第14話 雪解雨 ―史悠side―

文字数 9,235文字


 冬は空から舞い落ちてくる。
 雪に乗ってやってくるのが冬だと思う。僕は季節の中で一番夏が好きだ。けれど、対極にある、冬もそこまで嫌いではない。梅雨ほど嫌悪感はない。郁人も僕も春生まれだから、そこまで寒さが得意ではないけれど、雪が夜中に降って、朝起きた時にカーテンを開けた時の眩しさは、他に例えようがない。夏の海に反射した太陽の光よりひょっとしたら輝きを放っているかもしれない。きらめいて見える物には時間が限られているのかも。有限だからこそ、美しく見えるのかもしれない。降っている雪も、人間も。
 郁人の学童の迎えの途中に雪が降り始めた。風がないためゆっくりとまっすぐ地上に落ちてきている。見上げると、鼻に雪が乗った。吐いた息が白く上がる。冷たい空気が喉を通って、肺の内側から体を冷やす。両手をポケットに入れて、擦り切れたズボンの裾で足を進める。
 十二月下旬になり、世間は年末に向かって時間が進んでいる。クリスマスが過ぎたら年末の勢いは一旦萎んで、小さく纏まって、新年を迎えるとまた膨らむ感じ。
「おとぉぉぉさぁん!」
郁人が白い息を吐きながら、学童教室の出入り口から走ってきた。今日は少し早めに迎えにきたので時計は午後五時。冬至は過ぎてしまったから、これから陽はどんどん長くなっていくけれど、まだ実感はない。
「郁人、走るなよ。転けるぞ」
「だいじょぉぶだよぉ〜」
雪の中、家に向かって帰る。帰り道の途中に多々羅屋の前に飾られている雪だるまの電飾を見つけた。
「おとぉぉさぁん! このおおきなゆきだるま、おみせにかざろうよ〜」
「それは売り物じゃないだろ」
郁人が触っている大きな光る人形に近づく。奥から白髪の多々羅さんがダウンジャケットを着て出てきた。
「それ、売り物だよ」
「あ、ねだんかいてる」
郁人が値札を触っている。
「いつも娘の花、ありがとうね、この前のハロウィンのかぼちゃもね、ひ孫が喜んでたよ」
多々羅さんが十月に買って行ったおばけかぼちゃを思い出した。
「いえいえ、こちらこそご贔屓にして頂いてありがとうございます」
「おとーさん、これ、おみせにおこうよ」
値段にちょっと躊躇してしまった。
「もう、これずっと店に置いてたから、半額でいいよ」
その多々羅さんの言葉に郁人が目を輝かせる。
「やったぁ、おとーさん、おかいどくです!」
ったく、どこでそんな言葉を覚えてくるんだよ。
ため息をつきながら財布を出した。


 近くの大きな公園でウィンタースノーイルミネーションが開かれている、とりいちゃんママから学童の帰りに聞いて、僕は携帯を持った。ことちゃんに仕事終わりに寄ってもらって、郁人と一緒に行くつもりだ。
行く直前まで彼女に内緒にして、サプライズ的に言えば喜んでくれるだろう。
彼女にメッセージを送った。彼女から、わかりました、とだけ返信があった。付き合い始めて知った事だが、彼女はそんなに連絡をマメにしてくる方ではない。むしろ、僕の方が彼女に電話をしてメッセージを送っている事が多い。前は彼女が花屋に来てくれるのを待っていたのだが、今は待たなくても自分から彼女の予定を聞ける。恋人になってそれが嬉しかった。しかし、彼女が退院した日には少しやりすぎてしまったかもしれない。彼女の両親に挨拶した手前、嫁入り前の女の子を同意もなく抱いてしまった事実は僕の中で戒めのように残っている。彼女を大事にしたい。誰よりも大事にして、大切にして守っていきたい。
 時計を見ると六時過ぎだった。郁人を今日も早めに迎えに行ったので、彼は小上がりの畳の部屋でテレビを見ている。バルーンジャーの流行りはまだ彼の中で続いているらしい。クリスマスプレゼントはその方向で行こう。
