第3話 夕立 ―麻琴side―

文字数 19,666文字

 ハンカチとタオルをいつ返せばいいか。
それを考えているとあっという間に一ヶ月が過ぎてしまった。
「このタオルとハンカチ、いい加減に返さないと、持ち主も貸した事忘れちゃうわよ」
母はリビングの端に陣取った小さな紙袋を見るたびに私にそう言った。右膝を怪我して帰宅した日に一連の話を母にはしたのだが、山瀬さんにはクセがあるよ、と言われ、話を終わらされてしまった。
「お母さん、何かお礼の品物を持参して返した方がいい?」
紙袋を見て母に言うと、彼女は大きなため息をついた。
「あんた、それ聞くの何回目? もういいから、茶菓子でもなんでも買って、さっさと返して来なよ。あっちはなんとも思ってないよ」
 善は急げと、怪我した足で走って帰った気持ちとは裏腹に日数が経つにつれて、このタオルを返してしまったら、次に話すキッカケが掴めない気がして、なんとか次に繋がるように策を練っていたけれど、特に名案は浮かばなかった。
「あ〜じゃあ、来週の夜勤前に持っていく事にする」
私は項垂れながら、自分に言い聞かせるようにそう言った。


 前は雨が降っていたけれど、梅雨が明けて、初夏の風が吹いていた。太陽の日差しが眩しい。目を細めて太陽を見る。日焼け止めは塗って来たけれど、太陽の光が肌に刺さってジリジリとする。今でも十分暑いのに、八月になればさらに気温が上がるなんて、暑さに耐えられるかどうか不安になる。
 ジジジジ、ジジ、と街路樹の蝉の鳴き声でさらに体感温度が上がった。背中にジワジワと汗が吹き出ている。それは初夏の暑さだけではなく緊張も混ざっていることはわかっているが、額の汗も止まらなかった。右腕で額の汗を拭って、買って来た和菓子の箱を見て覚悟を決める。
どうしよう、なんて話しかけようかと思って、紙袋と和菓子の袋を持って山瀬生花店に向かった。
  緑の屋根にベージュの文字で生花店の店構えが見えた。シャッターは両方開いており、店の前の商店路には小さな鉢植えが並べられていた。
 観葉植物の鉢を移動させている、陽に焼けた腕の持ち主を見つけた。擦り切れたジーンズに黒いシューズ、髪の毛は以前より短くなっており、横は剃り込みが入っていた。違う髪型もかっこいい。髪型のせいか二十代にも見える。そういえば、山瀬さんは何歳なんだろう。
「こ、こんにちは」
声をかけるのに勇気が要った。
「はーい」
彼は笑顔で振り返った。
やっぱりかっこいい。緊張する。
「あの、遅くなったんですけど…」
私は握りしめていた紙袋と和菓子の袋を差し出した。
「先月、雨の日に傷の手当てをして頂き、ありがとうございました」
頭を下げ、すぐに勢いよく上げた。
山瀬さんは、あ〜、と言って少し考えていた。
「あのすごい転け方した、……佐原さん?」
苦笑いを浮かべている。
私は恥ずかしくなった。
そういえば派手にこけて、仏壇の前でもこけちゃったな。パンツ見えたんだっけ。
忘れてた。
「その説はご迷惑をおかけしました。これつまらないものですが」
持っていた袋を差し出す。
「そんな、わざわざ良かったのに。タオルもハンカチも忘れてました」
山瀬さんはすまなさそうに袋を受け取ってくれた。
「おとぉぉぉぉさん! ちょっと、それ……、あ!」
奥から大きな声がし、郁人くんが顔を出した。
「まこっちゃん、だー。おれのことっ、おぼえてる?」
郁人くんが笑顔で駆け寄ってきた。彼も髪の毛を切っている。山瀬さんと同じ髪型で、郁人くんの髪質は柔らかいためか頭頂部の短い毛がふわふわと浮いている。
「なにもってきたの? あ、ここのおまんじゅうおいしいんだ〜、ね、こしあん? こしあん? いっしょにたべようよ〜」
郁人くんは山瀬さんが持った和菓子の袋を覗き込んで飛び跳ね、次に私の腕をもった。
人懐っこくて可愛い。笑顔で私を見上げた。
「こらっ、郁人。佐原さんを引っ張らない」
お父さんの顔になっている。思わず見惚れてしまう。やっぱり顔を見ると嬉しい。どうして私、一ヶ月もここに来るのをためらっていたんだろう。時間がもったいなかったな。通勤の行き帰りには覗いてたけれど、それでは距離が遠すぎた。やっぱり、近くで顔を見て話せる方がいい。
「大丈夫です。あの、こしあんあるんで、二人で食べてください」
山瀬さんは、ありがとう、と言って袋の中を見た。
「あ、こんなに和菓子あるんだ。男二人じゃ食べられないから、佐原さんも一緒に食べましょう? 時間ありますか?」
時計を見ると、出勤するにはまだ一時間以上余裕があった。お礼に伺ったのに、家に上がりこむなんて図々しいかな。でも、せっかく話せるチャンスを無駄にしたくない。
「あの、お礼に伺ってなんですけど、郁人くんともお話したいし、構いませんか?」
郁人くん、ダシに使ってごめんね。
「どうぞ、どうぞ。僕も一緒に頂こうかな」
「やったー。まこっちゃん、こっちでいっしょにたべよっ!」
郁人くんは私の腕を持って、店の奥の小上がりの畳の部屋へと案内した。小さな食卓が置いてあり、奥には仏壇が見えた。
「ちょっと待ってね。ママにもお邪魔します、するね」
私は郁人くんに声をかけて、仏壇に向かった、前に座って、手を合わせる。
前にも来ました、佐原麻琴です。お邪魔します。お礼に伺ったのに図々しく上がりこんでしまいました。ご主人さんに下心があります、すみません。
「ママ、どうぞ、だってー」
郁人くんが笑って私を見た。
え? どうぞ? って何?
