第4話 夕立 ―史悠side―

文字数 23,327文字

 梅雨が明けると、頭痛薬の出番は少なくなった。市場にはアジサイが姿を潜め、ヒマワリがちらほらと顔を出し始めた。鉢植えにはハイビスカスも出始めた。花の種類が変化することで季節の移ろいを感じる。
 店内のアジサイはドライフラワーにするため、花が少ししおれてきたら、観葉植物の横で糸を張り店内で日陰干しにした。
 店先に鉢植えの小鉢を出すと、アーケードの隙間から日が差し込み、緑影を作った。葉脈のラインまでくっきりと作った影を見つめる。夏の日差しに涼を感じる陰影差。
「おとぉぉぉさん! どこか、いこうよぉ〜」
郁人の声が店の奥の自宅から聞こえた。
「お父さん、仕事だからな。宿題しろ」
「えぇぇぇ〜だって、もうしちゃったし」
店内に戻り、切り花の鉢を足で寄せ、カウンターからポップとカラーサインペンをとった。小上がりの畳の部屋に投げる。
「これで、花の名前書いて。夏の切り花と鉢植えな」
郁人はペンとポップ紙を持って、難しい顔をした。
「なつってヒマワリとえーっと、えーっとあと、なんだっけぇ?」
ブツブツ言いながら、食卓の机に向かった。呟きながら書いている背中が見えた。
 一昨日、散髪に行った。具体的な髪型を告げず、ただ短く、と言ったためか、郁人と同じ髪型にされてしまった。
 もう四十が来るのに息子と同じ髪型。鏡を見るたびに気恥ずかしい。左の耳の横には少し段が入り、剃り込みの様なカットになっている。床屋はツーブロックと言っていた。
郁人は髪の毛が僕より柔らかいためつむじ周りの髪の毛は浮いていた。小さな頭を見つめて、亜沙妃そっくりの髪質に笑う。彼女もつむじ周りの髪の毛が跳ねると言っていた。雨が降ったら全然言う事を聞かないと嘆いていた。
「はなしょうぶ? コチョウラン? ジニア? ストレチア? ドウダンツツジ?」
おー、よく知ってるな。本でも見てるのか。僕はカウンターの中に入って、同じように花の名前を書く。
 ダイヤモンドリリー、と書き、これは亜沙妃が1番好きな花だったなと思う。
 夏と言えばヒマワリを思い浮かべるが、彼女は白い花が好きだった。アジサイも色がついているものより白いアナベルを好んでいた。
「おとぉぉぉさん! かいたよぉぉ!」
ポップ紙を持って畳の部屋から郁人がバタバタと出て来た。
「どれ、見せてみろ」
だいやもんどりりー、と平仮名でポップいっぱいに書かれている。
「お父さんと一緒だな」
自分が書いたポップを郁人に見せた。
郁人は教えた覚えのない花の名前をよく知っている。花の本もそんなに読んでいる印象はないが、店先に並んでいるのを無意識に覚えたのだろうか。
「これ、白いおはなのやつね! うえきばちのやつ!」
しかも、正確にだ。
「将来、花屋頼んだぞ」
笑って、ポップを郁人に渡した。
「おれははなやにはならないっ! バルーンジャーになるんだっ!」
その言葉に笑ってしまった。


 店内の観葉植物の葉が好き放題に広がり、室内が狭く感じる。剪定でもしようかな、と一番大きなウンベラータを店先に運んでいると声をかけられた。
「こ、こんにちは」
その声が一瞬、亜沙妃の声に聞こえて、頭を振る。まさか、そんなことはある筈がない。客だろ、接客。
「はーい」
振り返ると、見覚えのある線の細い女の子が立っていた。目鼻立ちがくっきりしている。髪は一つにまとめられ、小さな耳が覗いていた。
「あの、遅くなったんですけど…」
彼女は握っていた紙袋を差し出した。声をよく聞くと全然、亜沙妃には似ていない。なぜ、似ていると感じたのだろうか。
「先月、雨の日に傷の手当てをして頂きありがとうございました」
すごい勢いで頭を下げ、勢いよく上げた。
ピンクのパンツの子だ。思い出した。
「あ〜、あのすごい転けた、佐原さん?」
名前は正しいか? 名前よりパンツの色を先に思い出した自分に苦笑する。
「その説はご迷惑をおかけしました。これつまらないものですが」
差し出された袋が揺れた。名前はあっていたみたいだ。
「そんな、わざわざ良かったのに。タオルもハンカチも忘れてました」
もう貸したことも忘れていたぐらいなのに、律儀な子だな。手土産まで持って。きっと両親そう教育されたのだろう。育ちの良さが滲み出ている。
 僕は紙袋を受け取った。
「おとぉぉぉぉさん! ちょっと、それ……、あ!」
郁人が飛び出てきた。僕の持っている紙袋を見ている。これは僕たちが好きな店のものだった。
「まこっちゃん、だー。おれのことっ、おぼえてる?」
すぐさま佐原さんに駆け寄り、周りをぴょんぴょんと跳ねている。さすが子供だな。記憶力がいい。
「なにもってきたの? あ、ここのおまんじゅうおいしいんだ〜、ね、こしあん? こしあん? いっしょにたべようよ〜」
今度は佐原さんの腕を持ってブンブンと引っ張っている。
「こらっ、郁人。佐原さんを引っ張らない」
ったく、すぐに友達になってしまう。
佐原さんは嬉しそうに郁人を見ている。
子供が好きならいいが、迷惑を掛けてはいけない。
「大丈夫です。あの、こしあんあるんで、二人で食べてください」
「ありがとう」
僕は返事をして、袋の中を覗いた。思ったより箱が大きく、驚いた。
「あ、こんなに和菓子あるんだ。男二人じゃ食べられないから、佐原さんも一緒に食べましょう? 時間ありますか?」
彼女は店内の時計を見た。
この後に予定があるのかもしれない。出過ぎたお誘いだったかな。なんせ、郁人が暇を持て余している。嫌じゃなければ、話の相手にでもなってくれたら僕も助かる。
 彼女は遠慮を浮かべた笑顔で言った。
「あの、お礼に伺ってなんですけど、郁人くんともお話したいし、構いませんか?」
「どうぞ、どうぞ。僕も一緒に頂こうかな」
「やったー。まこっちゃん、こっちでいっしょにたべよっ!」
郁人は彼女の腕を持ち、店の奥に案内した。
僕はその背中を追いかける。佐原さんは亜沙妃の仏壇を見た。
「ちょっと待ってね。ママにもお邪魔します、するね」
仏壇に真っ直ぐに向かって手を合わせた。僕はその当たり前のような行動に感心した。若いのに本当に礼儀正しい。
「ママ、どうぞ、だってー」
郁人が不意に佐原さんにそう言って、僕は不思議に思った。どうぞ、ってどういう意味だ?
