第7話 霙(みぞれ) ―麻琴side―

文字数 8,111文字


 十月下旬になると、世間はハロウィンの装いになる。店にはドラキュラやおばけかぼちゃが飾られている。トリックオアトリートと書かれたお菓子のカゴや子供だけでなく大人の仮装衣装までもが売られている。
隣で一緒に服を買いに来た春香を見ると、ベージュのワンピースニットを着ていた。灰色がかった群青色のカーディガンを上に着て、茶髪のボブを揺らした。
「なに? まだ、気にしてんの? 花屋イケメンをおっさん呼ばわりした事」
私はため息をついた。
「言うつもりはなかったんだよ。好き、でやめとけば良かったのに、一時の感情とか、憧れてるだけ、って言うの聞いちゃったら、口から出ちゃった」
「麻琴は、変に純粋だからねぇ、思い込んだら一直線」
春香はそう言って、私に水色のセーターをあてがった。毛が首に当たってチクチクする。
「これは似合わない。麻琴はピンクとかオレンジとか暖色系が似合うね」
「ちょっと、服はもういいんだって。今日は話を聞いて欲しかっただけだから」
そう言うと、春香はそうだねぇ、と呟いた。
「最終、もうなるようにしかならないんじゃない? 花屋イケメンは呆れてたんでしょ。もう考えてもしょうがないよ」
それもそうか。口から出てしまったものはもう取り戻せない。結局、私は史悠さんを好きでいるしかの選択肢しか残っていない。彼に自分の感情をどれだけ向けた所で、彼から何も返ってきていないのが今の現状。
 ままならない恋をどうにかしようとしても、どうにもならない。
「もう、考えるのやめる。私は私の好きなようにしようっと」
「そうそう、麻琴は考えてない方が麻琴らしいよ」
「それって、ほめてる? バカにしてる?」
春香は、あはは、と笑って、どっちも、と言った。


 十一月になった。一週間ぶりに山瀬生花店に行こうと私は自宅から出た。空は晴れていたが、ひつじ雲が上空の農場から放牧されたかのように自由に浮いており、風は湿気をはらみ肌を静かにさらって行った。
近日中に雨が降るのだろうか。
 肩にかけたショルダーバックを掛け直す。緑の橋元商店街のアーケードが見えた。その下に入ると太陽の陽を遮られて、急に寒く感じる。来ていたトレンチコートのポケットから携帯を取り出す。時間は昼の二時だ。
 店に着くと山瀬生花店にはシャッターが降りていた。シャッターに印字された、火曜日、を見て、私は携帯で曜日を確認した。
「あ、今日、休み」
残念のような、ほっとしたような気持ち。
史悠さんに会いたかったけれど、好き勝手に自分の気持ちを押し付けてしまった手前、気まづい部分もある。複雑だけれど、やっぱりいつも最後は、会いたくてここに足を運んでしまう。一途を通り過ぎて、しつこい。今日は一旦引いて帰ろう。
 体を家に方向転換する。その時、ポケットの携帯が震えた。「橋元記念病院」の表示が出ている。
「はい」
電話の相手は師長さんで、今日の夜勤の相談だった。準夜勤務に欠勤が出たため、出勤は可能か、という事だった。
「大丈夫です、行けます」
代わりに明日と明後日が休みになった。
 私はその足で病院に向かった。

