したように、母は言った。
「きっと忙しいのよ。うちだって別に用事はないんでしょ」
「まあ、そりゃそうだけど」
「それより、お母さん」
「お見合いの話?」
「ううん。糸瓜の話」
 わたしはあっけにとられている母の方は見ないようにして言った。
「慶ちゃん()にもさ、昔は糸瓜棚があったんだよ。わたし、それをなぜかずっと忘れてたの。人って何かを思い出した時に初めて、そのことを忘れていたって気づくんだね」
「あんたの話って、いつも小難しいのよね。そんなことだから、ボーイフレンドもできないんじゃない。いい? どうして忘れてたのかって言うと、大事じゃないことだからよ。なんでもかんでも覚えてたら、頭がおかしくなっちゃうでしょ」
「大事じゃないこと。そうだね」
「で、お見合いの話だけど――」
「ねえ、お母さん。あの糸瓜、あのままにしておいてね。勝手に蔓を切って糸瓜水なんか取ったりしちゃだめよ」
「そんなことするわけないじゃない」
 母は呆れたように笑った。「昔の人じゃあるまいし」
「ありがとう」
「なんでお礼なんか言うのよ。あんた、今日ちょっとおかしいわよ」
「昼寝してたからかな。頭がぼんやりしちゃって」
「まあ、あんたって子はどこまで……」
 母はまた小言を言いそうな顔をしたが、きりがないと思い直したのか、気を変えるように声の調子を上げた。「でも、糸瓜棚ってなかなか風情があっていいわ。この窓から吹き込んでくる風は、特別涼しい気がするもの」
「うん。そうね」
 わたしは窓辺に()ると、団扇をまだ僅かに火照っている頬に押し当てた。
 糸瓜の葉が物憂い夏の午後の光を()すように(そよ)ぐ。光は、いつか見た夏の午後と同じ色をしている。戻ってしまったのか、あるいはずっと囚われているのか。とにかく、わたしの罪は未だ(きえやら)ず、犯した罪を全て償うまで、わたしは罰を受け続けねばならぬのだろう。なんだか、そんな気がする。
 
 ――母は、お見合いの話の続きを始めた。

                                      (了)
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み