「おまんじゅう、ママにもあげる〜」
郁人くんは包装紙を外している山瀬さんにそう言って手を出した。あ、どうぞって言ったのは、お饅頭を仏壇に供えるって事か。
小さい子供が親戚にいないからニュアンスが分からなかった。
「ほら、郁人、ちゃんとママにどうぞ、ってするんだぞ」
「はぁあい」
郁人くんは仏壇の前に正座で座り手を合わせ、饅頭を供えた。
 山瀬さんは立ち上がり、キッチンに向かった。
「もう毎日暑くって。冷たい麦茶ぐらいしかないけど、佐原さんはお茶でいいですか?」
「あ、お茶で十分です。ありがとうございます」
山瀬さんは額の汗を腕のシャツで拭った。その男らしい仕草にドキッとした。陽に焼けた腕は益々、黒くなっている。
「暑いですよね。クーラーもっと下げますね」
リモコンが食卓の下に落ちているのを見つけて、足で取ろうとした姿に笑ってしまった。
「え、なんか可笑しい?」
山瀬さんは不思議そうな表情を浮かべた。
「だって、山瀬さん、意外と雑って言うか、前も足でお花の器を寄せてたし、その包装紙も」
私はビリビリに破かれた包装紙を見た。無残なチリになっている。丁寧に仏花を扱っていたから、勝手に几帳面だと思っていたが、意外と大雑把なところもあるみたいだ。
「ああ、僕、結構、大雑把だからなぁ、そんなに笑う?」
彼の知らない面が知れて嬉しく、思わず笑顔になってしまった。
「おとぉぉさん、このまえもプリントくしゃくしゃだったしね〜。こんだてひょうだったけ?」
「いや、あれは図書室便りだった」
「あ、そーかぁ、でもどっちでもいいね。おまんじゅうたべようよ〜」
「はいはい」
山瀬さんは麦茶を運んできてくれた。3人で手を合わせる。その時に店先から、すみませーん、と声がした。
「おきゃくさんだ。おとーさん、ざんねん」
「郁人、佐原さん、食べといてね」
山瀬さんはそう言って素早く店先に向かった。
食べといてね、だって。いつの間にか敬語がなくなってる。嬉しいな。
「おれもおとーさんも、あまいの好きなんだ。だからうれしい」
郁人くんはそう言って饅頭を口に入れた。私も麦茶を一口含み、饅頭を口に運んだ。食べている途中で山瀬さんは帰ってきた。
「僕も貰おうかな。頂きます」
陽に焼けた腕で饅頭が運ばれていく。その腕を無意識に視線で追ってしまう。
「あ、美味しい。佐原さん、これ美味しいね」
美味しいね、だって。タレ目の目尻がくしゃぁってなった。かっこいいのになんか可愛い。私の心拍数が上がっていくのを感じる。やっぱり、私この人の事好きだなぁ。もっと知りたいなと思ってしまう。どうにかして彼の視界に入りたいな。これっきりでまた他人に戻ってしまうのは嫌だ。
「あ、あの。私、花が好きなので、これからも時間があれば寄ってもいいですか?」
「やったぁぁぁぁぁあ!まこっちゃん、おれ二十日からなつやすみなんだ。いっしょにあそぼう」
郁人くんが素早く反応してくれた。
そっか、七月だから、もう夏休みなんだ。入院していた時は夏休みなんて、何が楽しいのか理解ができなかったが、働くようになって纏まった休みの貴重さを知った。いや、元気に働けることも嬉しいけど、みんなに認められた公の夏休みは羨ましい。
私も小学生に戻って、健康な夏休みの時間を過ごしてみたかった。山瀬さんは饅頭を口に入れたまま笑顔で言った。
「もちろん、いつでも来て下さい。郁人も喜ぶし。遊んでくれたら僕も助かるしね」
やったぁぁ。私も郁人くんみたいに心の中で喜んだ。これで接点が持てると思うと嬉しくてたまらない。
「あと、気になってたんです。山瀬さんはおいくつなんですか?」
「僕? 三十八だよ。今年で三十九になるな〜。佐原さんは?」
「私は二十二歳です」
「若いね〜十六歳違うね。娘まではいかないけど、郁人のお姉さんとして遊んでやって」
お姉さん、だって。全然、相手にされてない。意識すらされていない対象外の発言。ちくん、と胸が傷んだ。でも、今は接点が持てた喜びの方が大きい。また、来てもいい理由が出来た。
「まこっちゃん、あそぼーねー、おれ、バルーンジャーがすきなんだ!」
バルーンジャー? 聴いたことない。
「分かった! 調べとくね!」
私は、返事をして時計を見た。
あ、もう出ないと間に合わない。楽しい時間はあっという間だ。
「山瀬さん、お茶ありがとうございました」
「いや、こちらこそお饅頭ありがとう、佐原さん」
「麻琴でいいですよ。私も史悠さんって呼んでいいですか? 山瀬さんは郁人くんも一緒だし」
ちょっと強引だったかな。山瀬さんは少し恥ずかしそうに笑った。ああ、ズルいなその笑顔。喜びと恥ずかしさが混じった笑顔。大人の男の人の不意な笑顔って心臓に悪い。
「じゃあ、ことちゃんだね。なんか小鳥みたい」
小鳥って。可愛すぎる。また、心を全部持っていくような言い方をする。体全体の温度が上がって、急に汗が噴き出しそうになる。クーラーが効いていない気がしてリモコンを見たけれど、室内の設定は二十四度で寒いぐらいの設定だった。
 私は額の汗を拭いた。立ち上がって、小上がりの畳を降りて店先に出た。外の通路に近づくにつれ、体を取り巻く空気が冷気から暖気に交換され、意外と部屋の中は涼しかった事に気づく。
「じゃあ、失礼します」
「まこっちゃん、また来てね〜」
郁人くんと史悠さんは店先まで見送りに出てくれた。会釈をすると史悠さんは軽く手を振ってくれた。その動作を見て、また私は嬉しくなった。
 アーケードの中は直射日光が当たらず影ができているため、比較的涼しい。アーケードを抜けると少し傾いた陽射しが私の目をさした。眩しいな、と手を額に翳して見上げる。街路樹の葉が光を浴びてわずかな風に揺らめき、緑影を作る。陽射しがアスファルトに照り、反射して足の裏から熱が伝わる。うだるような暑さだ。
 携帯電話で時間を確認する。太陽の光が反射して携帯の画面が見にくい。ロックを解除する。夕方の四時前だ。
 あ、連絡先聞けばよかったかな。それはいきなりで距離を詰め過ぎかな。
今までこんな始まり方の恋なんてしたことなかったから距離感がつかめない。自分からもっと色んな事を史悠さんに聞きに言っていいものかな。まさか、シングルファーザーで、自分より一回り上の人に想いを寄せるなんて考えもしなかった。けど、ワクワクして、どうしても考えてしまう自分を止められない。
