第9話 天泣 ―麻琴side―

文字数 10,368文字


 冬の雨は秋の雨より静かだと思っていた。
 それは、雨より雪が降る印象が強いからかもしれない。しんしんと降り積もる雪は、雨ほど騒がしくない。ふわふわっと風に舞い、華やかだけれど、温度の鋭さは一級品で、一瞬にして地上の気温を奪い、色を変えてしまう。空さえも白く染め上げる雪は地上にふわっと降り立って、積もるときもあればすぐに消えてしまうときもある。
 霙は全く別物だった。雪よりもっと湿気を孕んで、ぐじょぐじょになった状態。擬音語にすると全然可愛くないな。傘に当たる、霙はバツッ、バツッっていう音がしていた。音と存在感が大きい。たまにしか降らないんだから、覚えておけ、とでもいうような降り方だった。その音を聞きながら、指先が赤くなるのを見つめて、私は家に帰った。
「あんた、ポインセチアは?」
母は第一声にそう言い、私が何も持っていない事にため息をついた。
「忘れた」
「だろうと思った。何しに花屋に行ってるのかと思うわ」
その言葉に笑ってしまう。本当に。私は史悠さんに会いに花屋に行っている。
なんて不純な動機。
「男前の花屋、クセがある理由は分かった?」
私は目を見開いた。
「なんでそんなにびっくりするの? あの事件、全国紙レベルだから。地元で知らない人の方が少ないよ。時間がだいぶ経ったけど、初めて見たときから、そうだろうなって」
「って、あんた、全然知らなかったの?」
「だって、私、十六歳だったし、あの頃それどころじゃなかった」
母は、あ〜と言って笑った。
「そうだね。あんたはボーナストラックだって言って、今から人生が始まるみたいな顔してたもんね。今もその時とおんなじ。キラキラしてるわ」
私は母の口から出た、キラキラに笑ってしまった。


 山瀬生花店は十時から開店だ。緑のアーケードの下を通りながらビニール傘を持って、職場に向かう。シャッターが下りた生花店の前を通り過ぎた。帰りに寄りたいが今日は日勤で働いた後に夜勤入りなので、傘を返すとなると実質、明日になる。日勤で働いて、病院で仮眠をとって、夜中働いて、明日の朝、帰る時だ。連絡先は知っているが、店の番号のみで、電話をした事もない。なんだか緊張してしまう。史悠さんは亜沙妃さんと間違えて抱いた時のように優しく、穏やかな目で私を見ていた。それが、嬉しいけれど、落ち着かない。夢かと思う。実は店に行ったら、ことちゃんはもったいないよ、とか言われないだろうか。あり得る。
 病院に着き更衣室に入った。
「おはよ」
「おはよう」
春香が着替えていた。彼女は私の顔を見ると、周りを見回し私に耳を寄せた。
「あの、さ、あ、は、花屋のあの」
珍しく言い淀んでいる。
「どうしたの?」
白衣を着て、チャックを閉めた後、春香は私の顔を見つめた。
「あ、のさ、六年前の大きな殺人事件知ってる?」
私はその言葉で春香が言いたいことがなんとなく分かった。
「うん、知ってるよ」
「そ、そうなんだ。だから、私、あの顔見たことあったんだ。テレビで高校生の時、見てた。こんな男前でも信じられない不幸もあるんだ、みんな一緒だなって思った」
「ごめんね、私がもっと早く思い出してたらよかったんだけど」
春香がすまなさそうに言って、カバンを持った。着替えながら彼女に言った。
「私なんか、この前まで何も知らなかったよ」
「へ?」
春香は、嘘でしょ、と付け足す。
「なんか、麻琴が悩んでるのはそれかと思ってたのに違うの?」
「あ、私が一番悩んでたのは、何度もフラれた事かな。過去はひっくるめて史悠さんだから、それは別に」
「別に、って。あんた、強いね〜。普通ちょっと引いちゃうけど」
「そうかな。力になりたいって思う気持ちはあるよ。でも、考えても、神様も分かんないことかもしれないしね」
「あ〜、開き直ってんのね」
そう、開き直っている。
「それに」
彼は、私を好きと言った。
「それに何?」
「それにね、史悠さん、私の事、好きって言ってくれた」
「えぇぇぇぇぇ!」
更衣室に春香の声が響きわたった。私はすぐさま、春香の口を押さえたが、彼女は、どうして、やったー、押したもん勝ち、今日は焼肉、いや、寿司? など沢山の単語を発していた。