「おまんじゅう、ママにもあげる〜」
あ、そうか。その意味か。
手に持った紙袋から和菓子の箱を出した。淵から指をいれビリビリと破る。包装紙を開けるのは苦手だ。どこから開ければいいのか分かりにくい。
「ほら、郁人、ちゃんとママにどうぞ、ってするんだぞ」
箱を開けて、粒あんのモナカを郁人に渡す。
「はぁあい」
郁人は受け取って仏壇に供えた。
正座で座る。佐原さんは静かにその様子を見ていた。
 しかし、暑いな。冷たいお茶でも入れようか。
 僕は立ち上がってキッチンに向かった。
「もう毎日暑くって、冷たい麦茶ぐらいしかないけど、佐原さんはお茶でいいですか?」
「あ、お茶で十分です。ありがとうございます」
お茶を入れながら汗が落ちそうになる。腕で汗を拭う。クーラー効いてるか、この部屋。
「暑いですよね。クーラーもっと下げますね」
食卓の下にエアコンのリモコンが落ちており、足を伸ばす。ふと佐原さんを見ると彼女は声を出さずに笑っている。
「え、なんか可笑しい?」
足で物を取るのは上品な子には信じられなかったのだろうか。僕には日常茶飯事だから分からない。
「だって、山瀬さん、意外と雑って言うか、前も足でお花の器を寄せてたし、その包装紙も」
楽しそうに笑う。笑うときに声が高くなるんだな。女の子の笑い声って可愛いな、そう思って、またおっさん思考だ、と恥ずかしくなる。
でも、笑いすぎじゃないだろうか。
「ああ、僕、結構、大雑把だからなぁ、そんなに笑う?」
まだ笑っている。そんなに変か?でも、彼女の笑い声は心地がいい。
「おとぉぉさん、この前もプリントくしゃくしゃだったしね〜。こんだてひょうだったけ?」
「いや、あれは図書室便りだった」
「あ、そーかぁ、でもどっちでもいいね。おまんじゅうたべようよ〜」
こんな時、郁人は僕の子供だな、と思う。気にしていないところは適当になる。
「はいはい」
僕は机に置いた麦茶をそれぞれの前に置いた。手を合わせる。
「すみませーん」
店先から声が聞こえた。
「おきゃくさんだ。おとーさん、ざんねん」
「郁人、佐原さん、食べといてね」
僕は二人に声を掛け、店先に出た。
宅配便だった。カウンターから印鑑を持ち、受け取り表に押印する。ダンボール箱を受け取った。中身は花束用の包装紙だ。箱をカウンターの中に入れて、小上がりの畳を、靴を脱いで登った。
「僕も貰おうかな。頂きます」焦茶色の饅頭に手を伸ばす。
「あ、美味しい。佐原さん、これ美味しいね」
これ好きな味だ。思わず笑みが溢れてしまった。
佐原さんも同じように笑顔を浮かべている。小さな口がキュッと上がって愛らしい。小動物みたいだった。
「あ、あの。私、花が好きなので、これからも時間があれば寄ってもいいですか?」
見ていた口から言葉が出た。花が好きなのか、それは嬉しい。
「やったぁぁぁぁぁあ! まこっちゃん、おれ二十日からなつやすみなんだ。いっしょにあそぼう」
僕より早く郁人が反応した。
「もちろん、いつでも来て下さい。郁人も喜ぶし。遊んでくれたら僕も助かるしね」
郁人は去年、夏休みも盆以外は朝から夕方まで保育所に通っていた。しかし、小学校に上がり、学童は午前中しかない日が多く、僕が仕事の時は郁人が退屈な思いをしてしまうから、どうしようかと時間を持て余していた所だった。佐原さんの迷惑にならないのであれば、嬉しい申し出だ。
「あと、ちょっと気になってたんですけど、山瀬さんはおいくつなんですか?」
「僕? 三十八だよ。今年で三十九になるな〜。佐原さんは?」
「私は二十二歳です」
「若いね〜。一回り以上違うね。娘まではいかないけど、郁人のお姉さんとして遊んでやって」
本当に若い。僕が二十二歳の時は大学生だった。十六年前の記憶は中々すぐには出てこない。亜沙妃は隣にいただろうか。いや、大学生の時、亜沙妃には相手にされてなかった事を思い出す。
『史悠くんはタイプじゃない。見た目が良い男は信用できない』
僕が亜沙妃に告白した後の彼女の第一声はそれだった。
全く相手にされていなかった。
「まこっちゃん、あそぼーねー、おれ、バルーンジャーがすきなんだ!」
郁人がはしゃいで佐原さんに話しかけている。
「山瀬さん、お茶ありがとうございました」
その声にハッとし、返事をする。
「いや、こちらこそお饅頭ありがとう、佐原さん」
「麻琴でいいですよ。私も史悠さんって呼んでいいですか? 山瀬さんは郁人くんも一緒だし」
史悠さん。若い女の子にそう呼ばれて思わずにやけてしまう。麻琴、と下の名前での呼び方を考える。息子の友達だから、呼びやすい方がいい。
「じゃあ、ことちゃんだね。なんか小鳥みたい」
ことちゃんって呼び方、ネーミングセンスないって笑われるかな。
 彼女はバカにせずに、嬉しそうに笑った。良かった。なんか呼び方を考えるなんてこそばゆい感じがする。小学生の時は平気で下の名前でよんでいた女子を、中学生になって意識しだして呼び方を名字に変える、そんな気恥ずかしさだ。
 佐原さんは時計を見ると、額の汗を拭って立ち上がった。僕も一緒に立ち上がる。彼女はサンダルを履いて、店先に出た。まとめた髪のうなじが見えて、なんだか落ち着かない気持ちになる。
「じゃあ、失礼します」
「まこっちゃん、また来てね〜」
郁人と一緒に見送った。彼女はもう一度振り返って会釈をした。僕は軽く手を振った。
アーケードが日差しを遮り、店の中には熱は入っては来なかったが、商店街を出たアスファルトは暑そうだ。熱気が道路から立ち上っている。彼女はその方向に歩いて行った。
「おとーさん、まこちゃん、ママに似てるね」
その言葉に僕は耳を疑った。え、似てるか?
「どこが似てる?」
郁人は写真でしか亜沙妃を知らないはずだ。顔は似ても似つかないし、髪の色も違う。髪型も違う。雰囲気もどちらかというと亜沙妃は活発な感じで、ことちゃんはお淑やかで育ちの良い上品なイメージだ。
似ているどころか正反対に近い。
「うーん、なんとなく。あっさりしてる所」
あっさり?