 僕はカウンターから出て、切り花の状態を確認する。寒いと花の持ちも品種によって変わってくる。空調管理をしているが、ハウスの花はやっぱり低い温度に弱い。なるべく室内で、暖かく日当たりの良い方に移動させるが、個体差は大きい。
 店先のポインセチアとシクラメンを片付けて、横に並んだ光る雪だるまを見る。
 こいつを店の中に入れると一気に店が狭くなる。確かに季節感は感じるが、冬以外の置き場に困ってしまう。
「おとーさん、きょう、まこっちゃんとイルミネーションいくんでしょ? りいちゃんママがおしえてくれたやつ」
「そうだよ。郁人も片付け手伝え」
「おっけー」
二人で店先の花を片付ける。不意に郁人が手を止めてアーケードの入り口を見た。
「あ、まこっちゃぁぁぁん!」
郁人が声をあげた。彼女は笑いながら僕と郁人を見て歩み寄って来た。小さく笑う声が高くて耳触りがいい。彼女はロングのダウンコートとブーツ、マフラーに手袋を身につけていた。外をしばらく歩いても防寒は大丈夫だな。
「郁人くん、史悠さん、こんばんは」
彼女に郁人と二人で返事をして、片付けの手を早めた。
「あれ、もうお店閉めちゃうんですか?」
「うん、一緒にイルミネーション見に行こうかなって。ことちゃんも一緒に行こう。明日休みでしょ?」
思わず彼女を見て笑みがこぼれる。ビックリしたかな。彼女は声を上げてまた可愛く笑った。
「……また笑ってる。思い出し笑い?」
「史悠さんの事、考えてたんです」
その言葉にこっちまで口元が緩みそうになる。顔を見るだけで嬉しいのに、そんな事言われたらどう反応していいか照れ臭い。
「目の前に本人がいるのにこっち………」
こっちを見て、と言いそうになって、はたと郁人の視線を感じて、口を閉じた。危ない。
「おとーさん、もうにやにやしないでよぉ。イルミネーションみにいくんでしょ〜」
「だから、にやにやじゃなくて、ニコニコって言え」
もう郁人には、お見通しかもしれない。まあいいか。郁人もことちゃんのこと大好きだから一緒だ。
 片付けを済ませ、白の軽ワゴンに乗り近くのイルミネーションがある公園に三人で向かった。シーズンのせいか人は多い。郁人と手を繋ごうと彼の手の先を見るとしっかりとことちゃんと手を繋いでいた。先にやられた、と息子相手に少しムキになる。大人気ない。
「人、多いね」
口から白い息が上がった。
「そうですね。はぐれないようにしないといけないですね」
イルミネーションを人の波にもまれながら見て、二人が転けないようにと気にしていた。イルミネーションの点灯が不規則で目を奪われて、つい足元が疎かになりそうになる。
 頭二個下、細い艶のある髪の子とふわふわした髪の毛が浮いている子を見て、ライトに照らされる二人の顔をずっと見ていられるな、と思った。
 不意に僕の手が握られ、ことちゃんを見る。彼女は真っ赤にして僕を見上げた。その表情に胸に嬉しさと僅かな欲望が広がる。手を握って、引き寄せて、すぐ抱きしめたくなってしまう。握っていると海で雪を見た日を思い出してなんだか落ち着かない。もっと深く、もっと欲望にまみれて彼女を支配してしまいたい気持ちが渦巻いてしまう。
 握られた手に名残おしさを感じながら、彼女の服に入れて、そっと手を離した。
「手握るより、ポケットの方がいいよ。暖かいし、人が多いから転けたら、そっち郁人と手を繋いでるから、こっちは自由な方がいい」
嫌ではない、という意思を伝えるために、彼女の耳に口を寄せる。彼女は声の近さにビックリした様子だったが、すぐに頷いた。
「みてぇぇぇ! まこっちゃん! あのトナカイうごいてる!」
公園の端の動く電飾を指差して、郁人は興奮した様子だった。