 太陽は夕陽に変わる気配はまだない。ジリジリと陽射しの威力だけ増して、西の方に引き寄せられている。木の片影が伸びている。
 額から流れる汗を手の甲で拭って、病院を目指した。来月の勤務表が出たら、それを持って、山瀬生花店に行こう。そして、郁人くんと一緒に遊ぶ日を決めよう。そして、史悠さんに恋人がいないか聞こう。少しでもいいから、彼の心に近づきたい。


「なんで、手土産に饅頭? 暑いのに。ゼリーとかアイスとか他になかったの?」
山田春香は更衣室で白衣に着替えながらそういった。眉を寄せて、怪訝そうに私を見ている。
「私も考えたんだよ。だけど、やっぱり日持ちするものがいいかなって、同じ商店街のお饅頭にしたの。煎餅も考えたんだけど……」
春香はさらに眉を寄せる。茶色のボブが少し揺れて、まつ毛がしっかりと上に向いている。耳のピアスを外しながら、続けた。
「え? 煎餅? この暑いのに? いらないって。そんなにお爺さんなの、その山瀬さんって」
お爺さんって。確かに年上だけど。
「年は十六歳上だけど、お爺さんではないよ」
「え〜、十六歳も年上か〜。私はないな。ない。話、合わないでしょ、四十前でしょ? おっさんじゃん」
「おっさんじゃないよ!」
史悠さんはおじさんではない。世間から見たら、年が離れているかもしれないけど、最近は自分の父親と変わらない年齢の人と結婚している人も居るし、そんなに非常識じゃないと思うけど。
「麻琴は変に純粋だからなぁ、なんか思い込んだら一直線って感じがするんだよね」
「変に純粋って、変は余計だよ」
私達は白衣に着替えて病棟に向かった。病棟に入って、お疲れ様です、と挨拶をして電子カルテの前に座る。
日勤の看護師はナースステーションに一人しか見当たらない。
「今日も忙しそうだね。みんなどこに行ったんだろう」
「家に帰ってない事だけは確かだね」
私たちはため息をついて、業務分担に取り掛かった。忙しい夜勤の開始だ。
三交替で一番忙しいのは準夜帯、夕方から夜中にかけての勤務の時間だと思う。患者さんが夜寝るまでに必要なケアを行ってしまわなければならない。もちろん、手術後の患者さんの観察も頻回に行わなければならない。
今日の勤務は定時より三十分残業し、休憩は十分しか取れずに仕事は終わった。
「お疲れさま〜」
「今日も疲れたね。麻琴、泊まっていくの?」
私は電車通勤であるため夜勤の後は、病院の仮眠室で始発までの時間を寝て過ごす事が多い。
今日は忙しすぎて、寝付けない気分だった。
「泊まっていくけど、一旦、コンビニ行く」
「そっか、了解。私は記録がまだ残ってるから、先に着替えてて〜お疲れ〜」
「お疲れさま」
私は声をかけて、更衣室へ向かった。
着替えを済ませ、廊下に出る。
 時間はもう夜中の二時前だ。病院は夜でもスタッフ通路は明るい。救急受付の人は掛かってきた電話に対応していた。軽く会釈をして前を通る。
 病院から出ると一気に視界は暗くなる。夕方来た景色とは色を変え、夏の夜の匂いがむわんっと鼻から肺に伝わる。夏の夜のベタつくような空気。湿度が高く、アスファルトが昼間握った熱気を少しずつ放っているような夜だ。
 空を見上げると月が輪郭を曖昧にしてぽっかりと浮いていた。このむわっとした空気は月さえもだらけさせているように見えた。
 入院していた時、私は夜の闇が少し怖かった。個室で寝ている時は特に不安だった。人の寝息も聞こえず、ベッドの上に自分一人が乗って、夜の闇に浮かんでいるようだった。今日の月と一緒で曖昧ではっきりとしない感覚。暗く、不安定な闇の海でベッド柵にしっかりつかまっていないと振り落とされるのではないかと思っていた。このまま寝てしまったら、もう二度と目が覚めないのではないかという恐怖。それは漠然とした死への恐怖に近かったかもしれない。物心着いた頃には死と向き会わざるを得なかった。その環境が私を不安にさせていた。
 病院から少し離れたコンビニに向かう。人工的な明かりが目に入る。コンビニの光が近づいたところで私は反対方向から見た事がある人影が近づいている事に気がついた。心臓がどくん、と跳ねた。陽に焼けた腕を持った人物がタバコを吸いながらこちらに歩いてきている。
「…史悠さん」
思わず名前を呼んだ。
タバコ吸うんだ。
「ん?」
彼はこちらに気づいた。視線が合う。
「あ、ことちゃん、こんな時間にどうしたの?」
名前を呼ばれた事に嬉しくなる。途端に夜の闇への不安な気持ちが和らぐ。
「私、今まで仕事だったんです。さっき終わって、ちょっと夜食でも買おうかなと思って、コンビニに」
史悠さんはタバコをコンビニの前の灰皿に押し付けた。
「こんな時間まで仕事なんだ。看護師さんは大変だね。お疲れさまです」
頭を下げられた。私もなんだか合わせて頭を下げてしまう。
「いやいや、そんな。史悠さんこそ、こんな時間にどうしたんですか?」
「いや、僕は郁人が明日の朝にヨーグルトが食べたいって言うのを寝る前に思い出して。寝てる間に買い出し」
少し恥ずかしそうに笑う。目尻のシワが寄った。私は思わず会えた事に嬉しくなった。
 コンビニに入って私は野菜サラダを、史悠さんはヨーグルトを買って出た。店から出た時に史悠さんはポケットに手を伸ばしてタバコを持った。私はその動作にとっさに手を出した。
「タバコは体に良くないですよ。百害あって一利なしです」
史悠さんは心底驚いた表情を浮かべて、タバコを落とした。私を凝視している。
 つい、病院でいる感じで言っちゃった。余計なお世話だったかな。その表情は驚きの中にも戸惑いも混じっていた。
「すみません、生意気でしたね。でも、つい言ってしまいました」
史悠さんは、いや、えっと、と言葉を探しているようだったが落ちたタバコを拾ってポケットにしまった。
「ごめん、一時はやめてたけど、久しぶりにそのセリフを聞いたから動揺して。郁人の前では吸わないんだ。だから、1人の時はつい手が出ちゃって」
頭をかきながらすまなさそうに言う。
「私こそ出しゃばってすみません」
「いや、こちらこそすみません」
深夜二時過ぎ、コンビニの前で謝り合うのはなんだか滑稽だった。
「また、笑ってる。ことちゃんすぐ笑うね」
史悠さんも目尻が下がっている。
「私、病院に戻りますね」
私はもと来た道を見た。
「あ、僕も行くよ。夜道危ないでしょ。送るよ」