 準夜勤の業務は四時半から始業になる。夜食を近くのスーパーで買って、病院に向かった。更衣室で白衣に着替え、エレベーターに乗り込んだ。
「す、すみません」
エレベーターの扉が閉まるギリギリで、聞いたことのある低い声が耳に飛び込んできた。私が顔を上げると、史悠さんが乗り込んできた。周りには結構な人数が乗っていて、彼は白衣の私に気づかず、五階で降りて行った。
 五階は脳神経外科と呼吸器外科の病棟。誰か知り合いでも入院しているのかもしれない。詮索はやめよう、そう思って私は七階で降りた。
休憩室に行き、荷物を置くと、春香が息を切らして部屋に飛び込んできた。
「今日、また、忙しいんだけど。麻琴、勤務前にごめん。脳外からエアマット借りて来てくれない? 今から入院の人が使うから」
「今からか〜、了解」
私は返事をし、ワゴンを取りにナースステーションに向かった。整形外科の表示を横目に、ワゴンを押して、エレベーターに乗った。五階で降り、ワゴンをガラガラと押して、ナースステーションに声をかけようとした時、私の視界の中に、見覚えのある陽に焼けた腕が入り込んだ。
史悠さんだ。
そう思い、彼の表情を凝視して、私は頭が真っ白になった。
何、あの表情。
それは私の知らない感情だった。
紛れもない憎悪。目は一点を睨んで、恨んでいる事を隠しきれない表情だった。五○一号室を見ている。
「あ〜、七階の人? エアマットこっち!」
ナースステーションから声を掛けられ、私はワゴンを押し足を進めた。史悠さんがその声に反応して、こっちを見た。
 私と視線が合った。そして、彼は目を見開いた。
「ちょ、ちょっと、すみません、また後で来ます」
ナースステーションの看護師に声を掛け、史悠さんを見た。
彼は病室に背を向けて歩き出していた。
その背中を見て、束の間、追うのを躊躇った。その場で二の足を踏む。
『ことちゃんには関係ない』
また、そう言われるかも。
もうこれ以上、彼に踏み込んではいけないのかもしれない。なんだか試されている気がした。見た事ない表情を見て、史悠さんが今まで私が思っていたような人ではないかもしれないと恐怖を抱いた。出来れば見なかった事にしたいぐらいだ。
 あの感情は「殺意」だ。生きてきて、人に向けた事も向けられた事もない感情。
でも。
私は両手を握った。下唇を強く噛む。手が震える。
ここで、踏み込まなければ本当の史悠さんが分からないかもしれない。やっぱり、私は彼を理解したい。私は私の勝手にするって決めたのに。どうしよう、凄く怖い。でも、やっぱり、でも、を繰り返して、私は息を吐いた。
彼は私に気がついた。彼は私に感情を見られた事も分かっているはずだ。彼が今まで隠してきたのなら、気づかない振りをした方が良いかもしれない。
 そう結論づけようとした気持ちとは裏腹に、足は彼を追いかけていた。

エレベーターの手前で追いついた。私の頭二個分上の後頭部を見上げる。気づけば郁人くんとお揃いの髪は出会った頃の様に伸びてしまった。短くも長くもない。エレベーターが来る前に声を掛けないと彼は行ってしまう。
「史悠さん」
声掛けると、彼はゆっくりと振り返った。さっき病室の前で浮かべていた顔ではない事に、少しだけ安心した。でも、浮かべた笑顔が泣きそうだった。垂れ目の目尻をしわしわにして、困っている様にも見える。
「ことちゃんにはどうしても見られたくなかったんだけどな」
彼はそう言い、真っ直ぐに私を見た。
「これで僕がどんな人間か分かったよね」
何か言わなくちゃ。でも、言葉が浮かばない。そんな事ないですって言えない。私は彼の殺気が、怖かった。出来れば見なかった事にしたいぐらいだった。
「ほんと、ことちゃんってまっすぐだね、顔に書いてある。嫌なもの見せてごめんね」
かろうじて私は首を横に振る事しかできなかった。エレベーターが八階からゆっくり降りてくる。
何か言わなくちゃ、彼に何を伝えたらいい?
「僕は田谷恭平を殺したい。あいつに亜沙妃を殺されたから。でも、郁人が居るから簡単には殺せない。雨が怖いのは、殺された日に雨が降っていたから。これでもう僕に近づいてこれないでしょ?」
彼はそう言って、自嘲すると、誰も乗っていないエレベーターに乗って立ち去ってしまった。
 私は何も言えず、ただ彼の背中を見送る事しか出来なかった。

 その後、私はどうやって仕事をしたのか覚えていない。五階からエアマットを借りて七階に運んだのも、ぼやっとしている。夜勤が終わった後にただ頭の中に浮かぶ、田谷恭平、の名前を反芻していた。
 仮眠室で始発の電車の時間まで全く寝られなかった。夜明けをカーテン越しの窓から、うすら明かりで感じる。
史悠さんの、泣きたいのに無理やり笑顔を浮かべた顔が忘れられない。彼は私に感情を見られて傷ついていた。事件の真相を知りたい。過去に何があったのかを。
ダメだと思ったが、どうしても事件の事が気になって、ネットで田谷恭平の名前を検索した。