「本当だ〜、何匹いる? 三匹? 四匹?」
「四ひきっ」
「一、二、三、四匹だねぇ〜」
順路を巡った後は帰りにファミレスで夕食を食べた。
店を出る頃には時間が九時を過ぎていた。郁人は明日も学校のため先に家に帰した。ことちゃんと郁人はまた遊ぶ約束をしていた。車に彼女を乗せて、彼女の家まで送る。国道は九時を過ぎていたが、まだ車は多く走っていた。車内の温度を確認して、ハンドルを握る。
「寒くない? 大丈夫?」
「大丈夫です、でも」
彼女を見ると僕を見ていた。
「でも?」
その視線を感じて、聞き返す。
「手を繋ぎたかったです」
その言葉にドキッとして、嬉しい気持ちの反面、困ってしまった。彼女から手を握ってくれようとしたのは初めてだった。嬉しかった。嬉しかったけれど、二人きりでこれをまた言われると手だけでは済まないような気がして、迂闊に手すら出せない。
「えっと、それは、今日は人が多かったし。また今度ね」
赤信号で車を止めた。車の中に沈黙が流れる。ちょっと重い沈黙。彼女は不安に思っただろうか。
「分かりました」
返事はやや納得していない要素を含んでいたが、僕はそれに気づかないふりをした。そこを掘り下げてしまうと、歯止めが効かなくなりそうだ。
 車を佐原家へと進めて、家の門の前で車を止めた。着いたよ、と声を掛けようとしたら、シートベルトを外した彼女に名前を呼ばれた。
「史悠さん」
彼女に両腕を持たれる。裾を掴まれ、彼女はゆっくりと目を閉じた。顔が近い。勘弁してくれ、と理性と闘いながら、口にするときっと触れるだけでは満足できないと感じて、なんとか額に口付けた。髪の毛も一緒に触れる程度。愛しい彼女。大事にしたい。
「寒いから、早く家に入って。今日は、ありがとう。おやすみ」
抱きしめたかったけれど、我慢。彼女はスッと車から降りていった。運転席の窓を開ける。
「今日はありがとうございました」
僕は彼女に手を振る。家に入るのを見届けてから、車を発進させた。
 恋人になってからますます彼女は可愛い。僕の心の中の大部分を大きく閉めるようになってしまった。それに心地よく感じているし、愛しさも膨らんでいる。それと同時に僕の中で彼女を支配したいという独占欲も大きくなっている。まだ二十二歳だと言うのに、一緒に暮らそう、結婚を考えているなんて事を口に出して彼女の数ある未来の道を奪ってしまう事が怖い。彼女の人生も大事にしたい。それほど彼女は僕を救ってくれた。そんな彼女を僕一人の独占欲で閉じ込めてしまうわけにはいけない。
 きっともう一度抱いてしまったら、本当に僕は歯止めが効かなくなる。誰の目にも晒したくなくなって、余裕もなくなって、すぐに何度も彼女を抱きたくなってしまう。彼女との距離を大事にして、もし彼女が僕じゃない、となった時でも、彼女を送り出せるような大きな器を見せたい。でも同時に、そんな事をするものか、と抵抗している自分もいる。いつも僕は決めるのが遅く優柔不断だ。情けない。でも、彼女と一緒にいたい気持ちは本物。
 大きくため息が出て、車のハンドルを握り、アクセルを踏んだ。


 十二月のクリスマスにことちゃんに何を買おうかと思って、悩んだ挙句、ネックレスにした。若い女の子どころか六年以上女の人にプレゼントなんて買った事がなかったから緊張した。亜沙妃にはアクセサリーは指輪以外、贈った事はない。それは、彼女が元々、装飾品が好きではないのと、花を欲しがった事に関係していた。クリスマス、誕生日も花。結婚記念日には少し大きな鉢植え。
 だから、女の人のアクセサリーなんて何にも分からなかった。恥を忍んでりいちゃんママに相談したぐらいだ。送る相手については深くは聞かれなかったけれど、二十代の女の子と言った時点でひょっとしたらバレバレだったかもしれない。