 深夜業務を終え、電子カルテの看護記録の確認を行っていると、小山先生が隣の電子カルテの席に座った。
「お疲れさま」
「お疲れさまです」
黒のメガネに涼しげな目を浮かべ、私の顔を見ている。
「どうしたんですか?」
私はマウスを持っていた手を止めて、メガネの奥の目を見た。白衣は少しだけよれている。
「どうしたんですか、って佐原さんてブレないよね。前に俺がロビーで言った事、覚えてる?」
あの幽霊呼ばわりされた事か。
「覚えてますよ。私、ショックだったんですよ。体薄いとか肌が透けそうとか」
「いや、違う違う。いい意味でって言ったでしょ」
「だから、いい意味で取れないですよ」
小山先生は、はぁ〜、と息を吐いて、電子カルテを見だした。
「あのさ、連絡先聞いていい? 佐原さん、人の好意に鈍いよね?」
「鈍くないですよ。連絡先は知らなかったですか?」
「いや、だから、そういう所だって」
私は小山先生を改めて見た。黒のスキニーを履いて、中に青いロンTを着ている。その上に白衣。首から院内のPHSを下げている。
「そういう所ってどういう所ですか? はっきり言ってください」
「だから、連絡先を聞くのは佐原さんと仲良くなりたいって事なんだけど、分かった?」
夜勤明けの眠たい頭に、医者の難しい話はよく分からない。春香と話すみたいに分かりやすかったらいいんだけれど。私はポケットからメモ用紙を出して、アドレスと電話番号を書いた。
「このメモの電話番号でメッセージも大丈夫です。どうぞ」
「え、佐原さん、俺が言ってる、意図伝わった?」
「分かってますよ。友達になりたいんですよね」
「いや、じゃなく「小山先生」
後ろを振り返ると春香が立って、小山先生を見ていた。
「今日、回診当番ですか? 処置行きますよ」
処置ワゴンを看護師の滝川さんが押している。
「……行きます」
小山先生は電子カルテを閉じて、立ち上がった。私の書いたメモをポケットに入れる。
「ちゃんと、連絡するから」
そう言われてしまったが、小山先生とやりとりするような内容は特にない。私は記録の確認をして、休憩室に向かった。時計は九時半をさしていた。今着替えて、ゆっくり歩くとちょうど山瀬生花店が開く時間になる。携帯を見ると、向かうつもりだった場所の名前が表示されていた。私はすぐさま掛け直した。発信音がもどかしく、緊張する。
「はい、山瀬生花店です」
史悠さんの声だ。電話で聞く声は少し低く聞こえる。
「あ、あの、麻琴です」
初めて電話で話すため緊張した。奥で少し低い笑い声がした。
「そんなに、焦って言わなくても。ことちゃん」
なんだか声が優しく聞こえる。見えないけど、目尻が下がった表情を浮かべているんだろうな。
「電話、今、気づいて。すみません。なんか用事ですか?」
「あ〜、用事、用事ね。電話って用事ないと掛けないもの?」
また深夜明けの頭に難しい質問。電話は用事があるときにするもの。
「え?」
「え?じゃないよ。僕の店の番号は教えてるけど、携帯は教えてないでしょ。この番号は店用だから、今度来た時でも携帯の番号教えるから」
「はい、お願いします」
「お願いしますって」
はは、と低く軽く笑って声が耳に残る。なんだかドキドキする。恋人みたい。
「私、今仕事が終わったんで、ちょうど帰りにビニール傘を持って寄ろうかと思ってたんです」
「あ、そうなんだ。じゃあ、気をつけて来てね」
電話を切る。着信履歴が携帯に残る事でも嬉しいのに、声を聞けてさらに嬉しくなる。ぼーっとした頭だけれど、感情は正直だ。
 着替えて、山瀬生花店に向かう。
空は薄い雲が浮かび、薄水色が広がっている。陽だまりを期待してしまう冬の柔らかい日差し。眠たい目に光がより一層、眩しく感じる。北風に変わりかけた風を感じ、足を進める。
 緑のアーケードが見えて、山瀬生花店のシャッターが丁度、開けられていた。史悠さんの腕がシャッターを離した。あの腕で優しく「佐原麻琴」として抱きしめられたのだと思うと緊張する。なのに、気持ちは浮き立つ。
「おはようございます」
私が声をかけると、彼は振り返った。
「おはよう、お疲れさま」