史悠さんは持っていたビニール袋を握りしめた。その動作に違和感を覚えたが、単純にもう少し一緒に居られる事が嬉しかった。
「ありがとうございます。じゃあ、お言葉に甘えます」
史悠さんは穏やかに笑った。夜道を2人並んで歩く。
「ことちゃんはさ、暗い道って怖くないの?」
私はさっきコンビニに行く前に考えていたことを思い出した。空を見上げると月の輪郭は相変わらず曖昧だった。
「ちょっと怖いです。私、小さい頃、暗い所と言うか、夜が苦手で。一度眠りについてしまったら、起きられないような気がしていて」
二十歳まで生きられないと言われた私はいつ死が迎えに来るのか、ぼんやりと考えていた。もしかしたら、もう目が覚めないかもしれない、そう思って眠りについていた。
「あ〜、なんか分かる気がする」
低い声が静かに響いた。頭二つ分上の顔が私を見ている。暗闇でも視線を送られていると思うと緊張する。彼は続けた。
「暗い所ばかりに居たら、なんか不安になるな。最初は怖いけど、でもちょっと経ったら目が慣れない?」
「慣れますね。暗闇でも少し見えるようになってきます。あれ不思議ですよね」
「不思議だよね。次、明かりを見た時に前より明るく感じちゃったりして。違うものに感じるんだよね。闇ばかり見てたら、目が慣れて、次に光を見た時に人とは違ったものが見えるのかな」
そう言って彼は自分の左の薬指の指輪に視線を移した。
「見えるんですかね」
私は心臓の移植手術が成功したと聞いた時、急に自分の人生が別の物のように感じられた。まず、自分の周りの人の反応が変わった。両親は笑う回数が増えて、将来の話をするようになった。百八十度どころか、三百九十度ぐらい変わった。
 ゆっくりともう一度、史悠さんの顔を見上げた。彼にはどう見えているのだろうか。
「史悠さんはどうなんですか? 暗闇から出た時に光が別物に見えた事がありますか?」
史悠さんは、さぁ? と小さく呟いた。
「僕には暗闇どころか、何も見えてない気がするけどね」
投げ捨てるようにそう言って、自嘲した。
その表情に目が離せなくなる。
 史悠さん、今、何を考えていますか。亡くなった奥さんのことを考えているんですか。あなたから見える世界は美しいですか、それとも残酷ですか。
 聞きたくても聞けないその言葉を、私は呑み込んだ。


 あ、逃げ水。
アスファルトから登る揺らぐ蜃気楼。光の悪戯で道路に水溜りが見える。視界に捉え、歩いて近づき正体を見定めようとするけれど、背中の汗の量が増えるばっかりで距離は近く事はない。
 八月の頭に勤務表を持って山瀬生花店に行った。郁人くんは満面の笑顔で、史悠さんも快く迎えてくれた。
「まこっちゃん〜、やったぁ、来てくれたっ!」
私はコンビニで買ったアイスを店の奥で居た郁人くんに差し出した。
「わぁ〜! アイスだ。アイス! やった、やった」
郁人くんはガリガリ君を持ち上げて踊っている。
「別に手ぶらでいいのに」
史悠さんはそう言って笑った。
 むわっとした夜のコンビニ以来だ。二重のタレ目が私を見ている。あの日は病院の手前で別れた。呑み込んだ言葉は私の中で燻っている。
「いえ、私がアイス食べたかったんです」
「それいいねぇ! たべよっ!」
郁人くんは袋を開けた。私も袋からガリガリ君を取り出す。水滴が手に付いた。
「じゃあ、中で涼んでて」
史悠さんはそう言って、畳の上に落ちていたリモコンを拾って机の上に置いた。
 リーン、リンと風鈴の音が耳に入った。キッチンと畳の部屋の間に小さな風鈴がぶら下げられていた。金魚が透明のガラスの中を泳いでいる。
「はい、じゃあ、お邪魔します」
私は返事をして、仏壇に手を合わせに向かった。心の中で挨拶をする。
「え、つめたいよぉ、うん、分かった、いうって」
後ろで郁人くんの話し声がした。
史悠さんと話しているのだろうか。
 私は振り返って、郁人くんを見た。郁人くんはアイスを食べながらキッチンの方を向いている。
「あれ? 郁人くん、史悠さんと話してたの?」
郁人くんはアイスを食べながら、びっくりした表情で私を見た。赤と黄色のタンクトップがよく似合っている。短パンから覗いた膝が小さくて可愛かった。
「ううん、違うよ。まこちちゃんにちゃんとアイスのお礼いってなかったなぁとおもって。ありがとう!」
「いえいえ」
思わず笑みがこぼれる。郁人くんは本当に人懐っこい。しかも礼儀正しい。なんだか、アイスを持ってきたこっちが嬉しくなってしまう。
「おとぉぉぉさーん! おとぉぉさんは食べないのぉぉ!」
郁人くんは大声を店先に向けた。
「食べる! 行くからなー」
史悠さんの大きな声が返ってきた。
「分かったぁ〜」
郁人くんは返事をし、ビニール袋ごとキッチンの冷蔵庫に入れた。
「ママもアイスをたべれたら、もっとたのしいのになぁ」
ボソッと呟いた声が響いた。私は郁人くんを見た。彼は仏壇の写真を見ていた。微かに臭う線香の匂い。
「そう、だね」
なんて言えばいいのか分からなかった。
 ひいおばあちゃんを二年前に亡くしたが、それは老衰で、だ。私の両親は健康で、一緒に暮らしている。
 郁人くんはまだ小学生。幼い頃に母親が早く亡くなって、彼女と過ごすはずだった時間を一緒に過ごせない気持ちは私には推し量れない。
「私もね、実は病気だったの。二十歳まで生きられないって言われてて、病気が治って今ここにいるんだ」
えっと、何が言いたいかと言うと。
「ボーナストラックって知ってる? おまけみたいな感じ。人生のおまけ。思わずいい事が起きて私は今、ここにいて、郁人くんと顔を合わせてるんだ」
「きっと、今から思いがけないような、いい事があるから」
どこかで聞いた事のあるセリフしか出てこない。
郁人くんはキョトンとした表情を浮かべている。えーっと、他に何かないかな。もっと前向きなって、元気づけられるような言葉。
「えっと、あ、郁人くん、ママは「お母さん」って呼ばないんだね」
何を言ったらいいか分からず、つい気になっていた事を聞いてしまった。
「史悠さんの呼び方は「お父さん」だから、やっぱり小学生になったらみんなパパって呼ばなくなるの?」
郁人くんはその質問に目を見開いた。そして、視線をさまよわせた。困っているというか、動揺した表情。その後に、少し考え郁人くんは笑った。
「え、しりたい?」
白い歯が覗く。
なんだか、いたずらを企んでいるような表情だ。
そんな面白い理由なのかな?
