第5話 秋時雨 ―麻琴side―

文字数 13,820文字


 夕立は時間にして五分も降っていなかったように思う。
あの日、私は眠りについた史悠さんにメモを残して、甘く痛む下腹部と腰をさすりながら家路についた。洗濯機はとシャツは勝手に借りた。それぐらいは許してもらおう。郁人くんが家にいなかったがカレンダーにはお泊まり会と書かれていた。その日に予定があった事に安堵した。
 メモには「洗濯機借りました、ありがとうございました、麻琴」とだけ書いた。まさか、あさひさんの代わりに抱かれましたなんて書けるわけもない。そう思って、涙がこぼれた。   
これで良かったのか、悪かったのか、私には分からない。人から見たらバカな話だろうな。恋は盲目。惚れた方が負け。まさかボーナストラックの人生でこんなに苦くて堪らない恋が待っているとは思いもよらなかった。せめて、次、山瀬生花店に行けるように悪あがきのように史悠さんのTシャツを1枚着てきた。彼の匂いと柔軟剤の混じった匂いが私を包んだ。この匂いに抱かれたのだと、想いは通じてはいないが一瞬でも、彼の一部になったのだと思い込むことで、今は自分を保つしかなかった。


「なんか、元気ないよね?」
春香はそう言って私の顔を覗き込んだ。
病棟の休憩室には私と春香しかいない。コンビニ弁当を食べながら、眉を寄せる。
「元気だよ〜、ちょっと夏バテ気味なだけ?」
「なんで疑問形なの。麻琴は細いんだからちゃんとたくさん食べなよ! あの花屋のイケメンと付き合うんでしょ。ガッツが必要だよ!」
ガッツかぁ〜。すっごいあったんだけど、あんなに奥さんの事、愛してたんだなぁって身に染みて感じたから少ししぼんでしまった。死んだ人には敵わない。だって、スタートラインが違う。
「また、会いに行くんでしょ? もう、しゃんとしなよ」
春香に背中を叩かれた。バシッといい音がした。
「痛い…」
「気合い入れてあげたのよ。私も明日、研修医と合コンだからね! 目指せ玉の輿」
春香の声が休憩室に響いて、思わず笑ってしまった。


 九月に入ったが、夏の熱気が名残惜しそうに、太陽を伝って見下ろしているようだった。まだまだ暑い。郁人くんは新学期に入っただろうか。夏休みの宿題を一緒にしたのが、だいぶ前のことのように思える。三日に一回ぐらいの頻度で八月は顔を出していたのに、まだ今月は一回も山瀬生花店には行っていない。一回足が遠のくときっかけがないと行きにくい。史悠さんはあの夕立の日をどう捉えているのだろうか。メモなんて残すんじゃなかったかな。もう正解が分からない。
 ぼんやりと考えていると、山瀬生花店の表示が目に入った。
あ〜、どうしようか。店をこっそりと覗く。史悠さんが店先の花を店内に入れていた。時計を見ると夕方の五時過ぎ。緑のアーケードが夕陽に照らされ始めていた。残暑は厳しい。背中の汗がじんわりと出るのを感じた。
 不意に史悠さんは視線を上げて、私の方を見た。
しまった、視線が合う、と思い、私はとっさに商店街の外に向かって走った。
「ことちゃんっ! 待って!」
後ろから聞いたこともない史悠さんの大きな声が追いかけてきた。
私は全力で走った。
彼も走って追いかけてきた。息が上がる。急に走ったから心臓の奥、気管支が痛い。角を曲がったところで腕を掴まれた。所詮、元、心臓病患者の体力などこんなものだと自分の体力のなさに笑ってしまう。
「こ、こと、ちゃ、ん、なんで、逃げるの」
逆に、なんで追いかけてくるんだろうか。
「し、しゆうさん、こ、そなんで、追いかけてくる、ん、ですか?」
「僕、ことちゃんに謝らないといけ、ないから」
ああ、やっぱり、と思う。彼はきっとメモを見て気づいた。史悠さんはその場で土下座をした。
「や、やめて下さい」
「いや、僕は、捕まっても仕方ない事をしたと思ってる」
周りに人がいないが、彼はそんなことなど全く気にしてはいないようだった。
「本当にすみませんでした。僕は最低です」
