第4話

文字数 1,063文字

「ん」
「ん、じゃねえよ。なんだよ、ひとりでにやにやして。気持ち(わり)ィな」
「顔近いよ、慶ちゃん」
 自分ひとりの考えに耽りがちなのがわたしの悪い癖。でも、慶ちゃんの顔も近すぎた。
 慶ちゃんの顔にはじっとりと汗が滲んでいる。
「外、そんなに暑かったの」
「そんな言葉吐くやつを、ぶん殴りたくなるくらい暑いよ」
 仙骨を持つ身には快い微風も、俗世間から紛れ込んできた者には下界の熱気が(まと)わりついて離れぬらしい。
 慶ちゃんは百八十(センチ)を超える長身に加え、実に充実した軀つきをしている。青春真っ盛りの高校時代を柔一筋に捧げたそうで、腕なんか丸太みたいだし、それが肩のあたりで盛り上がっているところなど、殆どアメリカン・コミックのヒーロー並みだ。
「慶ちゃんにぶん殴られたら、痛いだろうなあ」
 思わず独りごつと、マッチョさん、褒められたと勘違いしたのか、満面に得意の色を(みなぎ)らせ、丸々太った芋虫みたいな指を気持よさげにボキボキ鳴らしている。
「やだぁ、サディストの()でもあるんじゃないでしょうね」
「女を殴るは趣味じゃねえが、てめえには一回気合を入れてやらにゃあと前から思ってたのさ。まったく、こんだけだらだらしていて勤まるなんざあ、世に大学の中国語センセイほど気楽な商売はないみてえだな」
「だってわたしは、教授まで登りつめてやろうなんて野暮(やぼ)な下心は持たない高等遊民だもん。見苦しい野心さえ捨てちまえば、非常勤講師ほど楽なものはないのよ。一週間に何回か大学へ行って、適当なことしゃべって、時間がくれば、再見(ツァイ・チェン)
「なんて不心得な女郎(めろう)だ、教師の風上にも置けねえ。罪なき学生諸君になり代わり、今から鉄拳制裁だ。さあ、歯を食い縛れ!」
「ふうむ。そうだねえ、たまには気合を入れてもらうのも悪くないかもだけど」
「そうだろう、そうだろう」
 とまたボキボキ。
「でもさ、気合入れてもらうのはいいけど、慶ちゃんに本気で殴られたら、わたし、飛んでっちゃうんじゃないかしら。ほら、昔のアメリカのアニメみたいに、キャーとか叫びながら飛んでいって見えなくなっちゃうの」
「しばらくすると、またヒューッて元の場所に落ちてくるんだろ? それをまたピッチャー・フライみたいに打ち上げるわけだ」
「そんなことを二三回繰り返しているうちに、これがトドメだーみたいな感じで極めつけのパンチを食らわされ、哀れ乙女は放物線を描いて空の彼方へ消えていくのでした」
「乙女ときたか。まあ、いいや。そんでもって、最後は星になるんだろ」
「そう、ピカッと光って、おしまい」
「ピカッとね」
「あ、そうだ」
〈ピカッ〉で閃いた。
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