「うん、知りたい」
私も思わず同じ表情を浮かべてしまう。郁人くんは、いひひ、と言って「ひみつ」と笑った。
「ちょっと〜、いじわるだねぇ、今のは教えてくれると思ったよぉ〜」
郁人くんの服の裾を掴んだ。郁人くんの笑顔は仏壇の母親とそっくりだった。大きな一重の目が優しく揺れる。
「なんだか、楽しそう」
史悠さんはタオルを首にかけて、汗を拭いながら畳の部屋に顔を覗かせた。
「僕もアイス食べようかな。でも、ここでいいや。郁人、アイス持ってきて」
「おっけーい」
陽に焼けた両腕がタオルを持って、短い髪の汗をガシガシと拭った。私は思わず食い入るように見てしまった。こんな動作一つ取ってもかっこいい。彼は小上がりの畳の入り口に座った。
「ん? どした? なんか付いてる?」
私の視線に気づいた史悠さんは、タオルの間から目を覗かせた。いやいや、その状態でこっち見ないでください。心臓が鳴り止みません。
「いや、あの、外、暑いんだなぁと思って。お花のために冷房は利かさないんですか?」
「そうだね、一応二十八度で空調管理してるけど、暑いよね」
Tシャツが汗で背中に張り付いている。ベージュのエプロンが暑そうだった。
「おとーさん、はい、アイス」
郁人くんがアイスを手渡した。史悠さんは袋を適当に破ってアイスを出した。
「……また、笑ってる」
私の顔を見ながら、史悠さんがアイスを口に運んだ。また袋そんなにグシャグシャにして。なんだか、大きい子供みたい。
「あ、なんか若い子がいるね? みた事ないサンダルがある」
店先から女性の声がした。五十代ぐらいの女性が覗き込んでいる。手には買い物袋下げていた。
「あ、多々羅さん、こんにちは」
史悠さんは立ち上がって、挨拶をした。
「あ、休憩中? 座ってて。勝手に切り花、選んでるから」
彼女はそう言って、ショーケースと店先の花を見始めた。
「おばちゃん〜、ヒマワリかわいいよぉ〜」
アイスを食べ終わった郁人くんは棒を口に入れたまま、店先に出ようとした。
「こら、郁人、棒は捨ててからにしろよ」
郁人くんはパッと棒を取った。
「郁人くん、こんにちは」
女性は挨拶をして笑った。常連客なのかな。
「多々羅さん、ストレチアが入ってますよ。夏休みでお孫さんが来るなら、華やかな方がいいんじゃないですか。持ちもいいし」
アイスを食べながら、史悠さんは一際カラフルな花を指差した。
「あ、ほんと。これ華やかでいいわね。なんか、トロピカルな感じ?」
トロピカル。
その言葉を聞いて、よく見ようと覗き込む。多々羅さんと呼ばれた女性と目が合った。軽くお辞儀をする。
「あ、本当に若い娘じゃない。こんな娘、連れ込んで、史悠くんもまだまだ若いね」
「おとーさん、三十八さいだからね。おれは七さい。おれのほうが、わかい?」
郁人くんは私を振り返ってみた。
「うん、そうだね」
史悠さんはアイスを全部食べきって、あはは、と軽く笑った。
「多々羅さん、何言ってるんですか。僕、もういい歳してんですよ。郁人の友達です。僕となんて、犯罪じゃないですか。論外ですよ」
 論外。
 その言葉が深く私に刺さった。え、そんなに眼中にないの。太くて大きくて聞き返せないほどの釘を刺されてしまった。まさに、論ずるに値せず、だ。ショック。
「分かんないよ〜最近は、自分の父親より年上と結婚する事もあるじゃない?」
多々羅さんは、ねぇ?、と私に目配せをした。私は視線を宙に浮かした。はい、そうですね、と言いたいが、郁人くんがじーっとこっちをみている。
「ないない、ないですよ。僕はもう余生みたいなもんですから。郁人の成長を楽しみに生きてますから」
余生。その言葉が私の耳から入って、心臓がきゅうっと音を立てたような気がした。微かに漂う線香の匂いが私を包む。
「余生って。うちのじいちゃんに聞かせてやりたいわ。もう九十歳が来るのにハーレー乗って、この暑いのにツーリングに行ったのよ。信じられないわ」
それから後も多々羅さんと史悠さんは世間話をしていたが、私の耳に全く入っていなかった。
 ないない、と軽く笑った史悠さんの声が頭の中で響く。私はそのつもりで胸弾ませて来たのに、そんなに対象外だったとは。
 私のその表情を見て、多々羅さんは何かを思ったのか、帰り際に私を手招きして呼んだ。彼女に近寄ると声を潜めて告げられた。
「史悠くんは不幸慣れしてるからね。ちょっとやそっとじゃ、ダメだよ」
え、そんなに私、分かりやすい態度をとっていたかな。初対面で言葉もまともに交わしていないのに、見抜かれていた。
 私が驚いた顔で多々羅さんを見送っていると、史悠さんが私の顔を覗き込んだ。
「何か言われた? 多々羅さん、人をからかって遊ぶところあるから」
「いえ、あの、その」