土下座をする彼を見て、私は困惑した。どう伝えたら、怒ってもいないし、この土下座をやめてもらえるかどうかを考えた。
「あの、顔を上げて下さい」
史悠さんの頭は地面にくっついていた。顔を上げずにそのまま続ける。
「謝罪では気が済まないと思うのなーーーーー」
「好きです」
自分が発した言葉にビックリしたが、口から出たものはもう取り戻せなかった。
「私、史悠さんの事、初めて会った時から好きでした」
史悠さんは驚いたように顔を上げた。おでこに小石がついている。奥二重のタレ目が不安そうに揺れている。私は目の前に腰を下ろした。
「六月に仏花を搬入したお仕事覚えてますか? その時、史悠さんを見かけた時からずっと好きでした」
「いや、でも、その、僕は、こんな最低な人間、で」
史悠さんは言葉を探しながら、目を宙に漂わせた。
「子供もいるし、その」
私はゆっくりと言った。
「奥さんと間違えて、私を抱いたからですか?」
あの日は心臓がねじれ、ちぎれるかと思うほど痛かった。でも、彼に今やっと「佐原麻琴」して認識された。彼は済まなさそうに頭を下げた。地面に座り込んでいる。情けない姿が可愛く思える私は本当に重症だ。
「好きです」
史悠さんが奥さんを想う気持ちには叶わないかもしれないが、少しでも私の気持ちが彼に届けばいいと思う。
「でも、僕は、ことちゃんとは付き合えない」
思ったより、はっきりと断られてしまった。
一瞬、花屋に来た、多々羅さんの言葉が頭をよぎった。
『不幸慣れしている。ちょっとやそっとじゃダメ』まさにその通りだ。
「私は、史悠さんが好きです」
「でも、僕はことちゃんよりだいぶ歳も上だし、子供もいるし、ことちゃんは若くて可愛いし本当に勿体無いよ。今から素敵な人に出会って、恋をして、暖かい家庭を築いていく未来がーーーー」
「だから、私は史悠さんが好きなんですって」
彼は眉を寄せて困った表情を浮かべた。どう言ったら伝わるのか分からない。私は立ち上がった。もういいや、埒が明かない。
「私はどうしても史悠さんがいいんです。素敵な恋をするのも、暖かい家庭を築く未来も史悠さんとしたいんです」
彼は黙ってしまった。納得してくれたかな。
「でも、僕はことちゃんとは付き合えない」
そんなに私は、ない、のだろうか。
「どうしてもダメなんですか? 理由を教えて下さい」
「えっと、僕にはことちゃんは勿体無いから」
「私自身が、ない、理由を教えて下さい」
「いや、ことちゃんが問題なんじゃなくて、僕がーーー」
私は段々と腹が立ってきた。おんなじ答えばっかり、これでは納得がいかない。私自身に答えが欲しい。
「私のことはちっとも好きじゃないんですか?」
「いや、好きだよ。抱きしめたーーーー」
最後まで聞かずに食い気味で質問してしまった。
「じゃあ、何が問題なんですか?」
「だから、僕がーーー」
そこまで言われて私は、彼の口に手を当てた。
「もういいです。そんなに言うなら、私は私で勝手にします」
私は彼をその場に残してその場を立ち去った。
あの人は私の恋を軽く見ている。私の言葉を信じていない。彼がいい、と言う私の気持ちは受け取れないと自分のことばかり卑下して、話にならない。もっと核心の話をされた方がまだましだった。
亡くなった奥さんの事を愛しているから、好きになれない、ならまだ分かる。多分それもあるだろうが、何かを隠している。私を受け入れられない何かが彼にはまだある。それを彼は隠している。あの日、彼は必要以上に怯えていた。その訳を知りたい。上辺だけの話をされるより、取り乱した姿を見ているほうが、まだ、マシだ。
私は、山瀬さんが好き。どうしようもなく、好きになってしまった。これは私自身の気持ちで他の誰かにとやかく言われる筋合いはない。彼に私の将来を心配してもらわなくてもいい。父親じゃないんだから。
奥二重のタレ目、日に焼けた腕、郁人くんとお揃いの髪型、父親の顔、あさひさんを切なそうに何度も呼ぶ声、左瞼から頬の大きな傷、意外と大雑把な所。花を大事に扱う人。