 クリスマスに彼女と郁人と三人、家で一緒に夕食を食べた。チキンとケーキを囲んで、ことちゃん一人増えるだけで、こんなにクリスマスが華やかになるとは思いもよらなかった。ことちゃんは郁人と僕にプレゼントを準備してくれていた。郁人にはバルーンジャーのおもちゃを。僕にはマフラーを。
 郁人が見ていなかったら、僕は彼女を抱きしめて、一緒に暮らそう、だなんて言っていたかもしれない。それほど、幸せで満ち足りたクリスマスだった。


 火曜日はいつの間にか、橋元記念病院に田谷を見に行く日ではなくなり、ことちゃんと過ごす日になっていた。田谷の事が気にならないと言ったら嘘になる。あいつが目を覚ましても、覚まさなくても僕はあいつを許す事はできないし、この思いはずっと僕が生きている限り、僕の頭の中にあるのだと思う。でも、それよりも僕のこの憎しみを預かろうとしてくれることちゃんの存在の方が大きい。彼女の事を考えると憎しみが和らいでいくようだった。彼女の声を聞いて、笑顔を見つめて、一緒に居るだけで、自分も彼女のまっすぐな美しさに感化されるような気がする。


 二月になった。彼女との関係は順調で、穏やかに交際は続いている。僕の中の欲望もなんとか彼女を前にして暴走せずに、大切にできていると思う。ただ、二人きりの時に不意に彼女が僕を見上げた瞳や心地よく笑う声を聴くと、少し危ない。もっと色んな声を聞きたくなり、色んな表情をさせたいと言う感情が沸き起こる。そこをなんとか押し込んでいた。


二月の最終週の月曜日。日本列島は記録的寒波に襲われ大雪に見舞われた。交通機関はマヒし、大通りの国道には積雪10㎝を記録した。
次の日の火曜日、天候は一転し、陽の光で雪はゆっくりと溶けていった。しかし、午後からの降水確率は80%と高かった。
 火曜日の朝、ことちゃんから電話がかかってきた。彼女から電話がかかってくる事は珍しかった。
「麻琴です、今日、午後から天気が悪そうなんで、私が史悠さんの家に行きますね」
その言葉に僕は眉を寄せた。
「いや」
それはまずい。郁人もいない家で二人きりはこの状態では居られない。
「いや、家はダメ」
言った後にちょっとキツい言い方だったかな、と思う。そもそも普段は家に来ているのに、火曜日だけダメっていうのも変だ。
「え、どうしてですか?」
案の定、彼女は納得できない口調だった。
当たり前だ。不審に思うのも無理はない。
「いや、今、ちょっと、散らかってるし、その、綺麗じゃないし」
言い訳っぽい言葉を並べるが、彼女を説得できるような答えが見つからなかった。ちょうど、掛かっていた天気予報が少し遠い公園の梅の開花を告げていた。
「私は全然、散らかってても気にしないですよ。一緒に片付けしましょうか?」
その言葉を聞かなかったように、口を開ける。
「あ、そうだ、行きたいところがあるんだけど」
テレビの公園の場所を見ると電車と徒歩で行ける距離だった。これを言い訳にしよう。
「でも、午後から降水確率80%ですよ。昨日の大雪も残ってるし、家で過ごす方が良いーーー」
「いや、今日は外に行きたいところがあるから」
彼女が雨の心配をしてくれていたが、僕は雨よりも彼女と二人になって自分の欲望をコントロール出来なくなる方が怖かった。
 彼女は結局、僕の提案にしぶしぶ乗っかってくれた。

 
 待ち合わせを彼女の家の近くの駅に変更して、僕は電車に乗って、目的の駅で降りた。道路脇には昨日積もった雪が残っていた。駅の出入口で彼女を待っていると、濡れたアスファルトの上を駆け寄る彼女の姿が目に入った。
「ことちゃん、走ったら危ないよ」