私はちらっと後ろを振り返る。郁人くんは部屋の中でテレビをつけようとしていた。私は意を決して、史悠さんの目を見た。奥二重のタレ目が不思議そうに私を見つめている。
「あの」
言い淀んでいると、彼は、ゆっくりどうぞ、なんて大人の対応だ。悔しいな。本当に相手にされてない。彼に手招きをする。
「ん?」
史悠さんは私に耳を寄せた。
「私は、あり、ですから。それは覚えといてください」
まっすぐに顔を見る。汗が全身から吹き出すのを感じる。顔は赤いだろう。でも、ここで否定しておかないと、きっと私は後悔する。
史悠さんは私の顔を見つめた。一瞬、瞳がゆっくりと揺れた。私はそれに意味を探してしまう。彼は落ち着いた低い声で言った。
「えっと、うん、気持ちは嬉しいけど、僕にはことちゃんはもったいないよ」
苦笑いを浮かべ、頭をかく。困った顔になってしまった。ああ、こんな顔をさせたい訳じゃなかったのにな。
 私はここに来る前に見た逃げ水を思い出した。近づいても、距離は縮まらない。目を凝らしても姿は曖昧で、正しくは把握することなんてできない。
夏の蜃気楼みたいだ。


『まこっちゃん、こんどははなびしようね』
結局、あの後は郁人くんと一緒にテレビでバルーンジャーを見た。バルーンジャーがいかに素晴らしくカッコいいかを説明された。風船の膨らまし合いの戦隊モノだった。史悠さんとは気まずいまま、次は花火をしようと約束して山瀬生花店を後にした。
「それを世間では、眼中にない、って言う」
春香はそう言い、割り箸を勢いよく割った。パシッっと小気味良い音が響く。
「やっぱり? ないないって言われた〜。しかも、私はありですって伝えたら、僕にはもったいないよって! そんなの、お見合い断るテレビぐらいでしか聞いた事ないよ〜」
あーあ、何であんな余計なことを言ってしまったんだ。でも、あの時はそう言わないときっと後悔するって思った。
「告白する前にフラれて、次は一緒に花火の約束? なに、それ、何の試練?」
春香はサラダを口に運んだ。
南欧風のインテリアで統一された、おしゃれなカフェの中はランチ客で賑わっている。
「だよね〜。言わずにはいられなかったんだもん。意識されなきゃ始まらないかと思って。
気持ちは嬉しいって言ってくれたよ?」
春香は私をちらっと見てため息をついた。
「いや、それを世間では、脈なし、と言う」
「言い方変えておんなじ事言わないで〜」
私が机に頭を乗せると注文したオムドリアセットが来た。素早く頭をあげる。
「そんなに、男前なのその人。麻琴がそんなにいいって言うから興味湧いてきたわ」
え、どう言う興味?私は顔を上げて春香をじっと見た。今日もまつ毛はしっかりと上に向いている。私と違って華やかな顔。垢抜けた雰囲気。同性の目から見ても可愛い。
「なに? 別に好きになろうって訳じゃないんだから。それに言ったでしょ。私はおっさんは対象外って」
「だから、史悠さんはおっさんじゃないってば」
私は箸を割って、ご飯を口に運んだ。
 昼食を食べてカフェから出ると、春香はどうしても史悠さんを見たいと言い出し、しぶしぶ私たちは山瀬生花店に向かった。日差しが強くてアーケードまでの道のりが遠く感じる。
手前の果物屋では店員が天路に出て打ち水をしていた。水蒸気がむわっと空気となって空中に広がる。
かき氷の張り紙が見えて、つい引き寄せられそうになる。
「後で、食べよう、後で。まずは、山瀬さん、ね」
春香はグイグイと山瀬生花店に向かう。
私はその後に続く。少し気まづかったけれど、会話できるかな。
「こんにちは〜」
春香は物怖じせず、店に声をかけた。カウンターに座っていた史悠さんが顔を上げた。
「いらっしゃーーって、ことちゃん。おーい、郁人!」
史悠さんは私を見て笑顔を浮かべた。そこにホッとしたような、この前のことは史悠さんにとっては些細で取るに足らない事で処理されてしまったような、複雑な気持ちになる。
「あれ、まこっちゃん! もうはなびしにきたの?もう、かってるよ!」
ドタタタと音を立てて、郁人くんは家の奥に行ってしまった。
春香はまじまじと史悠さんを見つめている。史悠さんは穏やかに笑って、
「ん?」
と首を傾げた。
「お友達?」
春香は史悠さんからパッと視線を逸らした。
「はい、同じ病院の同僚です。ちょっと近くでお昼食べてきたので……」
私が言いかけていると、郁人くんは店に出てきた。
「これっ! これっ! このはなび! なんと、バルーンジャーのはなびなんですっ!」
郁人くんは自信満々で私の目の前に出した。
「あ、ほんとだ〜、風船もおまけで入ってるんだね」
郁人くんは少し声を潜めて言った。
「そうそう、ボーナストラックっていうんだよね、はなびにふうせんがはいってるのはラッキー?」
「ラッキー、ラッキー」
私が相槌を打っていると、春香に引っ張られて店先に出た。え、なに、なに?何で引っ張るの?