私が見た彼は、私だけのものだ。それは彼自身に何を言われようが変わることなんてない。私の恋の矛先は史悠さんに向いていても、私が彼をどう思うかは私自身の問題だ。史悠さん自身が山瀬史悠を否定したとしても、どうしてもそれは許せない。


家に帰ってクローゼットの奥に大事にしまっておいたTシャツを取り出した。失礼のない紙袋にたたんで入れ、明日持って行こうと準備した。
「麻琴〜最近、調子はどう?」
母が夕食の準備をしながらそう言って、食卓にお茶を置いた。
「ちょっと、走ったら息が苦しかったけど、それ以外は大丈夫」
「そう、来月、外来の予定覚えてる? 予約票持ってる?」
「うん。持ってるよ。なんか職場に患者として行くのが嫌だな」
母な苦笑いを浮かべた。
「お母さんもその気持ちは分かる。でも、ずっと伊原先生に診てもらってるし、知ってる先生の方が安心でしょ?」
私は自分のショルダーカバンの中から財布を取り出した。四つ折りに畳まれた予約票の日付は十月だった。
「そうだね、調子いいから、診察だけかな。血液検査するかな」
「採血はするんじゃない?」
私は予約票を財布の中に戻した。私の残っている時間はどれぐらいなのだろうか。母はキッチンで何かを炒めている。今まで迷惑をかけた分、せめて親よりは長く生きたいと思う。まぁ、こればっかりはひいおばあちゃんが言うように神様にも分かんないのかもしれないけれど。


 山瀬生花店に行くと史悠さんは接客中だった。背の高い女性で少しかすれた声が印象的で、だいぶ親しそうだった。
「いっくんがね、ご飯のお代わりいっぱいするから、他の子もたくさんご飯食べたのよ。『おとーさんのご飯より百倍美味しい』なんて、お世辞まで言っちゃって。イケメンの子はイケメンなのねぇ」
史悠さんは肩を親しげに叩かれて、明るく笑っている。いつもの笑い方と違った。声を出して、気軽に笑っている。私といる時の笑顔と違った姿にショックを覚えた。
 なんだ、親しい女の人がいたのか。
「郁人は口が上手いからなぁ。あと誰にでもすぐ寄って行くから得するよな」
口調も軽く、自然に会話している。私の時と全然違う。
「まぁね〜でも、口下手な男よりいいわよぉ。口下手つまんないもん」
「え、僕みたいな?」
「いっくんパパはイケメンだから、別格よ〜」
また肩を叩いて親しく笑っている。私はその場を静かに立ち去ろうとした時、彼女は店から出ようとした。
「あ、お客さんじゃない? じゃあ、私これ渡しに来ただけだから。今度はいっくんパパもうちに遊びに来てね。ご飯一緒に食べましょ」
家を行き来する間柄、なんだ。
本当に私のことなど眼中になかったんだ。
「あ、ことちゃん」
低い静かな声が私に向いた。私は振り返って、背の高い女の人とすれ違う形で店に入った。
「あの、これ、借りてたシャツです」
紙袋を差し出す。
「うん」
史悠さんは受け取って、下を向いてしまった。さっきの態度と全然違う。
まぁそうか。本当に私の気持ちは迷惑でしかなかったんだな。
「風邪とか引かなかった?」
史悠さんはそう言って頭をかいた。奥二重の伏せた目が目尻にシワを作っている。紙袋を持った腕は相変わらず逞しい。腕を見て切なくなる。
「風邪、大丈夫でした。史悠さんは大丈夫でしたか?」
「うん、僕も大丈夫だったよ、えっと」
また謝られるかもしれない、と思って私は口を開いた。
「なんで雨が怖いんですか?」
彼は顔を上げて、私をまっすぐと見た。私も見つめ返す。視線が重なり、先に視線を逸らしたのは史悠さんだった。瞳は揺れていた。
「ことちゃんには関係ない」
はっきりとした拒絶の言葉だった。その言葉に私は涙が出そうになった。涙を我慢して彼を見上げた。史悠さんは眉を寄せて、頭を激しくかいた。
「あ〜〜、」
声を上げて、私の腕を引いて、抱きしめた。
「あ〜、違う、えっと、泣かせたいわけじゃない、本当は大事にしたい。でも、それはやっぱり、僕じゃない。僕は亜沙妃――亡くなった妻をまだ愛してるし、息子もいる。歳もことちゃんよりだいぶ上でおっさんだし、僕のどこが好きなのか分かんないけど、情けないちっさい男なんだよ。雨が怖い理由も言いたくない、でも君がここに来てくれる事は嬉しい」