目尻がくしゃあってなって、奥二重がさらに下がって笑う。思わずこっちも笑ってしまう。
「傘、ありがとうございました」
店の中に入らず店先で傘を差し出した。
「あれ、ちょっと寄っていかないの?」
私が店に入って当然、という態度にますます笑みが溢れる。
「はい。今日は夜勤明けなんで、帰ってちょっと寝ます」
史悠さんは、そっか、と言って私の顔を覗き込んだ。
「あ、本当だ、ちょっと、目の下にクマできてるね」
「え、そうですか」
自分の顔を両手で押さえた。あ、そうだ、化粧をせずにここにきたの初めてだった。うっかりしてた。いつもは休みか、仕事前だったから化粧はしていた。
「あ、あんまり、みないでください」
顔を逸らした。
「あの、今日、化粧してないんです」
「そうなんだ」
史悠さんはそう言い、笑った。
「大丈夫、ちゃんといつもどおり可愛いよ。なんなら、うちで寝ていく?」
寝ていく?って。軽く言わないでほしい。こっちは緊張して、電話がかかって来ただけでも、嬉しくて余裕なんてないのに、好きってどんどん大きくなっていくものなんだなって身を持って感じる。史悠さんはなんでもなさそう。
「いや、帰ります。傘返しにきただけなんで」
「そっか、じゃあ、また来て。郁人が会いたがってるから、今度晩ご飯一緒に食べよう」
そう言って彼は携帯をエプロンのポケットから出した。
「ことちゃんに携帯の番号、連絡しとくね」
私の携帯電話が震えた。
「そっちが携帯だから。それで、登録しといて」
「分かりました」
史悠さんは携帯をしまって、私を見た。
「気をつけてね。また、ことちゃんの仕事の休みの日教えてね」
「分かりました。勤務表を持って郁人くんと予定合わせないといけませんね」
史悠さんは少し眉を寄せる。
「郁人だけ? 僕ともだよ。会いたいのは、僕も一緒だから」
サラッと爆弾を落とす。顔が熱くなるのを感じた。
「僕、言ったよね。ことちゃんのこと好きだって。あと、ひょっとして気づいてないかもしてないけど、かなり重いから。死んだ奥さん六年もずっと愛してるぐらいだから。その気持ちをことちゃんも同様に受けるわけだから。意味わかる?」
私は言葉を失って、首を縦に何回か動かした。この前まで、ことちゃんはもったいない、なんて言っていた人とは別人みたいに私を見ている。
「本当に分かってる? 死んでも愛してるって今、言ってるんだけど」
いや、でも、それは亜沙妃さんの場合であって、私がそれに当てはまるなんてそこまでは図々しく思っていない。
「あの、そこまで、って言うか、私は史悠さんに会えて一緒にいれるだけで、嬉しいんで」
なんだか狼狽えてしまう。亜沙妃さんを想う史悠さんをいいな、とずっと思っていた。人を一途にあんなに想えるのは素敵だな、と。しかし、いざ自分がその立場だと言われたら嬉しい気持ちもあるけれど、嬉しすぎて困ってしまう。滅相もないと思って恐縮してしまう。でも、お世辞でも嬉しい。
「なんか、いろんな顔してるけど。まぁ、僕も今まで散々、もったいない、子持ちだしとか言ってた手前、恥ずかしいんだけどね。見られたくないところも散々見せちゃったし」
史悠さんは静かに私を見つめて言った。
「それでも、ことちゃんを好きな気持ちは本当だから」
彼は手を私の顔に伸ばして、やめた。
「触ったら、帰したくなくなるから、やめとく」
その言葉にさらに心臓の鼓動のリズムは早まった。
「じゃ、じゃあ、帰ります」
私は後ろ髪を引かれながら、家に足を進めた。後ろを振り返ると史悠さんが手を振っていた。
 ままならない恋は形を変えて、喜びを持て余すままならなさになってしまった気がする。嬉しいを振り切ると、人って困るんだ。どうしていいか分からなくなる。彼の視界に入っているだけで、全身で愛を囁かれている気分になる。あの人に、亡くなった奥さんの代わりとは言え、よくも抱かれて平気だったものだと今更ながらに思う。
 今度、私自身と認識されて、あの腕で甘く溶かされてしまったとしたら。
そう思って、私は首を振った。移植した心臓とは言え、耐えられるかどうか。我ながらすごい人を好きになってしまったものだと、それでも、彼から向けられる気持ちを1つでも取りこぼしたくないと想い、また彼に恋をしてしまったのだと感じた。