「ちょっと、麻琴。ラッキーラッキーじゃないわよ。あんなにかっこいいって聞いてないんだけど。全然、おじさんに見えない」
だから、イケメンって何回も言ったのに。
「まこっちゃーん??」
店の中から郁人くんが私を呼ぶ声が聞こえる。
「ちょっと、春香、郁人くんが呼んでるから」
私は店に向かって、ちょっと待ってー、と声を出す。
「でも、あの人、私どっかで見たことあるんだけどな。あんなイケメン一度見たら忘れないけど、でも思い出せないんだよね。男前すぎて凝視できなかったわ」
春香はため息をついて私を見た。
「まぁ、でも、子供もいるし、一筋縄じゃいかないんじゃない? 麻琴と気まずくなっても仕方がない状況なのに、お友達? って…レベルが違いすぎるわ」
私もそれには同意する。
なんでもなかった様子で笑顔を浮かべていた。
「それを世間では、望みがない、と言う」
私は自分で言って、へこんだ。


 その日はそのまま春香と別れて、郁人くんの強い希望で急遽、花火を前倒しでする事になった。
「ごめんね、お友達と一緒に来てくれたのに、郁人がわがまま言って」
史悠さんは店先の花を店内に入れながらベンチに座った私を見て言った。額から汗がおちる。左の瞼から頬にかけての傷に汗が伝う。私はとっさに立ち上がって、彼の肩にかかっているタオルで汗を拭った。
「あ、」
屈んだ姿勢だからすぐに手が届いた。史悠さんの固まった表情を見て、私は自分の距離が近すぎることに気づいた。
あ、どうしよう。拭った後のことをなにも考えてなかった。
「あ、っと、えー、っと、ありがとう」
流石の史悠さんでも距離の近さに戸惑ったのか言葉が見つからない様子だった。
「おとぉぉぉさぁん! きょうピザにしよぉ!」
郁人くんの声がして私は手をタオルから離した。
「郁人、ピザはこの前食べただろ」
史悠さんは顔を上げて郁人くんを見ていた。
「え〜、だって、せっかく、まこっちゃん、いるし、ピザおいしいし?」
私をチラチラ見ながら、郁人くんは手に持ったチラシをひらひらさせている。
「まぁ、そうだな。ピザ、みんなで食べられるし、な」
史悠さんはそう言って、ちょっと待って、と声をかけて店のシャッターを閉めた。
「えっと、ことちゃんは何のピザがいい?」
史悠さんは私を見て、靴を脱いで、小上がりの畳を上がった。私はその後に続く。大きな背中に汗でシャツが張り付いている。一日働いた男の人の背中。陽に焼けた腕も後ろからなら見放題だ。自分が史悠さんを好きすぎてちょっと怖いな。思わず見すぎてしまう。
私と郁人くんと史悠さんとピザを注文した。ピザをたくさん食べて、その後は水を入れたバケツを持って店の裏側に案内された。
「こんな風に店の裏はなっていたんですね」
店の裏は自宅になっており、玄関扉の横の駐車場には「山瀬生花店」と書かれた白の軽ワゴン車が止まっていた。玄関から出ると道の前に小さな川が流れていた。
「まこっちゃぁぁぁん! こっち、こっち、きて!」
郁人くんがぴょんぴょん飛び跳ねている。
「行く、行く〜」
私は郁人くんに向かって走った。
「ちょっと、ことちゃん、夜道を走ると危ないよ」
背中から史悠さんの声が追いかけてくる。私は振り返って、大丈夫でーす、と言い、郁人くんに近づいた。
 三人でしゃがんでロウソクに火をつけて、順番に手持ち花火を持つ。
「わ〜綺麗だね。バルーンジャーがチカチカしてるね」
「まこちゃん、ながいのあったよ! これする?」
「する、する!」
「こら、郁人っ、人に向けて花火を持つな」
パチパチパチ、シューシュー、音を立てて色とりどりの火薬の火花が上がる。白い煙が上がって、周囲がモヤに包まれる。なん年ぶりに花火をしただろう。最後に花火をしたのはいつだったか思い出せない。
「あ〜、あしかゆい〜」
郁人くんは足でふくらはぎをかいている。
「あ、痕になるよ」
私は屈み、携帯の光で郁人くんの足を見た。蚊に噛まれている。
「虫除けスプレーしたのにな」
史悠さんはそう言って、自分の腕をパンっと叩いた。
「あ、見ろ、お父さんが仇うったぞ」
笑って、左の手のひらを見せる。私はその手のひらを見て、ドキッとした。左瞼から頬にかけての傷より、遥かに深く、生命線を押しつぶしたような傷があった。これは何の傷?
史悠さんは私の様子に気づく事なく残りの線香花火に手を出していた。
「おとーさん、なんでさいごにせんこうはなびなの?」
郁人くんは史悠さんの横に座った。私も郁人くんの横に座る。
「さあ、どうして最後なんだろうな。お父さんも知らないな。何となく決まってるんじゃないのか」
一人一本づつ、線香花火を持って順番にロウソクの火をつける。火が着いて、火薬に辿りつくと、ジジジ、と音を立てて次にパチパチと小さな火薬の玉が登っていく。
「かわいいね」
郁人くんが呟く。線香花火が揺れる。私は小さく頷く。
「なんか、線香花火ってーーーー」
史悠さんはポソリと口から溢れた言葉を言いかけて、やめた。私はその続きが気になって、聞き返した。
「続きは、何ですか?」
郁人くんも史悠さんの顔を覗き込む。私も彼を見た。史悠さんは、しまった、と言う顔をして、少し考えているようだった。
「おとーさん、きになる〜。なになに?」
いや〜、と言いにくそうに口を開く。
「なんか、幸せの形に似てるなって思って」
私は言葉の意味を考える。線香花火が幸せの形に似ている。火が灯って、火薬が弾けて途中で風に揺られると落ちて消えてしまう。風がなくても静かにじゅうっと音を立てて消えていく。そんなに幸せが儚いものに彼には見えているんだ。
「おとーさん、それどーゆういみ? むずかぁしい〜」
郁人くんがそう言うと、線香花火が落ちた。
「あ、おい、郁人が動くから、お父さんのも落ちたぞ」
「あ、私のも」
「え〜、ごめん〜、もういっかいしよっ、まとめて五本ぐらい火つけたら、ずっとパチパチするんじゃない? そしたら、おとーさんのいう、しあわせがもっといっぱいになるんじゃない?」
さすが郁人くんだなと思った。幸せがいっぱいになる。私もできるなら、史悠さんとそんな感情を共有したい。


 お盆を過ぎると夕方が少しづつ涼しくなってきた。私は相変わらず、仕事の行き帰りに山瀬生花店を覗いたり、郁人くんと約束した日に家にお邪魔したり、郁人くんがいない日は店のベンチに座って花言葉を教わったり、ポップを少し書かせてもらったりした。史悠さんは私が店に顔を出すと目尻を下げて、喜んで出迎えてくれた。でもそれは、息子の遊び友達という感覚だからだろうか、中々距離は縮まらなかった。顔の傷口の汗を拭ったあの一瞬の間から彼は私をやんわりと拒否しているような気がした。直接、何かを言われた訳でもなく、冷たくされた訳でもない。ただ、何となく線を引かれている、そんな気がする。