ズルい男の人だな、抱きしめられて、そう言われたら私は全然諦められないんだけれど、それを分かっているのだろうか。分かってないんだろうな。
「史悠さんが自分の気持ちを話してくれた事は嬉しいです。でも、やっぱり私はあなたが好きです。奥さんの事を好きなままでもいいです。それごとでいいので、一緒に居たいです」
史悠さんは抱きしめる腕を緩めて、苦しそうに私を見た。
「ごめん、でも、ことちゃんの事はそう言う対象には見られない」
「さっきの女の人は関係ありますか?」
私の質問に史悠さんは急に、へ?と声色を変えた。
「いや、彼、女、は関係ないよ。ママ友って感じかな。郁人の同級生のママだから」
「そうですか」
私はそう言って、彼の腕から出た。
「分かりました。私は諦めが悪いんです。史悠さんに振り向いてもらうまで頑張ります。ここに来るのは迷惑じゃないんですよね?」
これだけ確認する。恋愛対象として思われなくても、彼の視界に入る事は許されるだろうか。郁人くんの遊び友達としてでもいい。そばに居られる理由が欲しい。
「ここに来てくれる事は嬉しいよ。郁人も喜ぶし」
「分かりました、今日はシャツだけ返しに来たので、帰ります」
私はそう言って店を出た。
泣かない、これからだ、と思ったけど涙が出た。前よりはちゃんとした返事がもらえた。ちゃんと彼は奥さんを愛していると認めた上で、私はそれには及ばないと言った。雨が怖い理由は教えてくれなかったけれど、言いたくない事を無理に聞き出すのも迷惑だろう。
 捨ててしまいたい、と思った。私が彼を好きな気持ちがなくなれば、こんな思いをしなくて済んだのかも。でも、そう思う一方でこの気持ちを誰にも渡すものかと思う自分もいる。矛盾して迷って、でも、最後にはどうしても史悠さんの顔を見たい気持ちが残る。ままならない恋。私の想いは叶わないだろう。それでも、彼のそばに居たい。


 九月は残暑が厳しかったが、十月に入ると空が高くなり、風の温度が下がった。気まぐれのような雨が降って止んでを繰り返し、冬に向かう道のりを感じた。朝夕はもう長袖で過ごさないと肌寒かった。太陽が温度を連れて登場し、気温が上昇する。陽が昇る直前に気温が少し下がる気がする。これは私が夜中に働くようになって気がついた事だ。
「麻琴、今日の夜勤明け、ちょっと話聞いて」
私が病院の窓から外を見ていると、春香がそう言って私の腕を持った。
「うん、いいよ」
私は返事をして、電子カルテを乗せたワゴンを押してナースステーションに戻った。朝の巡回も終わり、今日は比較的落ち着いた夜勤だった。あとは朝ごはんを配膳して、薬を配ったら申し送りをして仕事は終わりだ。眠い目をこする。鏡を出して目を見ると少し腫れていた。
「佐原さん、目が変なの?」
不意に声をかけられて振り返ると、研修医の小山先生が立っていた。スキニージーンズに黒いシャツを着て白衣を羽織っている。
「あ、おはようございます」
私は挨拶をして、黒のメガネの奥の涼しげな目を見る。白衣は綺麗だから、多分夜勤ではなかったのだろう。
「今日、カンファレンスがあるから早めに受け持ち回り。患者さん、変わりない?」
私は自分の分担メモを見た。
「七〇六号の笠井さんの点滴オーダーが今日まででした。昨日の晩も食事進んでいたので、予定通り終了でいいですか?」
「うん。熱もない?」
「ないです」
私は内服薬の処方と先生と話をしたいと言っていた患者さんの名前を伝えた。
「了解」
小山先生は返事をして、電子カルテに入力すると私を見ていった。
「じゃあ、佐原さんは変わりないの?」
え、私?急な質問にびっくりして、自分の持っていた分担メモに目を這わした。
「わ、わたしは……」
だいぶ年上のシングルファーザーに叶わない恋をしていますなんて言えないな。
苦笑いを浮かべていると、ナースステーションに春香がワゴンを押して来た。