 少しだけ寝るつもりだったのに、自分の心臓の音が大きく聞こえて、私は目を覚ました。携帯電話を見ると夜の九時を回っており、近くに置いておいたパルスモニターを指に挟んだ。心拍数は九十五を示している。いつもは六十から八十代だ。動悸に近いが、息切れや冷や汗はない。免疫抑制剤もちゃんと決まった時間には飲んでいる。右手の人差し指と中指で左手首の脈を測る。脈が欠けることはない。深呼吸をすると脈は徐々に緩慢になり、パルスモニターは六十五へと表示を変えた。
 こんな事は心臓移植して初めてだった。六年も経つし、先月の定期検査では特に問題もなかった。ちょっとした不安が襲う。
 嫌だな、なんか、落ち着かない。夜勤で疲れが溜まってたのかな。もう一度深呼吸をすると、心拍数はさらに落ち六十になった。
百点オーバーじゃないし、大丈夫。
 私は自分に言い聞かせて、機械を外した。
携帯を見ると、小山先生からメッセージが来ていたので、挨拶を返した。史悠さんからは土曜日の晩に夕食の誘いが来たので、行きます、と返事を送った。


 冬の手土産は何がいいか、橋元商店街の松本和菓子屋に行くといちご大福がショーケースに並んでいた。こしあんだけでなく、カスタードクリームや、抹茶、粒あん、生クリームと色々な種類があった。選びきれず、私は全種類買ってしまった。六種類コンプリート。それほど気持ちは浮かれていた。
 買い物があるから、夕方四時ぐらいに来て、と言われていたので、十分前ぐらいに着くように山瀬生花店を目指す。
 大通りの歩道の街路樹にはイルミネーションが光っていた。街路樹はまだ数枚だけ葉を携えていたが、木枯らしが吹けば落ちそうな儚さだった。ちょっと前の私の恋心に似ている、なんて言ったら少し笑える。それほど、今は浮ついているのかもしれない。
 十一月になったら、街にはイルミネーションの光が溢れて、店の明かりは華やかさを増す。リズムよく点灯し、トナカイや雪だるまを模した電飾が商店街の入り口に飾られている。アーケードの上にはMerry Christmasと書かれた三角のガーランドが赤と緑で交互に並んでいる。
 太陽はだいぶ西に引き寄せられて、空は茜色に染まっていた。サンセット。秋の夕暮れ。夕陽は温度を連れて地平線の向こうに沈んでいく。代わりに今まで見えにくかった月が姿を現す。うっすらと月の輪郭が東の薄い青に浮かんでいた。風が冷たい。
 私は袖口を引っ張って、手を服の中に入れた。
 携帯を見ると、いい時間だった。そのまま山瀬生花店に向かう。店先の植木鉢や切り花を史悠さんが店内に片付けていた。小走りで近寄る。
「こんばんは」
声をかけると史悠さんが振り返った。
「こんばんは」
「あぁぁぁ! まこっちゃぁぁぁぁん!」
郁人くんが飛び出て来た。前より髪の毛がだいぶ伸びていた。私のお腹に抱きつき、体が少しよろめいた。
「郁人くん、こんばんは。今日は一緒に晩ご飯食べようね」
「うんっ! これ、またあそこのわがしやさん? こしあん? こしあん?」
郁人くんはこしあん派なんだろうな。前も、それを重視していた。
「こしあんあるよ。なんと今回はいちごも入ってるよ〜」
「えぇぇぇ! やったー、やったー」
郁人くんは踊り出してしまった。その様子を見て、史悠さんは笑っていた。
「こら、郁人! 嬉しいのは分かる。けど、そんな変な踊りはするなよ」
「おとーさんもうれしいくせに〜いっしょにおどる?」
史悠さんは、ははっと笑った。
「嬉しいけど、踊らない」
花を店に入れ終えるとシャッターを閉めて、内側の扉を閉めて鍵をかけた。店内が電気の光だけになる。
 嬉しいんだ。史悠さんは私が来た事で喜んでくれてる。郁人くんもこんなに笑ってくれてる。私の居場所がちゃんと準備されている事に胸が暖かくなる。
「ことちゃん、気を使わなくていいのに。それ、冷やしといた方がいいの?」
私に向かって手を差し出した。紙袋を渡す。手が触れてドキッとすると彼は目尻を下げて嬉しそうに笑った。
「おとーさん、にやにやしてるぅ〜」
郁人くんは私の服の裾を掴んだ。