子供の言う事は抽象的すぎて分からない。
「郁人、それってどう言うーーーー」
僕が詳しく郁人に聞こうと思ったら、店に客が来たため、聞きそびれてしまった。客は結局、店内を少し見ただけで、気に入る物がなかったのか足早に去ってしまった。
 カウンターの中に置いたダンボールから包装紙を取り出す。カウンターの定位置に片付けながら、自分が鼻歌を歌っていることに気がついた。
 梅雨が明け、晴天続きで、雨もしばらく降っていない。
 夏は好きな季節だ。急な夕立は怖いが、警戒しておけば問題ない。ことちゃんが郁人に会いに店に来ると言ってくれた事は素直に嬉しい。僕は人付き合いが苦手で、男友達はいても、女の人の友達など全くいない。そんな僕にとって、ことちゃんの存在は貴重でありがたい。次はいつ来てくれるだろうか。この気持ちは季節の花を楽しむ気持ちに似ている。少しの心の潤い。炎天下の夏陰。暑い日差しを避けるために立ち止まった木陰が心地良いように彼女の笑い声は僕の耳に優しく残っていた。


「おとぉぉさーん、ちゃんとヨーグルトかってくれたぁ? あした、パンと一緒に食べるからね」
風呂に入って、さあ、寝るぞと、布団に入った瞬間に、郁人は暗い部屋で声をあげた。
「おい。このタイミングでそれを言うなよ。忘れてた」
確かに今日の朝にヨーグルトが食べたい、と言っていた。しかし、買い物の時にそれはすっかりと抜け落ちていた。
 布団の中で郁人の方に向く。
「なんで一緒に買い物行った時に言わなかったんだ。忘れてた」
「おれも、いま、おもいだしたんだって」
似た者同士だ。
思わず笑ってしまう。本当にこんな所だけ僕に似ている。
 暗闇の中で携帯の画面を確認した。時間は午後十時だ。郁人が寝てから、こっそりと買いに行こうか。念の為、携帯で夜間の降水確率と明日の天気を確認する。0%だった。ホッとして、一旦、目を閉じた。
 携帯が枕元で震え、画面を見た。夜中の二時前。
 うっかり、郁人と一緒に寝てしまった。体を起こして、静かに部屋を出る。上のシャツはシワが入っていたが、着替えずに下だけ洗ったジーンズに穿き替えた。裾が擦り切れている。ちょっとだらしないな、と履くたびに思いながらも、結局そのままだ。履けるから、まあ良いか。服装に無頓着になってきた事を思うと僕も歳をとったなぁ、と思う。亜沙妃がいた時はよく注意されていたし、裾のほつれやボタンが取れたシャツも繕ってくれていた。
 仏壇の横の棚に置いた、くしゃくしゃになったタバコの箱とライターを手にとってポケットに入れた。財布と携帯を持って家を出た。
 タバコに火をつける。煙が少し明るい夏の空に登っていく。夏の夜の湿度を含んだ暖かい空気が漂っていた。この町は海から離れているが、夏のこのジメッとした夜の風は潮風が関係しているのだと聞いた事がある。
 そう言えば今年は海に1回も行っていない。夏休みに入ったら、郁人と一緒に行こうか。新しい浮き輪でも買ってやろう。去年まで使っていた物はもうサイズ的に小さいだろう。
 夏のぼんやりとしたしまらない空気の中で、コンビニが放つ光もキレがないように感じる。店に入れば少しでも冷気で締まるかなと思い、タバコの煙を吐くと声をかけられた。
「ん?」
顔を上げた。
視線の先には、髪をまとめた細い女の子が、カバンを持って立っていた。
「あ、ことちゃん、こんな時間にどうしたの?」
「私、今まで仕事だったんです。さっき終わって、ちょっと夜食でも買おうかなと思って、コンビニに」
店の前の灰皿にタバコを押し付けた。
時間は夜中の二時を過ぎている。
「こんな時間まで仕事なんだ。看護師さんは大変だね。お疲れさまです」
思わず頭が下がる。
ことちゃんは僕につられて頭を下げた。
「いやいや、そんな。史悠さんこそ、こんな時間にどうしたんですか?」
「いや、僕は郁人が明日の朝にヨーグルトが食べたいって言うのを寝る前に思い出して。寝てる間に買い出し」
忘れっぽいのは少し恥ずかしい。
頭をかいて笑った。ことちゃんも笑って、コンビニに入った。僕もその後に続き、ヨーグルトを買った。
 二人で店を出て、タバコの続きを吸おうとポケットからそれを取り出した。咥えようと口を出す所で、白い手がそれを制した。
「タバコは体に良くないですよ。百害あって一利なしです」
脳裏に亜沙妃の声が響いた。
え、ことちゃんが言ったんだよな。
タバコは手をすりぬけて、地面に落ちた。目の前の人物を見つめて、亜沙妃とは似ても似つかない事に残念に思い、一方で安心もした。いる訳がない。
「すみません、生意気でしたね。でも、つい言ってしまいました」
「いや、えっと、その」
次に続く言葉を探したが見つからなかった。仕方なく落ちたタバコを拾って、息を吐いた。ポケットに入れ、少し冷静になる。
「ごめん、一時はやめてたけど、久しぶりにそのセリフを聞いたから動揺して。郁人の前では吸わないんだ。だから、一人の時はつい手が出ちゃって」
言い訳っぽいか。
禁煙が進んでいるこの時代で、まだタバコを吸っているなんて、と軽蔑されただろうか。思わず頭をかいてしまった。
「私こそ出しゃばってすみません」
ことちゃんはすまなさそうに頭を下げた。
「いや、こちらこそすみません」
僕のためを思って言ってくれているのに謝らせてしまった。そう思い、彼女を見ると肩を揺らしていた。
「また、笑ってる。ことちゃんすぐ笑うね」
小さな笑い声が心地よく耳に響く。
僕も思わずつられて笑ってしまう。
「私、病院に戻りますね」
彼女は少し笑った後、病院の方向を見てそう言った。
こんな時間に若い女の子が、一人で夜道を歩くのは危険だ。
「あ、僕も行くよ。夜道危ないでしょ。送るよ」
 橋元記念病院。
 あまり行きたくはないが、彼女を送らずに一人で帰してもしもの事があれば後味が悪すぎる。少しでも危ない可能性があるのなら、潰しておきたい。世の中いいやつばかりがいるとは限らない。持っていたビニール袋を握りしめた。
「ありがとうございます。じゃあ、お言葉に甘えます」
彼女が病院に入るまでは見送る事ができそうだ。
 彼女の横を並んで歩く。彼女は僕より頭二個分ぐらい背が小さい。肩幅も僕の三分の二ぐらいだ。全体的に細い。こんなに華奢な体つきをしているのに、夜道を一人で歩くのは怖くないのだろうか。
「ことちゃんはさ、暗い道って怖くないの?」
暗闇でも分かる長いまつ毛は艶があった。その美しさに思わず目を奪われる。
「ちょっと怖いです。私、小さい頃、暗い所と言うか、夜が苦手で。一度眠りについてしまったら、起きられないような気がしていて」
ゆっくりと穏やかな口調だったが、彼女が本当に闇夜と向き合って来た事が伺えるような真剣な口調だった。
 一度眠りについたら起きられない。その言葉に言い表せない感情が浮かぶ。暗闇が襲ってくる恐怖。そして何も見えなくなる。
残っているのは現実だけ。認めたくない現実。
「あ〜、なんか分かる気がする」
発した声が暗闇に響いた。彼女を見つめる。
ことちゃんは暗闇が怖いのか。長いまつ毛の目が僕を見上げている。小動物みたいで可愛いなと思った。
「暗い所ばかりに居たら、なんか不安になるな。最初は怖いけど、でもちょっと経ったら目が慣れない?」
「慣れますね。暗闇でも少し見えるようになってきます。あれ不思議ですよね」
「不思議だよね。次、明かりを見た時に前より明るく感じちゃったりして。違うものに感じるんだよね。闇ばっかり見てたら、目が慣れて、次に光を見た時に人とは違ったものが見えるのかな」
僕はそう言って、自分の左手を見た。手のひらの傷は癒えたが、記憶は癒えない。
「見えるんですかね」
ことちゃんは返事をして、少し考えているようだった。
