第3話

文字数 1,538文字

「じゃあ、心太(ところてん)食べたい。買ってきて」
「あのなあ、俺はパシリじゃないんだからよ」
 口をとんがらせて、慶ちゃんは不平を(のたま)う。詫びにきたと思ったのは早計だったか。
「仕事の()(ごの)みしちゃいけないんだよ」
「他にもっとマシなのがあるだろう。ほら、クーラー壊れているじゃないか」
「壊れてないよ。つけてないだけ」
「この暑いのに、お前は仙人か」
「ふふ、その言葉気に入った」
 ひとり悦に入るあたしを見下ろして、
「いい御身分だな」
 わたしは団扇を持ってないほうの手を額まで挙げて、
「すまん」
 といった。
「寝っ転がって敬礼ってあるかよ」
 ぶつぶついいながら、首筋にかけた手拭の両端で、ごしごしと顔中擦っている。
 世の中は異常気象も異常気象、手紙なら〈仲秋の候〉とでも書かなくちゃいけない時期だというのに、連日三十五度とか六度とか、そんな莫迦げた暑さが常態化しており、都会など立ち(のぼ)る熱気でビルが揺れて見えるほどだとか。それに比べれば、畳を八枚(つら)ねた別天地に寝転んで、(ほしいまま)華胥(かしょ)の国に遊んでいられるこの身の上、有難いと感謝しなければ罰が当たる。
 余談ながら、こういう天気を中国語では〈秋老虎(チィウ・ラオ・フゥー)〉という。秋の虎だ。
 秋に暑さがぶり返すと、かえって夏以上に凄まじく猛威を振るうところから、これを虎に喩えるのだそうな。ちなみに、〈老虎〉というのは別に〈老いた虎〉ではなく、単に〈虎〉のこと。先生を〈老師(ラオ・シィー)〉と呼ぶのと同じで、別に年齢とは関係ない。
 余談の余談だが、以前ある学会で、T教授という国語学の偉い先生と、偶然御一緒したことがある。押しも押されぬ学界の権威というのは近寄り難いオーラを発しているものと一般には思われがちだが、下の者に威張りたがるのは寧ろ中間層たる准教授に多く、その道を極めた大先生というのは、かえって意外なくらい謙虚で、気さくな方が多い。T教授もそうしたタイプで、わたしは愉しく先生の含蓄に富んだお話を拝聴していたのだが、
「まだ若い頃に、一度中国の大学に招かれて行って、ちょっと戸惑ったことがありましてね……」
 急に、そんな話題になった。
 T教授が招かれて、ある中国の大学へ行った時のこと。大学の人たち――他の教授、学生、職員たち――から、しきりに〈ラオ・シィー〉と呼ばれる。字を聞くと、〈老師〉だと教えてくれた。〈師〉というのはわかるが、〈老〉というのがわからない。
「尊敬の表現なのかもしれないが、日本語で〈老師(ろうし)〉と言うと、なんだか髪どころか、眉も髭も真っ白なお爺さんみたいでね」
白髪(はくはつ)三千丈(さんぜんじょう)のイメージですね」
「そうそう」
 一緒に招かれた学者の中に、中国語を齧ったことがあるという人がいて、
「以前、うちの大学はこの大学の留学生を受け入れたことがある。それで彼らの〈古い先生〉という意味でそう呼ぶのではないか」
 などと珍説を開陳されたのだそうな。
「後で聞いたら、単に〈先生〉っていう意味なんだってね」
「そうです。わたしみたいな小娘でも、教壇に立てば、やっぱり〈老師〉です」
〈小娘〉というのは差別用語だが、自分で使う分にはいいだろう。それとも、そんなに若いつもりかと笑われるか。まあ、学会などというところは平均年齢がかなり高いので、わたしなどは若手――いや、せいぜいヒヨッコである。
「まったく、〈中国語齧ったことがある〉なんて、いい加減な話ですよ。元々根が雑駁(ざっぱく)にできてるやつだとは思っていましたが。爾来(じらい)、あいつがいくら(もっと)もらしいことをいっても、私は一切信じないことにしています」
「それって、どなたなんですか」
 小声でそっと訊くと、悪戯小僧のように笑って教えてくださった。よくマスコミなんかにも取り上げられている有名な先生である。こういう面白い話が聞けるから、学会も(たま)には顔を出さなければならない。
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