 来週にはもう九月か。私は仕事終わりに、山瀬生花店に寄ろうと足を向かわせた。少し雨の匂いがしている。アスファルトから立ち昇る熱気が大気に上がり、雲が集まっていた。頭の上には積乱雲がもくもくと渦巻いている。東の空は灰色に染まり、雷が光っていた。早くしないと夕立に降られるーーーそう思った瞬間、大粒の雨が私の頭の上に落ちてきた。雫が天頂から耳の後ろを通って背中に入り込んだ。
「ぎゃっ」
雷が轟いて、一気に雨が降り出した。コップもバケツも鍋も、何ならドラム缶も何もかもひっくり返したような大粒の雨が無情に降り注ぎ始めた。
 うわ〜最悪だ。ショルダーカバンの中には折り畳み傘は持ち合わせていない。近くにコンビニを探したが見つからず、雨避けになる建物すらない。もう橋元商店街のアーケードに走って行った方が早い。私は勢いをつけて、緑のアーケードを目指した。もうびしょ濡れだ。「あ〜最悪。どうしよう」
雨でTシャツの下のブラが透けていた。こんな状態じゃ、どこへもいけない。体に張り付いたTシャツを体から剥がす。
生温い水滴がお腹と背中を流れていった。少し寒い。
 アーケードの中を胸が見えないように腕を組んで歩く。
山瀬生花店の前で見慣れた背中が扉を開けようとしてる姿が見えた。私はその背中を見つけて、駆けよろうとしてハッとした。
 史悠さんも私と同じくびしょ濡れだった。でも、ハッとしたのはその姿ではなく、彼の両腕が激しく震えており、鍵をまともに握れずに扉が開けられない状態で表情はパニックを起こしているようだった。
「史悠さん!」
私は大声で名前を呼んだ。
彼は鍵を握った手を震わせたまま、私を視界に入れた。しかし、全く焦点は合わず、目はおぼろげだ。唇が震えている。視線が宙をさまよい出した。
「あ、あ、あ、あさひ?」
彼は絞り出すように名前を呼んだ。あさひ?誰の名前だろうか。
「史悠さん、貸してください」
私は彼から家の鍵を奪って、鍵を開けた。
「これで、大丈――――」
店に入った瞬間、近づきたくて堪らなかった、陽に焼けた腕が私を強く抱きしめた。
 え、なにが起きたの?思考は停止した。
「あ、あの、史悠さん?」
私は彼の腕に抱き込められたまま、声を発したが彼は返事をせず、腕の力も緩めなかった。
「あ、逢いたかった」
聞いた事のない低い甘い声を出して、彼は涙を零し始めた。
ど、どうしようか。
そう思っていると、抱きしめられた腕は緩められた。そして、強く腕を掴まれ、引かれた。小上がりの畳の上を、靴を履いたままの状態で登って、部屋の奥へと連れて行かれた。
 畳に布団が並んでいた。彼はおぼろげな瞳で私を抱きしめて、大きな布団に私を押し倒した。
「あ、あの! 史悠さん! 雨でびしょびしょで! あの、私は麻琴です」
私は彼に組み敷かれた状態で声をあげた。彼は激しく震えた状態で私の上に覆いかぶさって泣いていた。
「あ、雨が、止まない。あ、亜沙妃、逢いたかった。愛してる」
私を見ていない。というか、見えていない?
 彼は優しく私を抱きしめた。耳元に口を寄せる。
「愛してるよ」
とんでもなく甘く優しく声が鼓膜を通して脳天に届いた。この状態はダメだ。抵抗できなくなる。私は彼の胸を両手で押した。全然ビクともしない。
「愛してる。逢いたかった」
彼はそう言って私の耳の裏に唇を寄せた。キスをして、だんだん唇は口に近付いてくる。左の手が顔の前に現れ、私の唇の輪郭をなぞった。宝物のように優しく、ゆっくりと触れる。視界に左手の傷が見えた。
 彼はゆっくりと私の唇に口を落とした。右手が私と頭の布団の間に入り込む。二人とも雨でびしょ濡れで、私は寒いはずの体温がどんどんと上がっていくのを感じていた。
「―――、ッン、史悠さん、ダメッ」
口が離れた瞬間になんとか声を出すが、彼は舌を私の口の中に入れて強く吸った。舌を引き抜かれるかと思うぐらいの強さで、舌がジーンとしている。左手で私の頬を撫でる。優しい指先。強引なのに、なされるがままになりそうになる。でも、この状況はダメだ。
「史悠さん!」
私はもう一度声をあげて、彼を見た。彼は奥二重の瞳の奥を激しく揺らして、涙を浮かべながら私を抱きしめた。
「っあ、逢いたかった、さ、寂しかった」
私まで涙が溢れそうになった。あさひ、って奥さんの名前なんだろうな。そんなに愛してたんだ。我を忘れるほどに。涙を流して、愛してるを繰り返しても足りないほど。
「大丈夫です、怖くないですよ」
私は彼を抱きしめた。この人はきっと私が想像できないくらいの寂しさを抱えている。そして、それを一人でずっと抱えてきたのだろうな。
「亜沙妃、愛してるよ」
彼は私にそう甘く囁いて、服を脱がせながら、全身に唇を落とされた。
心臓移植の手術の痕が気になったけれど、彼はそれを気にも留めていなかった。心臓の傷の上にも当たり前のようにキスをした。史悠さんに佐原麻琴として認識されていないとしても、このキスを受けた瞬間は飛び上がるぐらい嬉しかった。
彼も裸になって、体を重ねた。強引だったけれど、決して力任せではなくゆっくりと時間をかけて彼は私の体に触れた。彼の小さい吐息が口からこぼれて、汗と雨と涙の雫が私の体に落ちた。左の瞼から頬にかけての傷を間近で確認する。深い、ケロイドになっている。よくこの傷で左の目を失明しなかったものだと思った。
 彼はくしゃくしゃに号泣しながら果てるまで、私を抱き続けた。
「亜沙妃、体、大丈、夫か? 亜沙妃、愛してるよ」
彼には全く私の姿は見えていない。奥さんと思い込んでいる。重ねた体はひどく熱いのに、心は握りつぶされるように痛かった。でも、私はそれを受け入れた。
 吐き出して、激しく取りみだせばいい。全部、さらけだして。
 私を抱く史悠さんは、違う人かと思うくらい激しくて優しかった。あさひさんの名前を切なそうに何度も、何度も、何度も、呼んで、甘く優しく囁いて、存在を確認するかのように私に触れていた。私の名前じゃなく、彼の口からあさひさんの名前が出る度に、心臓を握りつぶされそうな激しい切なさが襲った。けれど、もしかしたら今が一番、出会ってから彼の本当の姿に近いのかもしれない。そう思うと、この切なささえ愛しく感じてしまう私は、救いようがないだろうか。

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