彼女にも思う所があるだろう。そうだよな。幸せばっかりの人生じゃないよな。人には言えないような辛いことも経験しただろう。
 彼女はゆっくりともう一度、僕を見上げた。暗闇でも分かる綺麗な瞳が僕を見つめている。
「史悠さんはどうなんですか? 暗闇から出た時に光が別物に見えた事がありますか?」
 別物。
 僕の中で浮かんだ感情は憎悪だった。光に似た憎しみ。それは生きる理由にもなった。人に言えない不幸を抱えているのは僕の方だ。
 優しく、純粋で、輝いた未来がある女の子に自分の話は耳汚しになるような気がする。僕は誤魔化すように、さぁ?と小さく呟いた。
「僕には暗闇どころか、何も見えてない気がするけどね」
口から出た言葉があまりにも感情が乗っておらず、笑ってしまった。
小さな男だ、と我ながら呆れる。彼女はそれを聞いて口をつぐんでしまった。勘のいい子だなと思った。聞かれたくない事を感じ取ってくれたのだろうか。
 病院まで彼女を送って、僕は五階の窓を見上げた。
 目的の部屋の電気は消えていた。先週の店の定休日に五〇一号室には行った。あいつは相変わらずベッドの上で目を閉じ、横になりピクリとも動かなかったが、息はしていた。人工呼吸器に繋がれた体で規則的な呼吸をしていた。
 中々、死なないし、起きないな、と、いつもと同じ感想を抱いて、僕はその場を立ち去った。
 部屋の窓を睨みつける。
今なら静かに殺せるだろうか。そんな考えが頭をよぎり、郁人の顔が浮かぶ。この繰り返しだ。僕は父親だ。今、郁人と離れて生活するわけにはいかない。なんとか湧き上がる恨みを押さえつけて、自宅に足を向ける。
 ガサガサガサとビニール袋が擦れる音が耳に入り自分の持っていた手が震えていることに気がついた。雨も降っていないのに震えている。恐怖ではなく、怒りで震えているのだと、六年も経つのに、まだ僕の中の感情が色褪せていない事に本当に笑ってしまった。


 陽炎か。
 車のエアコンの風量を全開にしても、乗ったばかりの車は暑い。吸い込んだ空気で喉が焼けそうなぐらい、気温が高い。きっと体温より高いだろう。車を走らせるとアスファルトの上に揺らめくものが見え、僕はぼんやりと光の屈折を眺めた。空気の揺らぎを見つめ、携帯でその現象を撮影したが、その曖昧な揺らぎを写しとることはできなかった。
 八月の頭、ことちゃんは笑顔で遊びに来てくれた。
「まこっちゃん〜、やったぁ、来てくれたっ!」
郁人は大喜びで彼女を迎えた。もちろん僕も嬉しかった。彼女は持っていた袋を郁人に差し出した。水滴がついている。郁人は袋を覗き込んで声を上げた。
「わぁ〜! アイスだ。アイス! やった、やった」
受け取り、すぐさま踊り出す。
「別に手ぶらでいいのに」
来てくれるだけで、僕ら親子は嬉しいのに、なんか申し訳ないな。でも、その気遣いが更に嬉しかった。
 彼女を病院に送って行った日を思い出した。まつ毛は相変わらず長い。いつもと髪型が少し違っていた。長い髪を1つで束ね、横に流していた。うなじが見えない事が少し残念だった。
「いえ、私がアイス食べたかったんです」
「それいいねぇ! たべよっ!」
郁人は袋をあげた。ことちゃんも手を伸ばしている。
「じゃあ、中で涼んでて」
僕はそう言い、小上がりの畳に案内した。下に落ちていたリモコンを食卓の上に置いた。
「はい、じゃあ、お邪魔します」
彼女は部屋に上がり、僕は一旦、店に出た。
前は食べようとして呼ばれてしまったから、奥にいます、と張り紙をしておこうとメモに書きだす。
 書き出した所でふとこの間、剪定したウンベラータの葉が少ししおれていたため、店内の影に移動させた。
剪定後は光を浴びすぎると逆に元気がなくなってしまう。
「おとぉぉぉさーん! おとぉぉさんは食べないのぉぉ!」
郁人の声が店に響いた。僕は負けずに声を出した。
「置いといてー」
「分かったぁ〜」
声が返ってきて、鉢の位置を他のものも確認する。剪定した木は挿し木にしたが、根を張っているのかが気になり、少し根元の土を取って観察した。白い根が生えていた。一本はストレートでそのまま育てて、もう一本はワイヤーで枝に曲がりをつけようか。
売り物になるまではしばらくかかるかもしれないが、ウンベラータは人気だ。すぐに買い手が見つかるだろう。
 ついでに切り花の器に水を足し、水の量を確認した。店の空調は二十八度にしているが暑い。汗を拭って、店の奥に向かうと、ことちゃんの楽しそうな声が耳に入った。
「ちょっと〜、いじわるだねぇ、今のは教えてくれると思ったよぉ〜」
郁人の服の裾を持って二人で笑い合っている。
「なんだか、楽しそう」
畳には上がらず、靴を履いたまま郁人に声をかけた。
「僕もアイス食べようかな。でも、ここでいいや。郁人、アイス持ってきて」
「おっけーい」
暑いな。汗がもう落ちてくる。肩にかけたタオルで頭の汗を拭く。乱暴に拭かないと追いつかない。
視線を感じ、顔を上げるとことちゃんが僕を見ていた。
「ん? どした? なんか付いてる?」
タオルを頭にかけたまま彼女をみた。
乱暴なおっさんぽく見えたかな。若い女の子はこんな大雑把な行動は不快に感じたかもしれない。
「いや、あの、外、暑いんだなぁと思って。お花のために冷房は利かさないんですか?」
「そうだね、一応二十八度で空調管理してるけど、暑いよね」
ことちゃんも暑いのだろうか。頬が少し赤い。肌が白く、透明感があるため色がつくとすぐに分かる。半袖から覗く二の腕もびっくりするぐらいに白い。郁人も僕も腕も足も真っ黒に焼けているから女の子の白い肌を見るだけで、何だかいけないものを見ているような気になる。
「おとーさん、はい、アイス」
郁人から受け取り、袋を適当に空けてアイスを出した。ことちゃんはまた小さい声で笑っている。
「……また、笑ってる」
よく笑う子だな。
まあ笑い声が心地いいから全然、いいけど。
アイスを口に入れる。冷たい。キーンとした冷たさが体の熱を奪う。
「あ、なんか若い子がいるね? 見た事ないサンダルがある」
聞き覚えのある声がして、振り返った。
「あ、多々羅さん、こんにちは」
立ち上がって、挨拶をする。
 買い物帰りだな。
 今日は切り花を見にきてくれたのだろう。多々羅さんはいつも水曜日の買い物の後に切り花を買いに寄ってくれる。多々羅屋の店主の娘だ。娘、と言っても僕より年上で、五十代だったように思う。もう孫もいたはずだ。
「あ、休憩中? 座ってて、勝手に切り花、選んでるから」
彼女はそう言い、ショーケースと店先の花を見始めた。
「おばちゃん〜、ヒマワリかわいいよぉ〜」
郁人はアイスの棒を咥えたまま言って、店先に出ようとした。
「こら、郁人。棒は捨ててからにしろよ」
郁人は僕を見て、棒を素早く取った。
「郁人くん、こんにちは」
多々羅さんは郁人を見て、笑顔を浮かべた。
僕はアイスを食べながら、手前の切り花を指差した。
「多々羅さん、ストレチアが入ってますよ。夏休みでお孫さんが来るなら、華やかな方がいいんじゃないですか。持ちもいいし」
「あ、ほんと。これ華やかでいいわね。なんか、トロピカルな感じ?」
夏といえば、ヒマワリだが、ストレチアも結構華やかだ。
見ていて明るい気分になる。
多々羅さんは僕の奥を見て、顔をほころばせた。
「あ、本当に若い娘じゃない。こんな娘、連れ込んで、史悠くんもまだまだ若いね」
視線の先にはことちゃんがいた。
僕はその発言に思わず笑った。
「多々羅さん、何言ってるんですか。僕、もういい歳してんですよ。郁人の友達です。僕となんて、犯罪じゃないですか。論外ですよ」
僕はもう四十が来る。ことちゃんは二十二歳。この前、成人したばかり。下手したら親子ほど年が離れている。こんなおっさんと、どうかなるなんて夢にも思わないだろう。