「だから、にやにやじゃなくて、ニコニコって言え」
史悠さんは紙袋を持って、小上がりの畳を上がって言った。郁人くんがこっそり私に手招きをする。私は彼に耳を寄せた。
「おとーさんね、ことちゃんがこないとき、こーんなかおしてた」
両手で目尻をこれでもかと言うくらい引っ張っている。声をあげて笑ってしまった。目が全く開いてなくて、ほっぺたまで垂れ下がっている。
「なに、また2人で楽しそうだな」
史悠さんは私と郁人くんを見て手招きをした。
「中にどうぞ。今日はハンバーグにしてみた」
「あ、手伝います」
私は靴を脱いで、小上がりの畳を上がった。
「いいよ。ことちゃんお客さんだし、郁人と遊んでくれたら」
史悠さんは着ていたベージュのエプロンを脱いだ。白のシャツの袖のボタンが取れかかっている。千切れそうな糸にぶら下がったボタンが、ゆらゆらと揺れる。
「あ、ボタン」
立ち上がって、袖のボタンに手を受けるように差し出した。丁度、ボタンは私の手に収まった。
「すごぉい! ナイスキャッチ!」
郁人くんは私の手のひらを覗き込んだ。
「よかったら、ご飯作ってる間にボタンつけときましょうか?」
史悠さんは照れたように笑って、じゃあ、と服をいきなり脱ぎ始めた。下にタンクトップを着ているとは言え、目の前で脱がれるのは少し恥ずかしかった。
「おとぉぉさんっ、じょしのまえでふく、ぬいじゃいけないんだよっ」
郁人くんの言葉に笑ってしまった。
「そ、そうだな。それは郁人が正しかった」
史悠さんはシャツを置いて、奥の部屋から紺色のシャツを羽織って出てきた。
「それ、着てたから、汗臭いかも。ごめん、あんまり顔近づけずに、袖だけ持ってお願いします」
史悠さんは、裁縫箱を食卓の上に置いた。埃にまみれた裁縫箱だった。
「それ、亜沙妃しか触らなかったから」
私の視線を察知し、史悠さんは申し訳なさそうに言った。私は埃を払った。立ち上がって、仏壇の前に正座で座る。
「お邪魔してます。お借りします」
目を閉じて、手を合わせる。目を開けると、亜沙妃さんの笑った写真が目に入った。
「まこっちゃん、ボタンおわったら、いっしょにブロックしよ〜、なつやすみになかったやつ、おばあちゃんにかってもらったんだ〜」
「オッケー」
食卓の方へ移動し、裁縫箱を開けた。郁人くんは奥の部屋にブロックを取りに行った。
「ことちゃん、今日は来てくれてありがとう。会えて嬉しい、ご飯作るから待ってて」
史悠さんは私を見つめてそう言うと、キッチンに向かった。
一瞬で体の体温が上がる。会えて嬉しいなんて、初めて言われた。不意にドキッとするような言葉をサラッと言うからなんだか落ち着かない。
「あれ〜まこちゃんかお、まっかだよ」
郁人くんに顔を覗き込まれてしまった。
 あなたのお父さんが油断したら爆弾を落とすから、大変なんです。私は心臓がいくつあっても足りない気持ちに毎回させられて困ります。
 裁縫箱の中から針と糸とハサミを出して、ボタンを付けた。病院で入院していた時にやたら編み物や縫い物をしていた事がこんな形で役に立つとは思わなかった。退屈で無機質な時間を少しでも埋めようとした行為だけれど、無駄にはならなかった。
「できた」
糸を切って、袖を確認する。しっかりとボタンは付いていた。
「こっちも出来た」
史悠さんがサラダを運んできた。私も一緒に運んで、食卓に並べた。
「あ、おれも、てつだう」
郁人くんも参加して三人で食卓に準備をして席に着いた。
「おとーさん、ハンバーグこげてないね」
「おう」
「よかったね。れんし「じゃあ、食べるぞ」
郁人くんの声に被せて、史悠さんが声を出したので最後まで聞こえなかった。
「え? 郁人くん何か言いかけた?」
「れんしゅふがっ」
史悠さんが郁人くんの口を塞いだ。
「いいから。その話は、いいから。ご飯食べよう」
私はその様子に思わず笑ってしまった。郁人くんは一重の大きな目を寄せて、も〜、と声を出した。
 その時、私の携帯が鳴った。
「でんわだよっ、まこちゃんなってる」
部屋の入り口に置いたショルダーバックの中で音が鳴っていた。
「すみません。ちょっと電話いいですか?」
「大丈夫」