 四津井市橋元町の殺人事件。
2014年10月15日午後6時20分頃、○△県四津井市橋元町の山瀬史悠さんの自宅で、山瀬亜沙妃さん(32)が侵入してきた男性に刺殺される事件が発生した。長男の郁人くん(1)は命に別条はなかった。自宅に帰宅した夫の山瀬史悠さんに同男は遭遇し、山瀬氏にも襲いかかった。その後、逃走を測ろうとするも、山瀬氏の追跡で自宅近くの交差点で揉み合いとなり、男性は道路に強く頭を打ち付け意識不明の重体。男性は病院に搬送後、近くに住む田谷恭平(24)と身元が判明。○△県捜査一課と橋元署の捜査本部は事件の概要について詳しく捜査を進めている。
 尚、被害に遭った山瀬亜沙妃さんは胸や腹など十数ヶ所を刺されており、犯人は強い殺意を持っていたとみられている。

 橋元町で2014年10月、山瀬亜沙妃さん=当時(32)が自宅に侵入してきた男に刺殺された事件で、加害者の母親が「息子は1ヶ月前から精神状態が不安定で、精神科に通院していた」と話す。警察の調べによると、田谷恭平は「統合失調症」の診断を受けており、幻覚、幻聴、関係妄想が強く出現しており、事件前日より「あいつがくる、あいつがくる」としきりに話していたことが明らかになった。田谷と被害者は顔見知りであり、以前、ゴミ捨ての事で口論になった事を近隣の住民が目撃していた。



 記事を読み終えると、私は携帯を置いた。
雨の日に異様に怯えていた史悠さんを思い出した。あの時、彼はフラッシュバックを起こしていた。PTSDだと思う。六年経ってもまだ癒えぬ傷を抱えている。そして、犯人に対して殺意を抱いている。


 始発の電車は見送って通勤ラッシュが引いた十時代の電車に乗った。自宅までの道を進む。歩いていると、史悠さんと夜道を一緒に歩いた事を思い出した。
彼は私に暗い道が怖くないのかと聞いた。怖くてたまらなかったのは彼なのかもしれない。
 家に着いて、シャワーを浴びてベッドに入る。母はテレビを見ていた、父は仕事だろう。ベッドが闇夜に浮かぶ感覚はない。遮光しているカーテンを閉めても昼間はやっぱり隙間から光が差し込んでいる。
 いつまでも暗闇じゃない。雨もいつまでも降り続きはしない。私はそっと目を閉じた。私に出来ることはあるだろうか。


 愛している人を奪われたら、人は何を思うのだろう。
憎い、苦しい、寂しい、怖い。きっと、言葉にならない感情が自分を支配して、その立場にならなければ一生分かり得ないんだろうな。安易な言葉は言えない。掛ける言葉も見つからない。でも、やっぱり私は彼に会いたい。
「今日も花屋に行くの?」
家を出ようとして母に声をかけられた。ドキッとした。なるべく動揺した事を悟られないように平静に返事をする。
「うん」
「じゃあ、ポインセチア買ってきて、もう出てるでしょ? 十月が終わったらすぐ、クリスマスムードだから」
「分かった」
私は返事をして、玄関に向かった。
「楽しんでおいでね」
母の声が背中から追いかけて来た。
楽しむ余裕なんてない。この恋をしてから思い通りになった事なんて何もない。けど、彼の顔を思い浮かべるだけで、切なさを通り越した嬉しさがこみ上げる。どうしようもなく、好きになった私を許して欲しい。彼の中の殺意を見ても、事件を知っても、私が彼を想う気持ちが揺るがない事に私自身が1番驚いている。
 殺意を抱く彼を怖いと思った。
それは事実だ。でも、それも彼だと思えば、なんでも飲み込めてしまう。本当に重症。どこまでも溺れていくこの恋につける薬など何もない。