「分かんないよ〜最近は。自分の父親より年上と結婚する事もあるじゃない?」
それはテレビの中での話だ。
実際にそんな人、周りにはいない。第一、ことちゃんの事は確かに可愛いと思っているがそれは郁人に対する感情と同様なものだ。
向こうも迷惑だろう。
「ないない、ないですよ。僕はもう余生みたいなもんですから。郁人の成長を楽しみに生きてますから」
僕はそう言って笑った。本当にない。ありえない。僕の中で亜沙妃を超える女性などこの世にいない。代わりもいない。
郁人の母親は必要と言われればそれもそうかもしれないが、こんな若い子にそんな事は望んでもいない。
「余生って。うちのじいちゃんに聞かせてやりたいわ。もう九十歳が来るのにハーレー乗って、この暑いのにツーリングに行ったのよ。信じられないわ」
「多々羅さんやりますね。タブレットも使いこなしてますからね」
白髪で銀メガネの多々羅さんを思い浮かべた。今年で八十八だったか。足腰も曲がらず、背筋も伸びている。冬に革ジャンを着ている時もあった。
ハーレーは僕が店を継ぐ前から乗っていたから、もう二十年近く乗っている事になる。まだまだ現役だ。
 多々羅さんは娘さんが、孫を連れて帰省するのがもう少し先になる事、花火を店に置いている事、旦那さんが最近禁煙に成功した事を話し、切り花を購入した。
 去り際にことちゃんに何か話し、彼女はびっくりした表情で多々羅さんを見送っていた。
「何か言われた? 多々羅さん、人をからかって遊ぶところがあるから」
初対面じゃなかったのか。
僕は彼女の顔を覗き込む。
「いえ、あの、その」
彼女は言葉を探して、後ろを振り返った。
郁人はリモコンを持っていた。テレビを見るつもりだろう。
ことちゃんは僕の目をまっすぐに見た。綺麗な瞳。まつ毛が長いな。肌は本当に同じ人間かと思うぐらい透明感がある。
「あの、」
何かを言いづらそうにしている。急かしているように見えたか。
「ゆっくりどうぞ」
落ち着いてくれたらいい。
親戚のおじさん感覚で気軽に話してくれれば。
彼女は僕のそんな様子を見て、少し頬を染めて、手招きをした。その可愛い仕草にドキッとする。女の子はいちいちする事が、可愛い。
「ん?」
僕は彼女に耳を寄せた。
「私は、あり、ですから。それは覚えといてください」
ありってさっきの多々羅さんの話か?
彼女は真っ赤な顔をして僕を見つめている。
上目遣いで見られ、急に何かの感情が広がった気がした。それはじんわりと僕の体を巡った。だいぶ昔に感じたことのある感情。でもその感情に今、名前をつける事は出来ない。そんな余裕は僕にはない。
「えっと、うん、気持ちは嬉しいけど、僕にはことちゃんはもったいないよ」
確かにうなじや伏せたまつ毛を見て綺麗だなと思ったり、笑った声を心地よく感じてずっと聞いていたくなった事は認める。が、僕が彼女に相応しくない事は明らかだった。子供もいる、亡くなった妻を今でも愛している、おまけに歳もだいぶ違う。思わず苦笑いを浮かべてしまった。
ことちゃんは確かに僕の心の中にゆっくりと入って来ている気がする。でもそれに恋愛感情と名付ける事は出来ない。そんな思いで彼女を見る事は出来ない。こんな男より、彼女にはふさわしい、まともな人間がいるはずだ。
 僕はぼんやりと車の中から見たアスファルトから立ち上る陽炎を思った。彼女には僕の汚い部分を晒したくない。僕の醜い感情や情けない部分を感じ取って欲しくない。できれば写真で写しとれなかった陽炎のように、なかった事にして貰えないかな、このまま距離を詰めないでいてくれればいいのに、と思った。



 郁人が夏休みに入って、一日が早く感じる。
子供と過ごす時間は濃厚だ。普段は店で一人だが、奥の畳の部屋で誰かがいる気配がするのは何だか嬉しい。
 仏壇にひまわりを生け、軽く掃除をする。線香を焚いて、手を合わせる。郁人も一緒に手を合わせた。
 カウンターで店前を通り過ぎていく人を見ていると電話が鳴った。
「久しぶり。史悠、今、電話いいか?」
表示を見ると、奈良崎と表示されている。三ヶ月ぶりか。
「おお、大丈夫。なに?」
「お前、そろそろ再婚とかどう?」
唐突だな。
僕は思わず笑った。
「そうやって笑うけどな。実際どうなんだ。寂しくないのか?」
寂しいよ。でも、それは亜沙妃にしか埋められない。
「奈良崎はいつも唐突だな。本題から入るから話しやすい」
彼は僕を本当に心配してくれている。こうやって定期的に電話を掛けてきては世話を焼いてくれる。
「郁人は元気か? 男はいいよな。扱いやすくて。うちは女ばっかりだから、言ってる意味が分からない。この前、ほたるに「お父さん、中身は小学生男子」って言われたぞ」
僕は思わず声を出して笑った。
「男は単純ってバカにしやがって。一家の大黒柱だぞ」
電話の向こうで息巻いている。確かほたるちゃんは小学3年生だったな。
「いや、俺の話はいい。史悠、正直な話、性欲とかないわけ?」
不躾な質問だな、昼間から話す話題ではない。
「ない、訳ではないと思うけど、もう枯れてる」
僕は笑った。性欲ねぇ。機会がなくなれば、こんなにも興味がなくなるとは思わなかった。女の人を見て、綺麗だな、と思ったり、可愛いと思う事はある。
ただ、それだけだ。
「なんか、女の人見ても、花見ても感覚的には一緒だな」
「花ぁ!?」
電話口で大声をあげた。耳が痛い。低い声が鼓膜に響いた。
「なんだよ、花って。鑑賞ってか。花は抱けねぇぞ」
抱けないねぇ、確かに。でも結構、癒される。
「でも、見てて穏やかな気持ちにはなれる」
僕の言葉にため息が聞こえた。
「本気でジジイだな」
「じじいって。まだ一応三十代だけど」
「もう、四十が来るぞ。このまま、一人で生きてくつもりか? そうでなくても、お前は見た目がいいんだから、女なんかウヨウヨ寄ってくるだろ」
初対面の女の人に目線を逸らされる回数の方が多いのに、そんな事はない。
「脛に傷どころか、顔にも傷があるし、あんなことがあった男の嫁になろうって変わってる子はいないよ」
「大学の時は女がいっぱい寄ってきてただろ」
大学って一体、何十年前の話だ。
「あの時は若かったからだろ。僕は別にそんなつもりは」
「いや、お前好き放題、喰い散らかしてたぞ。ミスキャンパスも隣の大学のまどかちゃんも。あの子可愛かったのに、お前に夢中だった」
僕は、あ〜、と言って記憶を探ろうとするが、思い出せなかった。
「お前、藤川に会って変わったもんな。藤川に必死で何度も告白して」
奈良崎は笑う。藤川は亜沙妃の旧姓だ。
「あの時ほど、残念なイケメンに成り下がったお前を見た事はなかったな」
悪かったな、残念で。僕は必死だった。亜沙妃の視界に入ろうと必死だった。思えば、もう一生分の恋を亜沙妃にして、今はもう抜け殻みたいなものなのかもしれない。
「でも、俺はあの時のお前が一番人間らしいと思った」
奈良崎は急に真剣な声を出して言った。
「なあ、余生にしてはまだ若いぞ。八十まで生きても四十年もある。藤川が死んでもう六年経ったぞ。次を考えてもいいんじゃないか。お前の幸せのためにも」
「奈良崎、ありがとう。でも、まだそんな気になれない。僕は郁人と二人で暮らしていくのがやっとだな」
僕がそう返事をすると、そうか、と言って奈良崎は、じゃあまた、と電話を切った。
 多分、再婚の話をしようとしていたのだろう。誰を紹介してくれるつもりだったのかもしれない。僕がその手前で断ったから、彼はその先を口にはしなかった。
 再婚、か。
亜沙妃のかわりなんていない。そんな月並みな言葉しか浮かばないが、けれどそれ以外にいいようがない。
永久欠番?心に穴があいた?忘れられない?