「ちょっと、小山先生。朝から、口説くのは無しですよ。早く、カンファ行ってください。部長来ますよ」
「え、もうそんな時間?」
小山先生は腕時計を見て、ヤバい、と小さく呟いて走っていった。
「今日の話は、小山先生の話だから。あの先生のこと、麻琴どう思う?」
「え? どうって、朝早く来て真面目だなぁって」
春香はため息をついて言った。
「言っとくけど、小山先生が朝早く来るのは、麻琴が出勤してる時限定」
「あ、そうなんだ」
「あ、そうなんだって興味ないね。麻琴って本当にあっさりしてる」
その春香の言葉に苦笑いを浮かべる。あっさりしてるかな。史悠さんのことばっかり考えてしつこいけどな。
 夜勤明けに春香が気に入っているパン屋でサンドイッチを一緒に食べた。春香はこの前の合コンで小山先生から私の事を色々聞かれたらしい。
「で、結局、イケメンの花屋とどうなってんの? 進展した?」
進展したのか、後退したのか、その場で足踏みしているのか。何も進んでいない。
「結局は郁人くんの友達ポジションかな」
「こんな若くて、麻琴みたいに一途な子が好きって言ってくれてるだけでもありがたいのにねぇ。イケメンの壁は分厚いんだね。何が問題なの?」
「奥さんが亡くなってて、その奥さんのことが忘れられないんだって」
「死んだ人がライバルか〜。高い壁だね。でも、こっちが生きてる限り、戦いは終わらないね。もしかしたら、いつの間にか追い抜いてるかもよ」
春香はそう言って笑った。
いつの間にか追い抜いている。そんなことがあるのだろうか。この前も振られてしまった。もうそばにいる事を許されただけでも、十分だと思えて来た。
「追い抜けるかなぁ。でも、奥さんをあんなに大事にしてるのも、いいなぁって思ってるんだよね。自分がもうそう思われたいとかじゃなくって、一途に人を愛せるのって素敵だなぁって」
私はアイスコーヒーのストローを吸った。苦味が口いっぱいに広がった。
「確かに。そこまで一途に愛せる人に出会えるってことが奇跡だよね。私もどこかにいないかな〜できればお金持ちで私を寿退社させてくれる人」
春香はそう言って、サンドイッチの最後の一切れを口に入れた。


 循環器内科、伊原渉先生と書かれた名前を見て診察室に入る。採血も心電図検査も特に問題はなかった。
「最近の調子はどう?」
伊原先生は白髪交じりの頭で、恰幅のいい体格をしている。聴診器を背中に当てて、私の下瞼を見た後に、少ししゃがれた声でそう聞いた。
「調子いいです。夜勤もしてます」
「そう、まこちゃん頑張るね」
伊原先生に名前を呼ばれて思わず笑ってしまった。
「どしたの? 楽しそうだね」
「最近、まこっちゃんて呼んでくれる友達が増えて、先生がそう呼んだから思い出して笑っちゃいました」
「もう、小学生のときからまこちゃん診てるから。時間が経つのは早いね」
「そうですね」
伊原先生は、以前は違う病院に勤めていた。私はその病院に通っていた。偶然にも私が就職したと同時にこの橋元記念病院に配置換えになった。
「まさか、同じ病院で働くとは夢にも思わなかったけどね。無理しちゃダメだよ。看護師さんは体力勝負だからね。次の免疫抑制剤も出しとくね。あと、百点オーバーは時々でいいから気にしといて」
立ち上がってお辞儀をして診察室を後にした。
 百点オーバー。心臓移植する前に何度も言われていた言葉だ。心拍数が百を超えると息がしんどくなる。そして、手足が冷たくなって冷や汗をかいていた。だからなるべく、この数字を超えないように、と言われ続けていた。先生と私の合言葉。百は特別な数字。
 今は心拍数を測定する機械はつけてはいないが、退院した頃はしばらくつけていた。今もいつもより心臓の音が大きく聞こえるときや、体調が悪い時はつけて一時の指標にはしている。
 病院の受診が終わって、支払いを待っていると、黒いメガネをかけた白衣の人物が通り過ぎた。
「あ、佐原さん。どうしたの?」
小山先生は手にビニール袋を持っている。昼ごはん買ったところだろうか。時計は昼の十二時前だ。