 十一月にしては、やけに冷え込む日だった。雨は降ってないけれど、空には分厚い灰色の雲が広がっている。上空で雷鳴が轟いており、私は着ていたセーターの袖を引っ張った。指先、足先も冷える。雪が降りそうなほど寒い。
足早に橋元商店街を目指す。一昨日から色々考えた。考えたけれど、答えが出ない。答えは出なくても私の気持ちはずっと決まっている。それで十分だった。
でも、彼にもう迷惑だと言われたら、今日で最後にしようと思った。私が近くに居て、彼の力になれるのならまだいい。でも、彼は私を受け入れる気はない。この現状が続くのなら、私は邪魔なだけだ。
 緑のアーケードをくぐって、山瀬生花店の表示を見つめる。店先には赤い花の小鉢が見えた。切り花と枝木も何本か見えた。深呼吸をした。心臓はやけに落ち着いている。足を進める。
「こんにちは」
カウンターに座っている人物が顔を上げて、目を見開いた。
「……こ、と、ちゃん」
驚いている。
「来るとは思わなかった」
ええ、図太いんです、心の中で言って、苦笑いを浮かべる。
「今、時間大丈夫ですか?」
そう聞いて、もう最後にしますから、と付け足す。その言葉に彼はまた泣きそうな困った顔になった。目尻のシワが食い込んでいる。
「大丈夫。落ち着いて話そうか」
彼はペンを持って、メモに走り書きをして店の扉に貼った。シャッターを片側だけ降ろす。私は店内のベンチ椅子に座った。
初めて座った時は何も思わなかったのに、今日が最後だと思うと、椅子にさえ愛着が沸くなんて変な話だ。夏には暑かった店の中も、今日の気温だと暖かさを感じる。
「史悠さん、何を考えてますか? 私はあなたの気持ちが知りたい」
彼はカウンターに戻って、私を見た。瞳は出会った時の様に揺れていた。揺れていたが、すぐに瞬きをすると、視点が合った。まっすぐに私を見ている。
「病院で言ったように、僕はあいつが憎い。できれば殺してやりたい。この感情をことちゃんに見られたくなかった」
「……はい。私は史悠さんが違う人に見えて怖かったです」
彼は、そう、だよね、と相槌を打った。
「私は殺したいほど人を恨んだ事はないです」
「それが普通だよ」
彼はそう言って目を伏せた。
「でも、許せない気持ちを持ち続けることがいけないとは思いません」
「恨んだっていいって事?」
史悠さんは、苦笑いを浮かべた。
「人を恨む気持ちもないのに、僕の気持ちは肯定できるの?」
「はい」
私ははっきりと返事をした。彼が思う気持ちを、他人がとやかく言う必要はない。
「史悠さんが何をどう思おうと、自由だと思います」
そう自由。
私が彼を好きな気持ちと同様に、彼が何を思うかは自由だ。私は手を握り占めた。
「でも、殺してはダメです」
私の言葉を聞いて、彼は嘲笑った。
「それは綺麗事だ。だったら、罪を憎んで人は憎まずって? 事件の記事を見た? あいつ、精神鑑定が先に出ているんだよ。目が覚めたら、無罪になる可能性が高い。刑法39条、知ってる? 心神喪失者の行為は罰しない、これで守られてる」
「でも、殺してはダメです」
私は彼の目を見た。彼は怒りを隠してはいなかった。
「他人が、口出ししないで」
「殺さなくても人はいつか死にます。ほっといても、みんな死にます。犯人も、私も、あなたも」
彼は私を見た。私は自分の心臓を指差した。
「私は二十歳までに死ぬ予定でした。十六歳の時に脳死した男の子の心臓をもらって、今ここにいます。本当はここにいない人間でした。普通じゃありません。人の命の上に立って、生きてます」
息継ぎをして、言う。
「別に命の尊さを語ろうってわけじゃないです。私は史悠さんの気持ちは分かりません。あなたの悲しみは想像つきません。ただ、犯人を殺してしまったら誰が郁人くんと生活していくんですか? 殺意に負けて、郁人くんの優しい父親を奪わないでください。郁人くんは史悠さんの事、大好きなんですよ」
彼は私から目線をそらした。頭を抱える。
「そんなの、言われなくても分かってるよ。だから…」
「だからなんですか?」
彼は私を見て、大きくため息をついた。
「だから、くるしい、んだよ」
やっとこの人、苦しいって言った。
私は涙が溢れそうになるのを堪えた。
ずっと、苦しかった筈だ。
言葉にできないほどの苦しみを抱えながらでも、郁人くんと居る時はちゃんとお父さんだった。立派な父親だ。
「史悠さんは犯人も雨も、自分も憎いんですか?」
彼は私を見た。首を振った。
「もう、これ以上ことちゃん、入ってこないでよ」
拒絶。
何度目かの拒絶。その言葉に、心が折れそうになる。涙が溢れる。私はやっぱり彼には必要ないのか。邪魔者だったら、消えよう。声を出そうとした瞬間に彼が口を開いた。
「そうだよ。僕は犯人も、雨も、自分も全部が憎いんだよ。憎くて、憎くて、堪らない」
「史悠さんは悪くない」
彼はまた嘲笑った。
「じゃあ、許せない憎しみはどこに行けばいい?」
私の頬を涙が伝っていった。月並みな言葉しか持っていなくてごめんなさい。でも、これが今の私の精一杯。どうか彼に届きますように。
「私に吐き出して、預けてください」
彼は両手で頭をかいて、カウンターから出てきた。
座っていた私を抱きしめる。大好きな腕が私の頭を包んで、史悠さんの匂いがした。
「どうして、僕のために、そんな、真っ直ぐにぶつかってくるの? もっと楽しくて幸せな恋があるでしょ? ことちゃん若いし、可愛いんだから、別、の人、が……」
私は彼を力いっぱい抱きしめた。
彼の体は小刻みに震えていた。私の視界はベージュのエプロンに覆われて彼の表情は何も見えない。
「な、何度も言いました。私が史悠さんの事、好きだからです。やっと伝わりましたか?」
泣いてもいい、悲しんでもいい、怖がってもいい、憎んでもいい。
隠さずにすべて私に見せて。私が全部、預かっておくから。