「大丈夫ですって」
彼女は白い息を上げて僕を見た。頬が赤く染まっている。
「これ見て」
僕はとっさに調べた公園の情報を彼女に見せた。
「ここの公園、もう梅の花が咲いてるらしいから、これ見に行こう」
彼女は覗き込んだ後に、僕の顔を窺うようにジッと見て言った。
「分かりました。ここに行きたかったんですね。すみません、雨が降るから、家の方がいいと思って気を使いすぎました」
隣に彼女が来て、ふわっと彼女の香りがした。
「いや、行きたかったというか、家に居たく無かったというか、まあ、行こう。ことちゃん花好きって言ってたよね」
家の話はいいや。その問いかけに彼女はふふふ、と笑った。
「史悠さんの方が好きですけどね」
長いまつ毛を携えた瞳が僕を見上げた。瞬間ドキッとする。小さな口を見つめる。欲望を打ち消すように僕は苦笑いを浮かべた。
「私、今日、史悠さんに話があるんです」
彼女は少し声色を固くして言った。
「話?」
その口調に僕は首をかしげる。
「はい、大事な話です」
大事な話。嫌な事が頭をよぎった。やっぱり、史悠さんと一緒にいられないんです、って言われたらどうしようか。僕は彼女の違う未来を応援できるのだろうか。とんでもないが、そんな事は言えそうになかった。器の大きな男なんて所詮、僕には無理に等しいと知る。
「分かった、公園で落ち着いて聞くよ」
なんとか落ち着いた声を出して、足を駅に進めた。



 電車に乗って、梅の花の公園の最寄りの駅で降りた時から雲行きは怪しくなっていた。天気予報は当たりそうだ。携帯を見ると午後一時過ぎ。灰色の分厚い雲が上空に広がる。
 彼女は僕の横に並んで歩く。小さな口から白い息が上がる。頬は寒さのためか少し赤く染まっている。その美しさに見惚れそうになる。綺麗で、可愛い。公園に着くと雨が降り出して、僕と彼女は傘を広げた。昨日の大雪と天気のためか、誰も公園にはいなかった。傘に雨が当たる音がするが、頭は痛くならなかった。吐き気もない。落ち着いて息が出来る。酷く穏やかな気持ちだった。彼女が大事な話がある、と言っていたがそれだけが気がかりだ。
公園にはソメイヨシノ、枝垂れ柳、イチョウの枝に雪が乗っていた。垣根椿のピンクがかった赤に雨が染み込み、雪が溶け入って、雫が落ちている。地面には茶色と黄色の落ち葉が落ちているが、少しでここは人に管理されている公園だということが伺えた。
足を進めると、紅梅が少し花開いた木々があった。横には屋根のついたベンチがある。時期はまだ早かったか。
「咲いてますね。少しですけど」
「そうだね。まだやっぱり早かったね。寒いし」
「あ、あそこに自動販売機ありますね。暖かいの飲みましょう」
彼女は指差して、また走って近づこうとする。僕はその背中に続いた。
二人でコーヒーとカフェラテを買って、屋根付きのベンチに座った。雨が屋根を伝って静かに落ちていく。雪解雨は細かく、大きな塊を作るまでには至らない。落ちていく雨を見つめて、まさか自分が雨の日に進んで外出をするなんて思いもよらなかった。それほどことちゃんの存在は大きい。
昔、雨を美しく感じていた。
花と一緒に雨の風情を感じて、音に耳を澄ませて、雨の中の外出も苦ではなかった。亜沙妃を奪われた日から僕の世界は色を変えた。雨は恐怖と憎悪の象徴となった。まさか、こんな風に雨の中を歩くなんて思いもよらなかった。
 不意に左手越しに触れるものがあって、とっさに僕は手をあげた。彼女の表情で、僕の手に触れようとしていたのだと分かり、焦った。
「あ、ごめん。えっと、避けたわけじゃない、えっと」
触ってしまったら、最後、僕は君を大事に出来ないかもしれない。束縛して、抱いて、閉じ込めて、愛を囁く以上に欲望で埋め尽くしたくなる。