「えっと、私の受診で」
隠すことでもないし、いいか。私は次の予約票をヒラヒラと目の前で振った。小山先生は急に真剣な表情になって私の隣に腰を下ろした。
「どこか悪いの?」
「悪いというか、悪かったというか。私、心臓移植したんです。それの定期検査で」
小山先生は、あー、と言って私の目を見た。
「だから、体が薄くて、肌が白いっていうか透けそうな感じなんだ」
体が薄いって。
「ちょっと、それ色気がないってことじゃないですか。その言葉聞いたら私、幽霊みたいですよ?」
小山先生は明らかにしまった、と言う顔をした。
「いや、いい意味で」
「そこから、いい意味には取れないですよ」
私は思わず笑ってしまった。
「儚そうで支えてあげたいって言うか、守ってあげたいって…病院のロビーで俺は何を言っているんだ、行くわ」
小山先生は一気にそう言って立ち上がった。言葉に返事はせず、立ち去る白衣を見送った。
 受付番号を呼ばれて、支払いを済ませる。薬局で心臓移植をした患者が一生飲まなければならない薬を貰う。
山瀬生花店に行きたいな。史悠さんに会いたい。
小山さんに言われた言葉になんとも思わなかった事に苦笑いを浮かべる。他人には自分が儚そうに見えているんだな、と思うとまるで自分の事ではないように思える。
 私は物心ついた頃から「死」に向き合ってきた。心臓移植ができなければ、二十歳まで生きるのは難しいと言われ続けてきた。それは実感として、急に襲う発作や体を動かした時に息切れ、冷や汗、脱力感が伴っていた。そんな私は悩んで、悩んで、悩み抜いた挙句、最後は、開き直った。どうせ、人はいつか死ぬんだし、まだリミットが分かっているだけ、いいんじゃないかと思っていた。私自身が私に期待しなくなれば、心は少し楽になった。
 根本的に図太いのだ。考えた末には開き直る。儚く見えるのは見た目だろうな。自分の細い腕を見た。
 少し駆け足で山瀬生花店に向かった。太陽の下に出ることができて、走って、好きな人の元に自分の足で向かえる。その事実が単純に嬉しい。


 橋元商店街の緑のアーケードに入ると少し肌寒く感じるようになった。陽の日差しをあんなに刺さるように感じていたのに、もう秋になってしまったのだと思った。山瀬生花店を見るともうヒマワリは姿を消して、鉢植えにはコスモスが見えた。
「あ、まこっちゃぁぁぁぁん!」
郁人くんが駆け寄って来た。制服を着ている。
「あれ、今日学校じゃなかったの? 会えたの嬉しい」
「きょうはあさだけ、がっこうだったんだー」
「午前中だけだったんだ」
私は郁人くんに手を引かれて店の中に入った。カウンターに座っている史悠さんが笑顔で迎えてくれた。
目尻がくしゃっとなった。黒のシャツを着てベージュのエプロンをしている。
「こんにちは」
私は挨拶をして店に入った。顔を見た途端に嬉しくなる。
「いらっしゃい」
穏やかな低い声が響く。私の好きな人。陽に焼けた腕は包装紙を丁寧に折り曲げていた。
「まこっちゃん、いっしょにあそぼう! りぃちゃんもあとできていっしょにあそぶんだ〜」
郁人くんはそう言って私の手を引いた。
「お邪魔します」
手を引かれるがまま小上がりの畳を登った。ここに足を踏み入れるのはあの夕立以来だ。すごく落ち着かない気持ちになる。仏壇の方を真っ直ぐと見ることが出来ない。でも、挨拶はしたい。
 仏壇の前に座り、鈴棒を持ってチーンと鳴らす。手を合わせる。
あなたがいてくれたら、と思った。
そしたら、史悠さんはもっと笑っていられるのに。
「まこっちゃぁぁぁん! こっちー、きてー!」
郁人くんは私の服を引っ張った。振り返ると賞状を手に持っていた。金賞と書いてある。
「すごい! 郁人くん! これ金賞だって! すごい!」
自分のことのように嬉しい。ポスター部門と書いてある。
「これ、なつやすみ、まこっちゃんといっしょにかいたやつで、しょうじょうもらったんだよ!」
こうつうあんぜん、と一緒に書いたポスターを思い出した。