 しばらく抱き合って、体を離したあとはなんとなく気まずかった。彼から言葉は何もなかったけれど、ちゃんと私の気持ちを受け取ってもらえた気がした。涙は乾いて、彼も泣いたのかどうか、涙の跡は私には分からなかった。
 山瀬生花店から帰る頃には少し大きな雨音がしていた。小さな個体がぶつかるような音。
「傘、持って行って」
史悠さんはそう言って、ビニール傘を渡してくれた。
「ありがとうございます」
この傘を返しにまたここに来られる。雨が降っていることがラッキーだと思えた。私は渡された傘を見つめた。思わず笑ってしまった。
「……また笑ってる」
史悠さんがそう言って、私を見た。優しい瞳。目尻にシワが寄っている。彼を見上げると彼は私にゆっくりと腕を伸ばした。大好きな腕。私が逃げようとしたら逃げられる速度。
「これが最後だよ。ことちゃんは本当に僕でいいの?」
抱きしめられて、心臓がうるさい。
「史悠さん、が、いいんです」
史悠さんはため息をついた。
「こんな情けない男がいいとか、男の趣味、ほんとに悪いよ」
私は笑った。彼は私の顔を覗き込む。
「おっさんだよ」
「あ、それ、その、すみません」
「まぁ、事実だから、いいけど。スネに傷もあって、子供もいて、本当に何がいいのか全く分からない」
「それ以上、私の好きな人を馬鹿にすると怒りますよ」
「で、また、バカにすんな、おっさんって言うんでしょ?」
「ちょっと、それは私をからかってますか?」
私が彼の目を見ると、同時に彼の顔が近付いてきた。ゆっくりと噛みしめるように彼は言った。
「からかってない。僕もことちゃんが好きだよ。本当はずっとそう言いたかった」
顔を両手で包まれた。
親指でゆっくりと唇をなぞられる。
雨の音がしている。アーケードの隙間からわずかに氷を抱いた雨雫が伝うのが見えた。霙だ。だから、一粒の音が大きかったんだ、そう思って私は促されたように瞼を閉じた。
 瞼を閉じると彼の唇が私の唇に、そっと触れた。
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