そんな言葉を並べては、思わず言葉の軽さに反吐が出そうになる。同じ性別で、似た人はどこかにいるかもしれない。彼女の変わりになりうる人もいつか現れるかもしれない。そんな幻想を抱いては、自分の半身を失って、抉られた傷口が化膿して、膿を出そうとして、血しぶきをあげる。代わりなんてどこにもいない。代わりなんていらない。だから、もう一度だけ、亜沙妃に会いたい、僕はただそれだけのちっぽけな男だ。


 カウンターでポップを書いていると声がしたため、顔をあげた。
「こんにちは〜」
肩までの茶髪。目が大きく華やかな顔の女の子が立っていた。その背後に、黒髪で耳の小さな女の子がいた。その姿を見つけて、嬉しくなった。ことちゃんが髪を下ろしているのを初めて見た。
「いらっしゃーーって、ことちゃん。おーい、郁人!」
郁人、来たぞ。待ってたよな。
心でもう一度、息子の名前を呼んだ。
前にことちゃんに、ありですから、と、言われたことを思い出した。その時、僕の中に広がった感情は懐かしいものだった。しかし、彼女はきっと僕の事をそこまで思ってはいないだろう。もしかしたら、その場を取り繕うお世辞だったのかもしれない。それこそ、おっさんの勘違いってやつだ。
 郁人は奥から飛び出て来た。
「あれ、まこっちゃん! もうはなびしにきたの? もう、かってるよ!」
郁人はことちゃんの返事も聞かずに再びドタタタと音を立てて、家の奥に向かった。
花火を自慢するつもりだろう。
華やかな顔の子が僕を見ていた。なるべく感じよく笑う。
「ん?」と首を傾げ「お友達?」と続ける。
聞いた瞬間に彼女はすぐ視線を逸らした。
また、だ。何がいけないのか。
代わりにことちゃんが返事をした。
「はい、同じ病院の同僚です。ちょっと近くでお昼食べてきたので……」
「これっ! これっ! このはなび! なんと、バルーンジャーのはなびなんですっ!」
郁人が遮るようにそう言い、花火を持ち上げた。ことちゃんは郁人と楽しそうに笑って話している
僕がその風景を微笑ましく見ていると、ことちゃんの友達は彼女を引っ張って店先に連れて行ってしまった。
「まこっちゃーん??」
郁人が声をあげる。僕の方を見て、二人で顔を見合わせる。
「急いでたんじゃないのか?」
外から、ちょっと待ってー、と郁人の声に彼女が答えた。大きな声を始めて聞いた。小さい笑い声も可愛いが、大きい声もそんなに出るのだと驚いた。
「おとーさん、まこちゃん、はなびしにきたのかな?」
「いや、今日は約束してないだろ」
そう言い、小上がりの畳のカレンダーを見た。花火は来週の約束だったはずだ。今日はたまたま近くに来て、寄っただけだろう。
「今日は時間がないんじゃないのか」
郁人は頬を膨らまし、僕を睨んだ。
「お父さんを睨んでもダメだぞ。わがまま、言うなよ」
ことちゃんが店に入ってきた。郁人は彼女に勢いよく抱きついた。
「あ、こら、郁人っ!」とっさに声をあげる。
ことちゃんは少しよろめいたが、ぎゅっと郁人を抱きしめた。
「どうしたの?」
彼女は穏やかに郁人を見た。発した声が亜沙妃と重なる。
声は似ていない筈だ。なのに、何度も聞き間違えてしまう。六年のも時間は、彼女の声を曖昧にしてしまったのか。動揺した気持ちを打ち消す様に頭に手をやると、風鈴の音が静かに鳴り響いた。
「まこっちゃん、はなびしよっ! きょうしよっ!」
「こら、わがまま言うなってさっき言っただろ。来週で約束してるんだから、それまで我慢しろ」
郁人がわがままを言うことは珍しかったが、彼女は家族ではない。ある程度の線引きは必要だ。子供はまだそのところが難しい。
 僕は彼女に抱きついた郁人の腕を持とうと手を伸ばした。
「あ、私、今日、大丈夫ですよ。休みですし、せっかく買った花火も早くしたいよね」
ことちゃんはそう言い、目線を郁人と合わせた。
「やったぁぁぁ! やったっ、やったっ、やった!」
郁人はまた花火を持って踊り出した。ったく、本当に懐きすぎるのも考えものだ。
「あれ、お友達は?」
「あ、春香はもう帰りました」
申し訳ないな、気を使わせてしまった。
郁人は上機嫌で花火を持ち、小上がりの畳を登り、奥の部屋に向かった。
「ごめんね。お友達と一緒に来てくれたのに、郁人がわがまま言って」
僕は店先に出た花を持って、店内に入れた。
時刻は夕暮れに向かっている。陽が陰る前に片付けをしようと、店先の鉢を持ち、ショーケースの前に置いた。顔を上げると視界に白い手が伸び、僕が首に掛けていたタオルで顔の汗を優しく拭われた。
「あ、」
透明感のある肌が顔を赤くし、僕を見つめていた。距離が近く、彼女の瞳に自分が写っている。綺麗な瞳だ、小さな口が可愛い。思わず触りたくなって、手を伸ばしそうになり、ふと冷静になった。
今、何をしようとした?