「やったねぇ〜お祝いした?」
私は両手を合わせ、郁人くんの頭を撫でた。ふわふわの猫っ毛。色素が薄い、写真で見る亜沙妃さんとそっくりな髪質。
「うん、おとーさん、ハンバーグつくってくれたよ」
「やったねぇ〜」
「ふたりでかいたから、ふたりのきんしょうだよ!」
私と郁人くんが話していると店から史悠さんの大きな声が聞こえた。
「郁人―!! りぃちゃん来たぞ〜」
「はぁぁぁい!」
郁人くんは返事をし、飛び出すように、店先に出た。
私は賞状を持って目の前に掲げた。すごく嬉しい。小学生の時なんて、まともに学校に行けなかったから、賞状なんて無縁だった。
「二人の金賞だって」
その言葉に思わず笑みがこぼれる。店先で賑やかな話し声が聞こえる。私は賞状を机の上に置いて、店先に出た。以前、店に来ていた、背の高い女性と横に小さな女の子が一緒に手を繋いで立っていた。
「こんにちは」
私は頭を下げた。二人も挨拶を仕返してくれた。
「今日は郁人とりいちゃんがうちで遊ぶ約束してて」
史悠さんは私にそう言って、カウンターの包装紙をまとめ始めた。和菓子の包装紙をチリにしたとは思えないぐらい丁寧に織られた色紙が積み重なっている。
「いっしょにあそぼ〜」
郁人くんはりいちゃんの手を引いて、小上がりの畳を登った。私の腕も掴まれる。
「こら、郁人、ちゃんと、ことちゃんの予定を聞いてからにしろよ。わがまま言ったらダメだぞ」
私は手を引かれるがままに畳の部屋に向かった。
史悠さんとりいちゃんママの親しげに話す会話が聞こえた。ただのママ友にしては、彼女と話す時、史悠さんはよく笑っている。私はその声を聞きたいような、聞きたくないような複雑な気持ちになった。
「お姉ちゃん、なまえなんていうの?」
りいちゃんはくりっとした目で私を見た。顎下まであるサラサラの髪が揺れた。可愛い子だな。
「まこっちゃんだよっ」
郁人くんが代わりに答える。
「りいちゃんって私も呼んでいい?」
りいちゃんは頷いた。
「ほんとはりいなって言うの」
可愛い子は名前まで可愛いのか。笑ったらえくぼができた。
 折り紙とあやとりで遊ぶことになり、郁人くんは部屋の奥に向かった。奥の扉の隙間から畳まれた布団が見えて、ドキッとした。パッと視線をそらす。
 陽に焼けた腕に包まれ、史悠さんの甘く響く低い声を思い出して、体温が上がった気がした。短く息をする彼の声が耳の奥に残っている。
「お〜い、郁人! りいちゃんママが公園連れてってくれるって言ってるぞ」
店から反芻した声の主が顔を出した。ドキッとする。
「えっ! こうえん?」
りいちゃんが素早く反応して、折り紙を置いて立ち上がった。
「こうえんいきたい!」
りいちゃんは立ち上がって店に出て行った。
「まって〜、おれも、おれも」
郁人くんはその背中を追いかける。
「私、一緒に公園に行くわ。その帰りに買い物してくるから、いっくんパパは来客中だものね」
りいちゃんのママはそう言って私を見た。
「ああ、ありがとう。じゃあ、お願いします」
史悠さんは頭を下げると、三人は仲良く手を繋いで店から出て行ってしまった。
「まこっちゃぁぁぁん! また、きてねぇ〜」
郁人くんが振り返り、手を振っていた。私も振り返す。郁人くんがいなくなると急に静かになった気がする。史悠さんはカウンターに戻って、包装紙の筒を出して、裁ちバサミで切り始めた。陽に焼けた手の甲が大きなハサミを握りしめて、血管が浮き出ている。一回で採血できそうな血管。
シュー、カシャ、シュー、カシャ、とハサミの刃を滑らすようにカットする音が耳障りよく響く。それを店内のベンチ椅子に座って見つめる。
「ビリビリにしないんですね」
言ったあと、失礼だったかな、と思い、史悠さんの顔を見ると、彼は頭を押さえて首を振っていた。
「え、どうしたんですか? 調子が悪いんですか?」
彼は手を振って、違う違う、と小さく言った。
「大丈夫。ちょっと、耳? 頭? の調子がおかしいだけで、悪いわけじゃない」
え、おかしいのに悪くないってどう言う意味?