史悠さんに断りを入れて、携帯を見ると登録していない番号だった。
「はい」
名前を言わずに返事をする。
「あ、佐原さん? こんばんは。今、大丈夫?」
黒のメガネをかけた涼しげな目の人物を思い出した。
「あ、小山先生」
「あ、って何、ひょっとして俺の番号登録してなかったの?」
「そうなんです。忘れてました」
電話の向こうから、低い笑い声が聞こえた。
「忘れてました、ってはっきり言うね。今、何かしてる?」
「はい、今からご飯を食べるところです」
「あ、そうなの? じゃあ、手短に。明日夜勤の前って予定ある?」
明日は準夜勤務だけれど、なぜ小山先生が私の予定を知っているのだろうか。
「いえ、特に予定はないですけど」
「じゃあ、空けといて。ランチでもいっしょに食べよう」
「いいですけど、なんで私の予定知ってるんですか?」
「山田さんから聞いたんだよ」
あ、じゃあ、明日春香も来るのか。
「分かりました。じゃあ、また場所、メッセージで送ってください」
「了解」
電話を切ると二人がじっとこっちを見ていた。
「すみません、夕食前に。せっかく準備してくれたのに冷めちゃいますね」
私は食卓に付いて手を合わせた。史悠さんは私をじっと見ている。
「今の誰?」
電話の相手だろうか。
「職場の人です。春香――ー、前に店に連れてきた子と同じ職場で働いている人です」
「あ、仕事場の人。そっか、低い声が聞こえたから」
「あ、男の人ですけど、友達です」
私がそう言うと史悠さんは、そっか、と言い手を合わせた。
「じゃあ、食べようか」
「「いただきます」」
史悠さんの作ったハンバーグは美味しかった。郁人くんは残さず全部食べた。三人で食事をした後、郁人くんとブロックで遊んで、気づけば夜の八時になっていた。史悠さんは食器を片付けた後、店の片付けをしていた。その時に窓を見ると小粒の雨が線を引いたように降っていることに気づいた。傘また持ってきてないや。山瀬生花店に置き傘がいるな、と笑ってしまう。
「雨ちょっと降ってきたみたい。いつの間にか八時がきたね」
「え〜まこっちゃんかえっちゃうの〜つまんない〜」
郁人くんが手を止め、残念そうに言う。口を開けようとした時、心臓がものすごい速さで脈打ち始めたことに気づいた。
 ドクドクドクドク。
 鼓膜の横で心臓が鳴り響いているかと思うくらい鼓動がはっきりと聞こえた。息は苦しくはない。ただ、自分の体から打つ音がやたらと大きい。
「まこちゃん?」
「まこちゃん? おとぉぉぉさぁぁん! まこちゃん、しんどそうっ!」
心臓を抑えて、前かがみになった。息は大丈夫。ショルダーカバンに手を伸ばすとすかさず、陽に焼けた腕がカバンを取って私に差し出した。私はカバンの中から、パルスモニターを出して、指に挟んだ。
百二十の数字が出る。百点オーバー。伊原先生との合言葉。深呼吸をゆっくりとするが、前回の時のように波は引かなかった。
「ことちゃん? 大丈夫? 顔が真っ青だ。病院行く?」
私は頷いた。
携帯を取って、夜間受付に電話をかける。
「す、すみ、ません。じゅ、ん、かんき、ないかでじゅしん、いいです、か?」
息は切れていないはずなのに、動悸がして口がうまく回らない。
 史悠さんはすぐに車の鍵を持った。
「郁人、一緒に病院行くぞ」
「うんっ!」
史悠さんに支えられ、家を出た。雨の音がしていた。軒先から雨の雫が滴っている。
 史悠さん、雨に濡れますよ、自分で歩きます、そう言えずに彼は雨の中私を支えて、白の軽ワゴンの助手席に乗せてくれた。動悸は止まらない。パルスモニターの数字は百十五。息は苦しくないが、ただ、不安が私を襲っていた。
 治ったと思っていたのに。どうして。
 エンジンがついて、車のライトが雨を照らした。雨脚は白く光る。動悸がするのに、雨を史悠さんが怖がってないかが気になる。
 窓から見上げた空に雲は見えない。夜だから見えないだけなのかな。
 雨雲がないのに、雨が降っている。おかしいな、私と一緒。無情に降る雨の光を見て、空も泣いているような気がした。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み