「あ、っと、えー、っと、ありがとう」
言葉が続かない。
「おとぉぉぉさぁん! きょうピザにしよぉ!」
彼女は僕のタオルから素早く手を離した。郁人を見る。
「郁人、ピザはこの前食べただろ」
「え〜、だって、せっかく、まこっちゃん、いるし、ピザおいしいし?」
郁人はことちゃんを見ながらチラシを振り回している。彼女の顔を正面から見ることができず、頭をかいた。
「まぁ、そうだな。ピザ、みんなで食べられるし、な」
シャッターだけ閉めておこう。片側のシャッターを下ろす。
「えっと、ことちゃんは何のピザがいい?」
そう言いながら、今、自分の中に湧き上がった感情に本気で戸惑い始めた。本当に自然に、気づけば彼女は僕の視界の中に居た。感情より早く体が反応しようとしていた。
 そこまで思って、考えるのをやめた。この感情は掘り下げてはいけない。


 ピザを食べた後は、家の裏に花火を持って向かった。
僕が子供の頃、ここがまだ祖父の家だった時にはよく花火をしていた。昔は小さな川の水はもっと綺麗だったが、今はわずかな水しか流れていない。水の入ったバケツを暗いアスファルトの上に置く。
「まこっちゃぁぁぁん! こっち、こっち、きて!」
郁人が跳ねながら花火を振り回している。
「行く、行く〜」
ことちゃんは急に走り出した。
彼女は思ったより活動的だ。見た目はお淑やかで上品そうなのに、意外とすぐに走り、転けたりする。線が細い外見の割に、動き回る。
「ちょっと、ことちゃん、夜道を走ると危ないよ」
僕が声をかけると、振り返って
「大丈夫でーす」と笑った。
また、声が亜沙妃と重なる。重なった声を反芻する頭を振った。
亜沙妃も僕の言うことは何一つ聞くタイプではなかった。
中々彼女には驚かされたが、最も驚いたのは新婚旅行先のハワイでバンジージャンプをした事だ。予定になど全くなかったのに、彼女は突然に「初めての事にチャレンジしたい」と言い出し、僕が止めるのにも関わらず、英語で書かれた「死んでも責任は問いません」の文書にサインをし、飛び降りた。ためらいなく飛び降りた彼女に、僕は恐怖を覚えた。
バンジージャンプの後に僕の方がびくついてしまい、戻ってきた彼女を思い切り抱きしめた。
今、思えば本当に肝の小さい男だと思うが、彼女のあっさりとした男みたいな性格に僕は一番惚れていたのだろうと思う。その性格が災いして、死に繋がってしまったとしても。
 三人で屈んでロウソクに火をつけ、順番に手持ち花火を持った。
「こら、郁人っ、人に向けて花火を持つな」
「おとーさん、きいろとあかとしろといろついてるね」
「郁人くん、この花火長いよ!」
「あ、ほんとだ〜これずっとシューシューいうね」
色鮮やかに火花を散らし、煙が上がる。
夏の空気と火薬の匂い、それが混じり合って周りに漂う。ゆらゆらと夏風にろうそくの火がゆらされる。花火の火に照らされた郁人は笑顔を浮かべてことちゃんを見ている。今年の夏は彼にとって、色鮮やかなものになっているだろうか。父親として息子の笑顔はやっぱり嬉しい。こんな時間を作ってくれたことちゃんの存在をありがたく思う。
「あ〜、あしかゆい〜」
郁人は足をサンダルで擦っている。
「あ、痕になるよ」
ことちゃんは郁人の足を覗き込んで、携帯のライトで照らした。
「虫除けスプレーしたのにな」
自分の腕に違和感を感じて、叩いた。手の平を見ると蚊が潰れていた。
「見ろ、お父さんが仇うったぞ」
笑って、左の手のひらを郁人に見せる。
手を拭いて線香花火に手を伸ばした。
「おとーさん、なんでさいごにせんこうはなびなの?」
郁人は僕の横に座った。
「さあ、どうして最後なんだろうな。お父さんも知らないな。何となく決まってるんじゃないのか」
線香花火を各自持って火をつける。
パチパチと音を立て、小さな丸が弾けている。
「かわいいね」
郁人が呟く。線香花火が揺れた。
「なんか、線香花火ってーーーー」
その光を見て、思わず言葉を漏らしてしまった。しかし、続きは言うのをためらった。
「続きは、何ですか?」
ことちゃんが僕の顔を覗き込む。郁人も僕の顔を見た。
「おとーさん、きになる〜。なになに?」
問われた言葉の先が、センチメンタルみたいで言葉にするのが気恥ずかしく思えた。おっさんの哀愁っぽい発想だった。
「なんか、幸せの形に似てるなって思って」
ことちゃんはバカにしなかった。
真剣な表情を浮かべている。
「おとーさん、それどーゆういみ? むずかぁしい〜」
郁人が発した言葉で線香花火が揺れ、地面にポトンと落ちた。言葉の意味を理解するのも、線香花火を最後まで散らすことも郁人には少し難しいか。
 僕と郁人の幸せ。
奈良崎は電話でそれを気にしてくれた。幸せはきっと過ぎ去ってから気づくものだ。でも、郁人がいるから、これから先の幸せも考えていかなければならない。
僕の中での価値観は混在している。息子と穏やかに平凡に暮らしていくことこそが今の僕の最大の幸せだ、と思う一方で、どうしても自分の手で殺したいほど憎い相手がいるのも事実だ。
「まとめて五本ぐらい火つけたら、ずっとパチパチするんじゃない? そしたら、おとーさんのいう、しあわせがもっといっぱいになるんじゃない?」
郁人がそう言った事でハッとする。
そうだな、幸せが増える事を考えないと、な。
でもどうすれば、この憎悪に打ち勝てるのか、もうこのまま持ち続けてもいいか、と矛盾したどうにもならない気持ちでさまよっている。
「そうだね、いっぱい火をつけて燃やしちゃおう」
ことちゃんはそう言って笑った。二人で一気に火をつけようとしている。
「こら、それは一本だぞ。全部に火をつけたら危ないから」


 花火がよっぽど楽しかったのか、郁人はその晩中々寝付かなかった。寝る前もボソボソと独り言のような、寝言のような言葉を繰り返していた。
「うん、うん、そうだね。パチパチだね」
僕と会話をしていないのに、相槌を打っている。
思えば、彼にはこう言うことがよくあった。物心ついた頃ぐらいから喋るのが上手で、僕が教えていない言葉もよく知っていた。保育所の先生は「頭の回転が早くて、人見知りしない性格」だと褒めてくれていた。
 驚いたのはよく天気を知っている事だ。天気予報を見ていないはずなのに、次の日の天気やこれからの天気をよく知っていた。雨に降られたくない僕にとってこれはすごくありがたかった。
 僕も目を閉じた。郁人はもうすぐ眠りにつくだろう。
夏の暑い夜に郁人の声が小さく響いた。
「うん、おやすみ、ママ」


 市場から入荷した花を整理していると、店の入り口が開く音がした。
「いらっしゃいませー」
声を出して、客を見ると身長の高い女性だった。僕と同じぐらい。百七十センチぐらいはあるだろう。彼女は僕を視界に捉えると、まっすぐに進んできた。
「いつも、りいがお世話になっています」
女性にしては少し低い声が店に響いた。りい? 名前を聞いて郁人が飛び出てくる。
「あー、りいちゃんママだぁ!」
「あ、こちらこそお世話になってます」
頭を下げた。僕の顔を凝視し、彼女は笑った。目を逸らされなかった。笑顔を浮かべてくれた。嬉しくなる。
「いっくんパパはイケメンね。左のココはどしたの?」
左の瞼を指差して聞いた。
「あ、えっと、ちょっとした事故で」
僕が答えると彼女は明るく笑った。
「事故は怖いよね。治って良かったね」
明るい人だな。なんでもない事のように聞かれると、こちらも同じ調子で返してしまう。でもなんか違和感がある。前すれ違った、りいちゃんママはもっと小柄な人ではなかっただろうか。
「ちょっと〜ママ、先に行かないでよ。ちいママが早いって言ってたよ」
郁人と同じぐらいの女の子が店に入ってきた。それに続いて、以前すれ違った記憶の中のりいちゃんママが現われた。
「あれ?」
「おとーさん、りいちゃんはパパがいないこって言ったでしょ」
郁人が声を上げる。本人を前にそれを言うな、と注意しようと振り返ると郁人は続けた。
