第7話

文字数 2,341文字

 慶ちゃんの右手の中の何匹もの小さい魚たちがいて、今にも内側から皮膚を食い破りそうに、暴れている。
「慶ちゃん!」
 わたしはどうすることもできず、ただ呆然と見ているしかない。
 さんざん暴れ回った末、ようやく魚たちは大人しくなった。
 虫の卵のように額に鈴なりになっている汗の玉を、慶ちゃんは首の手拭いで擦った。何度も何度も擦った。擦る度に、土気(つちけ)色だった顔に少しずつ赤みが戻ってくる。
「悪い冗談だ」
 老人のように(しわが)れた声がいった。
「これは、糸瓜の水、じゃない。お前ン家の井戸水だ」
「あ、わかっちゃった? このタイミングで出せば、絶対信じるって思ったのになあ。失敗失敗……」
 わたしはわざと(はす)()に笑ってみせた。「はい。ただのうちの井戸水です。それに、ほんの一つまみ、塩を入れただけ。砂糖じゃない、塩なのよ。それなのに、なぜか舌に甘く感じるでしょう? スポーツ・ドリンクに似て非なる、天然の円やかさがあるようじゃない? わたし思うんだけど、うちの井戸水には何かのミネラルが混じっていて、それが塩と化学反応を起すんじゃないかしら」
 井戸水に塩を混ぜたのは本当だが、ミネラル云々はもちろん口から出任せだ。糸瓜水は古来美容に()いとされてきたが、それは化粧水として顔に塗るので、飲んでも美容効果があるのか否か、それはわたしの知るところではないし、別に飲んでみたいとも思わない。ただ、利尿作用や、咳止めの効用があると信じて飲む人もいるらしく、なんでも味は(ほの)かに甘いのだそうな。
 慶ちゃんは昔からうちの井戸水が好きで、この水はそんじょそこらのミネラル・ウォーターなど足元にも及ばぬ天然の甘露だと褒めてくれる。では、この塩入井戸水を糸瓜水と偽って飲ませたら、どうなるか。それでもうちの井戸水とわかるだろうか。軽い気持で思いついた(わる)巫山戯(ふざけ)だったのだが、あっさり見破られてしまった。
 しかし、どうにも解せないのは糸瓜水と聞いた時の、慶ちゃんのあの異常な狼狽ぶりと――
 あの魚。
 わたしが見たものは、いったい何だったのだろう。

 先刻慶ちゃんは、子供の頃自分の家にも糸瓜棚があったといった。
 しかし、わたしは慶ちゃんの家で糸瓜棚を見た記憶がない。
 もっとも、〈子供の頃〉と一口にいってもその間口(まぐち)は結構広いから、もし慶ちゃんの家の庭に糸瓜が植えられたのが小学二年の夏以降の話なら、わたしが知らなくて不思議はない。
 慶ちゃんとわたしは幼稚園時代からの親友で、小学校に上がってからも、暫くは一緒に遊んでいた。今からは想像もできないが、あの頃の慶ちゃんはひ弱で喘息持ち、しょっちゅう学校を休んでいた。顔色は蒼白く、いつもおどおどして引っ込み思案で、だから友達もあまりいなかった。
 慶ちゃんのお母さんはわたしが遊びに行くと喜んで、苺のショート・ケーキだとかエクレアだとか、よくお()つを奮発してくれた。食い意地の張った身には、それが楽しみでなかったと言えば嘘になるが、わたしはやっぱり心根のやさしい慶ちゃんが好きだったし、慶ちゃんもまた、荒っぽい男の子の遊びに無理に入れてもらうより、わたしと一緒にいる方が生き生きして見えた。
 そんなふうに仲良くしていたのだが、なぜか小学二年生の夏休みを境にして、ぱったり交友が途絶えてしまった。何かきっかけがなければおかしいが、別に喧嘩した覚えもない。慶ちゃんと遊ばなくなった理由が、どうしても思い出せないのだ。
 慶ちゃんと再び親しくなったのは、慶ちゃんが便利屋を始め、その宣伝をかねて、本当に久しぶりにわたしの家を訪ねてきてからだ。軀つきは見違えるほど変わっていたが、その照れたような笑顔には、あの頃の(おもかげ)が確かに残っていた。
 しかし、それにしても――
 わたしと慶ちゃんは、どんな関係なのだろう。幼馴染というのは都合のいい言葉だが、勝手に家の中に入り込んでくるこの巨体の男を、わたしは本当に知っているのだろうか。
 自明のものであった筈のわたしと慶ちゃんの間の距離感が、急にうまくつかめなくなってくる。現代と過去を隔てていた壁が崩れ、過去と今が混じり合う。混じり合ってもつれる。もつれながら絡む。慶ちゃんの右手の中にいた魚たちのように。
「ねえ、慶ちゃん……」
 相手がどこか虚ろな目を上げるのを待って、わたしはできる限り静かに、穏やかにいってみた。
「糸瓜が、こわいの?」
 まさかと笑ってくれるのを心のどこかで期待していたのに、慶ちゃんは神妙な面持ちでこくりと頷いた。病弱な少年の蒼白い顔が二重写しになる。わたしは思わず、こう言っていた。
「聞かせてよ。わたしでよかったら」
 左手で、そっと右手を撫でながら、慶ちゃんはまた、こくりと頷く。さっき魚が暴れていた右手は、何処かねっとりした(ぬめ)りを帯びて見えた。

 さてこれから語るのは、わたしが慶ちゃんに聞いた話、ということになるのか。
 わたしには、いまひとつ確信が持てないのだ。
 慶ちゃんの話下手(はなしべた)無類(むるい)のもので、訥々(とつとつ)と語る話の筋が一体何処をどう辿っているのか、真っすぐかと思えば、知らぬうちに横っちょの路地に入ってぐるぐるしだし、迷子の子供の手を引くようにこちらが本通りに戻してやっても、今度はいつの間にか後ろ向きに進み出す始末。
 ところが、最初こそ慶ちゃんの話しぶりのもどかしさ、じれったさに耐えていた筈が、知らぬうちにわたし自身、見知らぬ場所に迷い込んでいた。全身の毛穴という毛穴から汗が吹き出し、口の中は夏の日差しに焼かれたアスファルトよろしく乾き切っている。猛烈な渇きを覚えた。卓袱台の上の慶ちゃんの飲み干したコップを無意識に手に取り、ピッチャーの水を注ぐ。水がコップの縁から零れて、滴る。わたしの喉が、鳴る。おかしいほど右手の指が震えている。

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