「史悠さん」
彼女は僕の目をまっすぐと見つめた。僕はその視線にたじろぐ。逃げられない、彼女は気づいている。僕が欲望を隠している事を。
「女性としての魅力ないですか? 私、史悠さんからみて子供っぽいですか?」
あるわけない。魅力的すぎて、こっちは迂闊に手も握れないぐらいだ。
「そんな事ない。ことちゃんは女の子として可愛いだけじゃなくて、女性としても魅力的だよ」
そう伝えても彼女は僕を見つめる目を緩めようとはしない。その視線に僕は弱い。彼女の視線は僕の理性を剥がそうとしてくる。
「じゃあ、なんで」
ことちゃんは少しだけ言い淀んだ。
「じゃあ、なんで、触ってくれないんですか?………もっと、触って欲しい」
その言葉で理性が打ち砕かれる。彼女の視線から目を逸らす。これ以上彼女を見ているとここで彼女をめちゃくちゃにしてしまいそうだった。
「はぁぁぁぁ」
缶コーヒーを横に置いて、頭を抱える。
「あの、さ」
横目で彼女を見る。少し赤く染まった頬。可愛い小さな口。艶のある髪。全てを食べてやりたい。
「それ、分かって言ってる?」
「分かってます」
彼女は真剣に僕を見てくる。
「いや、分かってない」
「分かってますっ!」
「全然、分かってないよ」
彼女は分かっていない。僕が彼女に持っている激しい感情を。
 彼女の腕を握って、体を抱き寄せる。小さな細い体が僕に収まる。彼女の香りがする。いい香り。僕を誘う香りだ。彼女は顔を胸に埋めた。こんな動作一つで僕を虜にしている。その事に彼女は気づいてはいない。
 体を離して、彼女の目を見る。誘ったのは彼女だ。大切にしたいと言う僕の気持ちも伝えたい。でも、もう、彼女の言葉で我慢の限界だった。
「ずっと僕、我慢してた。もう何度も夢で抱いてるし、閉じ込めてる」
何度も、僕の腕で抱いている。亜沙妃と思い込んで抱いた夕立の日から、僕の欲望の先はことちゃんに向かい始めた。押し込めて押し込んで来たのに、彼女はいつもまっすぐに向かってくるから逃げられない。綺麗なことちゃんにふさわしい自分でいたいのに。
「そんな事、現実のことちゃんに出来るわけない。若いのに君の世界も大事にしたい」
「わ、わたしは」
「わたしは史悠さんに大事にされてます、分かってます。でも、子供じゃないです。女の人として大事にされたい。わがままですか?」
また必死に僕を見つめる。思わず声が出た。彼女を再び抱きしめる。可愛すぎる。そんなわがまま言われて困る男なんていないだろ。
「僕も本当なら今すぐ抱きたい。何度も愛を囁いて、溶かして、僕の事しか考えられなくなるようにしたい」
独占したい。でも。
「でも、ことちゃんが大事なんだよ」
「あなたの腕の中で大事に溶かして下さい」
溶かしてって。
 僕は抱きしめていた彼女の体を一旦離した。彼女の顔が見たい。頬を染めて僕を見上げている。もう、我慢できないな。彼女の唇に口を何回か、角度を変えて落とす。触れるだけのものでは足りない。舌を口の中にゆっくりと入れて、強く吸う。彼女が僕の腕にしがみつき、欲望が溢れる。ああ、舌だけじゃ足りないな。もっと深い所で繋がりたい。ゆっくりと舌を口から引き抜いて、彼女を見た。少しぼんやりとした目で僕を見ている。もっと、その表情が見たい。
「家、行く?」
僕の問いに彼女は頷いた。傘を持って、立ち上がる。彼女にも渡す。彼女の右手を握る。少し気持ちが焦る。僕の欲望と彼女への愛を天秤に掛けながら、ゆらゆら揺れて、不安定。でも、今のこの気持ちが彼女も一緒なのであれば、雪と雨のように共に溶けてしまおう、と思った。
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