「その代わり、ママが二人いるんだよね?」
りいちゃんは、そうそう、と相槌を打った。
「そうそう、元パパで、今はママ」
あ、そう、なんだ。言葉を失う。
「やだ〜イケメンなのに、その残念な顔。面白い。ビックリさせちゃいました? 今日はみんなでお泊まり会をしようって話を、りいから聞いたので挨拶に来たのよ」
りいちゃんママは、元パパ。ちいママは「ちっちゃいママ」の略で本当のママ、らしい。あとで郁人が教えてくれたが強烈な自己紹介だった。
 お泊まり会はりいちゃんの家で一週間後に行われるらしい。子供の間で話が出ていたが具体的に決まってはいなかったので、わざわざ直接、知らせに来てくれた。
僕は店の名刺を渡して挨拶をした。当日は荷物を持って小学校に集合で、と話はまとまった。
「りいちゃんママおもしろいよね〜、おとーさんもいつかママみたいに、かみのけのばしたりする?」
いや、しないな。僕は笑って、首を振った。
「お泊まり会って他にも友達が来るのか?」
保育所が一緒だった子の名前が何人か上がった。
小学生になったらこんな約束も自分でしてくるのか。僕は畳の部屋にかけたカレンダーに郁人のお泊まり会の予定を書き込んだ。


 ことちゃんは夜勤前や仕事終わりに店に覗きに来てくれた。僕はタオルで汗を拭われた一件を機に彼女との距離には気をつけていた。
あの時は無意識に手が伸びそうになった。近づきすぎると危険だ。彼女は確かに僕を嫌ってはいないようだが、僕としてはその向けられる感情に対しての答えを持ってはいなかった。
 彼女は可愛いし、顔を見るのは嬉しい。でも、それ以上の感情を抱き関係を深めるのは怖い。そんな資格は自分にないとも思う。で、最初に戻る。そこをぐるぐると回っている。
本当に煮え切らない男だ。しかし、彼女も無理にその距離を詰めてくるようなことはしなかった。二十二歳だけれど、とても彼女は落ち着いている。見た目は若く、活動的な面もあるが、看護師という職業柄か、自分が静かに観察されているのではないか、と時々思うことがある。


 盆がすぎると朝夕の気温が下がり、通り雨の回数が増えた。僕は必ず、夕方の外出の際は傘を持って出かけていた。
でも、今日に限って忘れてしまった。郁人の泊まりの荷物を持っていたため、うっかりとしていた。郁人と一緒に小学校で別れて、帰りは急いで帰った。雲行きが怪しくなったのはすぐだった。焦って、家路を急いだ。間に合え、と思った瞬間、東の空で雷が落ち、入道雲が一瞬にして上空に現れ、土砂降りの雨が僕を襲った。
 目の前が真っ暗になり無我夢中で走った。雨に濡れたのは六年前のあの日以来だった。
息がうまくできなくて苦しい。雨の匂いと雫が全身を包んで、吐き気もする。靴の中も水が溜まっているのだろう、前に進める足を動かすたびに、グジャグジャと何かを潰したような鈍い音がする。その音が鼓膜に張り付く。
 走れ、走れ、早く、家に、帰れ。
緑のアーケード、山瀬生花店の文字が見えた。ポケットから家の鍵を出そうとして手が激しく震え、鍵が取れない。間に合わない、そう思った後、目の前が真っ暗になった。前が見えない。鍵が探せない、扉が開けられない。
走馬燈のように記憶が甦った。
あいつがやってきた。血で光ったナイフを持った男が亜沙妃の上に乗っていた。僕は状況を理解するが早くその男に殴りかかった。ナイフを手で掴んだが、痛みより神経に伝わったものは暖かさだった。ナイフが食い込んだら痛いより暖かいんだ、とどこか冷静な頭でそう思った。手が心臓のように脈を打っていた。亜沙妃の名を呼ぶ、彼女は返事をしない。郁人はどこだ。布団の中で横たわっている。冷たいか、息をしているか。駆け寄りたいが先にこいつをどうにかしたい。男は笑って、ナイフを引き抜いて外に出た。左手から血が溢れた。 
僕は雨の中、男を追いかけた。
男に追いつき、思いっきり力任せに殴ろうとしてナイフが顔に降ってきた。避けたが、刺さるような痛みが瞼と頬に走った。男の胸ぐらを掴んで、頭を激しく殴った。男は雨のアスファルトの上で頭から血を流して横たわった。男は動かなくなった。
心をバラバラにされるような感覚が全身を支配した。
何度これを味わえば、ここから僕は逃げきれるのだろう。両手が震える。雨の雫が滴っているのか、僕の涙が溢れているからなのか、僕は何処へにも行けない。亜沙妃。名前を呼ぶ。返事はない。
ただ一目でいい。一目でいいから会いたい。
「史悠さん!」
名前を呼ばれた。僕の名前。
「あ、あ、あ、あさひ?」
誰だ、まさか迎えに来てくれたのか。僕は早く君に逢いたい。霞みがかった視界で亜沙妃が、どうしたの、という目線を送っている。あ、迎えにきてくれたんだ、と僕は何かが解放された気持ちになった。手を引かれて店に入る。
 彼女を抱きしめる。ちょっと痩せたんじゃないか。抱き心地が違うぞ。いや、六年も経ったのかと、長い六年だったと思い、涙が溢れる。
絶対、もう離さない。
「あ、逢いたかった」
力を緩めず抱きしめ、早くもっと抱いてしまいたいと手を引いて家に上がった。奥の部屋に入って彼女を横にする。彼女にすかさず、覆いかぶさる。でも、優しくもしたい。とんでもなく優しくして、甘く囁いて、溶かして僕だけの腕の中に閉じ込めておきたい。
「あ、あの! 史悠さん! 雨でびしょびしょで! あの、私は麻琴です」
声は亜沙妃そのものだった。
まこと、誰の名前だったかと頭をよぎったがすぐに消えた。
「あ、雨が、止まない。あ、亜沙妃、逢いたかった。愛してる」
抱きしめて耳に口を寄せる。言い足りない気持ちが溢れる。
「愛してるよ」
「愛してる。逢いたかった」
全然、言い足りない。どうやったら、僕のこの気持ちが伝わるのか。彼女の耳の裏を見て、ほくろが見つからなかった。代わりに少し耳は小さくなった気がする。唇を重ねようとして、形を確認しようと手を伸ばした。輪郭をなぞる。綺麗だな、可愛い口だ。とても美味しそうに見える。唇を落として、頭を支える。
頭も少し小さくなったか?もう六年以上、抱いていないから分からない。舌を彼女の口の中に押し入れて、口の中の味を味わう。雨の匂いが消えない。
「―――、ッン、史悠さん、ダメッ」
「史悠さん!」
さん付けじゃなくて、いつもみたいに、史悠、って呼んで。唇を何度も重ねて、舌を入れる。亜沙妃は声をあげて、僕を見た。涙が溢れる。夢にしては幸せすぎる夢だな。彼女を抱きしめる。
「っあ、逢いたかった、さ、寂しかった」
情けない男でごめん。夢の中でも君に会いたくて堪らなかったんだ。こうやって触れられることができるなんて、思いもよらなかった。
「大丈夫です、怖くないですよ」
亜沙妃は優しく抱きしめ返してくれた。
怖くない、僕は亜沙妃がいれば怖くない。
「亜沙妃、愛してるよ」
彼女にゆっくりと心からの想いを伝え、服を順番に脱がせた。服を脱がせているとやっぱり痩せたんじゃないか、心臓の前に傷も出来て体自体も少し強張っているように感じた。彼女が怖くないようにゆっくりと時間をかけて肌に触れた。こんなにも女の人の肌は白くて透明感があって、ハリがあったのかと思うと興奮してしまった。嬉しさが1番優って、涙で前が見えないほど彼女を抱き潰した。何回も、抱いては果て、抱いては果てを繰り返した。
「亜沙妃、体、大丈、夫か? 亜沙妃、愛してるよ」
そう囁くと彼女は僕を優しく抱き返してくれた。
 六年間ゆっくりと静かに自分でも気づかないぐらい溜まった寂しさの雫がコップから溢れでてしまった。名前を呼んで、抱き返してくれて、今まで僕の寂しさはどこへも行けなかった。郁人のことも話したい。大きくなった。僕達の子供だ。亜沙妃と一緒に成長を見たいと思っていた。
 今だけは憎しみを忘れて、亜沙妃の甘さに深くまどろんでいたい。そう思って、僕は目を閉じた。
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