「調子悪いなら病院に行った方がいいですよ。耳が変なんですか?」
私がそう行って立ち上がり彼の顔を覗き込むと、彼はじーっと私を見つめた。奥二重のタレ目が真剣に私を見つめていた。でも、瞳は揺れていない。真っ直ぐと私を捉えている。私の全てを瞳だけで捉えて、私は急に身動きができなくなる。射抜かれるたかと思うほど食い入るように。視線だけで、私は息のリズムを狂わされそうになった。
「ど、ど、うしたん、ですか?」
なんとか声を出した。何秒間か固まっている間、時が止まっているように感じた。
「おーい、邪魔するぞ! 史悠!」
店先の扉が開いて、威圧的な低い声が店の中に響いた。
その声にハッとして、体がビクついた。
「奈良崎」
史悠さんは視線をすぐ声の主に向けた。背の高いスラッとした男性が立っていた。髪は短く、鼻が高い。整った顔をしているが少し威圧感がある。ちょっと怖い。
「俺、今日、結婚記念日。忘れてたわ、花束作ってくれ」
単語で簡潔に要件を言って、ベンチ椅子にどかっと座った。座って財布と携帯を、ポケットから出して横に置いた。私と視線が合う。
「あ、客? すまん、先にそっちして。俺は後でいい」
奈良崎さんはそう言い、史悠さんを見た。
「あ、彼女は友達だから」
史悠さんがそう言った言葉に胸が痛む。友達。
「え? 史悠に女の、しかもこんな若い友達?」
奈良崎さんが声をあげて、いたずらっぽく笑う。
「そう、郁人も友達」
「友達ねぇ」
奈良崎さんは笑顔のままそう言って、外を見た。その視線につられるように私も外を見た。緑のアーケードに静かに雨音が響いていた。傘、持ってきてないのに。
「雨、降ってきたな」
低い声に史悠さんは返事をしなかった。私は居心地が悪くて、なんとなくここに居られない気持ちになる。
「どれぐらい降っているのか、見てきます」
外に出た。アーケードの下では雨音は耳をすまさないと聞こえない程度だ。ゆっくりと歩いて、大通りの道路まで向かう。降ったり、止んだりの気まぐれな雨だろうか。雨の線は細く、道路も湿気を含んだ程度だ。これなら、傘がなくても帰れそうだ。帰ろうかな。そう思って山の方を見るとうっすらと虹が掛かっているのが見えた。空には鰯雲(いわしぐも)が浮かんでいる。
 綺麗だな。私は史悠さんに見てもらおうと思って小走りで店に向かった。
「え? じゃあ、さっきの子、お前の事、好きなの?」
奈良崎さんの威圧的な声が耳に入って、店に入る足を止めた。とっさに店の中から見えないように、店先の陰に隠れる。
「好きって言うか、まあ、嫌われてはないと思う。でも、あんなに若い子、僕には勿体無いし」
史悠さんの姿は見えないが声は聞こえた。私の話だ。
「いい機会じゃねぇか。付き合えばいい」
「いや、それは出来ない」
はっきりとした拒絶。盗み聞きなんてするもんじゃないな。私は自分に向けられていないその言葉に傷つく。
「それに、多分、ことちゃん若いし、一時の感情だと思うよ」
聞き捨てならない言葉が耳に飛び込んできた。一時の感情?
「それは、分かんないだろ。付き合ってみないと、上辺だけで見てたら、足元掬われるぞ」「付き合わないよ。彼女の時間が勿体無いし、僕の事なんて、年上でちょっと憧れる時期って言うかそんな感じだろ」
ちょっと憧れる時期?
私は立ち上がって、店に向かった。店の扉を開ける。
「あ、ことちゃん」
史悠さんは私を見た。
奈良崎さんは、いたのか、と露骨に驚いた表情を浮かべた。
「今の話なんですか?」
右手をぎゅっと握りしめる。その手がわずかに震えていた。
「え、っと、聞こえてた?」
史悠さんは気まずそうに私を見た。私はため息をついた。
「聞こえてましたよ。盗み聞きするつもりはなかったんですけど」
手が震える。言葉にならない怒りがじわじわと湧き上がってくる。
一時の感情?ちょっと憧れる時期?
「誰が、史悠さんに憧れてるって言いましたか?」
え、と史悠さんは固まった。奈良崎さんは面白いものでも見るように私に視線を向けている。
「私はちゃんと好き、って伝えました。何度も言いました。史悠さんが奥さんを好きな気持ちに届かないかもしれませんが、負けないぐらいの気持ちです」
「いや、でも、僕は、その気持ちにはーーー」
私は声を張り上げる。
「もー、いいですっ! 告白し続けて私は疲れました。何度、同じことを言えばわかるんですか」
誰が一時の感情だ。
「もう一回、言います。好きです、史悠さん」
彼は呆気にとられて私を見ている。
 構うものか。何十回、何百回でも言ってやる。彼は私の気持ちを軽く見すぎている。息を吐いて、思いっきり吸い込んで大声で言ってやれ。
「一回セックスして満足する程、やっすい恋心じゃないんですよ。バカにすんな、おっさん」
私の恋心は誰にも奪うことは出来ないし、推し量ることなんて出来ない。史悠さんでさえこの想いを私から抜き取る事は出来ない。浅く、狭く、小さな恋心、なわけない。そんな易いものじゃない。バカにしないで。今にみてろ、おっさん。
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