第11話

文字数 1,274文字

「どうした、大丈夫か」
 気がつくと、慶ちゃんの顔が近い。
 辿りにくい慶ちゃんの話を、迷子の手を引くように筋道立てて理解しようとしていた筈なのに、いつかわたしは迷子の手を放し、異界へと紛れ込んでしまっていたらしい。
 異界は外から現実を侵してきて、わたしをすっぽり呑み込んだようでもあり、わたしの(うち)から湧きだして、わたしを溺れさせたようでもあった。とにかく、あの世界の中でわたしは少年の慶ちゃんであった気もするし、縛られた女であった気もする。

 そうして今、わたしは現実に戻ってきたのか。あの中から抜け出せたのか。
 慶ちゃんの顔が近い。
 でも、舌が口の中に貼りついてしまっていて、もっと離れてという声が出ない。
 ねっとりと舌に絡まる唾を必死で飲み下し、無理やり絞り出した声は、自分でもまったく思いがけない音を形づくった。「――痛い」
「痛い? どこが」
 慶ちゃんの汗の滲む顔が、もっと近くなる。
「足……」
「どっちの足だ」
「右」
 答えてしまってから、膝を崩して座っている自分の足の無防備さに、はっとする。
 慶ちゃんの滑りを帯びた手が、そっとわたしの右の腿に触れる。びくんとわたしは震える。まるで(おか)に揚げられた魚が苦し紛れに跳ねるように。痛い。(たま)らなく、痛い。

 ザアッ……

 その時、二人の間を秋の虎が駆け抜けた。
 透明な、血に飢えた虎が。

 虎はその逞しい四肢でわたしを組み敷き、太い鉤爪(かぎづめ)を立てる。荒々しい息を間近に感じる。わたしは、悲鳴を上げるどころか身じろぎすらできない。

 あの時、わたしの身に起こったことは、いったい何だったのか。今でもよくわからない。
 ただ、その間中、自分が見ていたものだけは覚えている。
 糸瓜。
 土の中に埋もれていたものが、激しい雨に洗われて、その姿をくっきりと現してくるのに似ていた。強烈なデジャヴ。わたしが見たもの。見ていながら忘れていたもの。そうだ、慶ちゃんの家には確かに糸瓜棚があった。
 これ、糸瓜水なのよ。喘息(ぜんそく)に利くそうだから、この子に飲ませているの。どう、一緒に飲んでみる? ちょっと甘いのよ。
 慶ちゃんのお母さんの声。夏の光。糸瓜棚。棚の柱に固定された糸瓜の蔓が、なぜか縛られた女の姿に見えて、幼いわたしは慌てて目を逸らしたのだ。これ今年最後の糸瓜水よ、あの糸瓜もすっかり虫がたかっちゃって、もう切ってしまうしかないわ。身体を抉られ、血を搾り取られている女。むごい。わたしの全身の毛穴から冷や汗が吹き出した。逸らした目が、また吸い寄せられるように糸瓜棚に戻る。気息奄々たる女を、むくつけき異形の虫どもが更によってたかって(なぶ)る。見るも無残な地獄絵図……。

 それなのに、どうして――
 どうしてわたしは、あの糸瓜水を飲んでしまったのだろう。女の血を、吸ってしまったのだろう。なぜ、きっぱりと断らなかったのだろう。
 口の中が乾き切り、激しい渇きを覚えたせいか。
 とにかく、わたしは慶ちゃんと一緒に、女の血を飲んでしまった。
 それが、わたしの消せぬ罪。
 罪とは、(つぐな)いを求めるもの。

 あの透明な虎は、わたしと慶ちゃんに与えられた罰だ。

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