第10話 天泣 ―史悠side―

文字数 11,160文字


 霙は雨ではなく、雪のなり損ないだ。
 家に帰ることちゃんの背中を見送りながら、アーケードに当たる粒の大きい音を聞いていた。ババババ、ババ、バと不規則に降って、音が止んだかと思えば、また音が再開していた。十一月に霙が降ることは珍しく、彼女を車で送ることを申し出たが、彼女は傘を握りしめて、電車で帰ります、と言った。心配だから、と付け足したが、彼女は笑って首を振った。
 彼女の気持ちを受け入れた。
 僕も想いを返した。
 この事の意味を彼女は理解しているのだろうか。彼女も成人した女性だから、分かっているとは思うが、まっすぐに気持ちをぶつけてくる彼女は、僕との関係を確認するような発言はなかった。会いにきていいか、の確認ばかりだった。純粋に好意を向けられるのは嬉しい。彼女は関係が変化した事に気づいているのだろうか。
 目の前に彼女がいないと安心できない。早速、自分がことちゃんを好きな気持ちが重い。
彼女を帰した後に僕は彼女には店の連絡先しか教えてなかったことに気づいた。彼女の携帯の番号は控えていたためすぐに携帯に登録はした。したが、掛けたことはない。
 鳴らそうと店の電話を手に取った。さっきの今で、もうこれだ。先が思いやられる。でも全然嫌じゃない。
 一旦、電話を置いて、右手で頭のこめかみを抑える。
 少し頭が痛むが、薬を飲むほどではない。雲に覆われているためアーケード越しの商店路は暗いが時間は夕方の五時前だった。このまま霙が止まなければ、郁人を車で迎えに行こう。
カウンターに戻って、ドライフラワーを細かく整えて、瓶にピンセットで入れる。ハーバリウム用のオイルを入れた。


 一昨日の霙が嘘だったかのように、今日はよく晴れた。天気予報ではこの前の霙は局所的であり、日本列島全体は高気圧に覆われていた。週末に向かって天気は崩れるが、今日、明日は晴れの予報だった。ただ気温は下がり、空気は乾燥しているらしい。
「郁人、寒いからちゃんとベスト着ろ」
郁人はベストのサイズが少し大きい為、学校に着ていくのを嫌がっていた。理由はサイズを二サイズ大きめの物を買った為、裾が半ズボンの一センチ程度上になるのがスカートのように見えて嫌、らしい。
「えぇぇ〜さむくないし」
「今、寒くなくても、学校に行く時に寒いだろ」
「だって、スカートみたいになるんだもん。どうせなら、ながズボンとかの方があったかいよぉ〜」
「確かに」
それは僕も思った事がある。
「子供は風の子って言うだろ」
どこかで聞いた事があるセリフを言って、僕の言動がかなり矛盾している事に気づく。
「もぉ〜さむいからベストきるんでしょ? ながズボンは十二月からなんてへんだよっ」
「確かに。でも、お父さんに言わずに、それは先生に言え」
大人ってズルいな、とこんな時に思う。よくわからないルールを押し付けられる子供が少し理不尽だ。
「おとぉぉさぁん! わらわないでよぉ」
「ほらランドセル背負って、学校行けよ」
僕はベストの裾を少しだけ折り曲げて、郁人の背中を叩く。
「ねぇ、まこっちゃんくるんだよね?」
「うん、来るな」
「じゃあ、ばんごはんいっしょにたべようってさそっといてよ」
まるで自分の恋人のような発言に笑ってしまう。
「ちょっと、おとーさん、にやにやしてないで、ちゃんとさそってよ?」
「分かった、分かった。ちゃんと連絡するよ」
「ちゃんとだよ。やくそくしてよ」
「はいはい」
郁人の背中を見送って、時間を見た。八時過ぎ。朝食後の食器を洗って、洗濯機を回す。携帯を持って、佐原麻琴と登録した名前を見つめる。
 今、休みなら起きているだろうか。
 彼女は夜勤をしているから、ひょっとしたら寝ている可能性もある。声が聞きたい。店先に行って、店の電話で通話ボタンを押し、電話を耳に当てたが鳴り響くのは発信音ばかりで聞きたい声の主は電話に出なかった。用事を作って声を聞きたい。郁人の用事二割、僕の気持ち八割。着信履歴は店の電話で残したから、待っていたら折り返しかかってくるだろう。携帯でかけてもいいが、会う口実は少しでも多い方がいい。知らない電話から掛かってきたら出ない可能性もあるし、と自分に言い訳をして、僕は洗濯物を干しに二階のベランダへと向かった。


 店の電話が鳴って、表示を見る。登録した名前で画面表示されていた。
「はい、山瀬生花店です」
返事をして、彼女の声を待つ。
「あ、あの、麻琴です」
少し焦った様子で声が聞こえて、瞬間、胸が暖かくなる。
「そんなに、焦って言わなくても。ことちゃん」
笑いながら、電話口の向こうの彼女の姿を思い浮かべる。会いたいな。
「電話、今、気づいて。すみません。なんか用事ですか?」
彼女に問われて、笑う。律儀な子だな。相変わらず。
「あ〜、用事、用事ね。電話って用事ないと掛けないもの?」
「え?」
彼女は間の抜けた声をあげた。
「え? じゃないよ。僕の店の番号は教えてるけど、携帯は教えてないでしょ。この番号は店用だから、今度来た時でも携帯の番号教えるから」
ただの口実。
「はい、お願いします」
「お願いしますって」
ただの口実に簡単に乗っかって大丈夫か、と心配になってしまう。携帯でかければいいだろ、電話番号知ってるんだから、と言わないところが彼女らしい。
「私、今仕事が終わったんで、ちょうど帰りにビニール傘を持って寄ろうかと思ってたんです」
「あ、そうなんだ。じゃあ、気をつけて来てね」
夜勤明けに疲れている所申し訳ないな、と思いつつも嬉しい気持ちが優っていた。
パソコンを取り出して店の支出入を確認する。数字を見て冷静な気持ちを少しずつ取り戻すが、浮かんでいる気持ちがわずかにある。ちょっと落ち着こうと、コーヒーを入れてカウンターに置いた。香ばしい匂いが鼻をくすぐる。匂いと一緒に苦味を飲み込んで、早く来ないかな、と時計を何回も見つめて、いつもより早めに店の扉を開け、シャッターを上げようと立ち上がった。


 シャッターをゆっくりと上げて手を離すと、ガシャガシャシャーンと音を立てて吸い込まれて行った。同じ動作を二回繰り返すと後ろから声をかけられた。
「おはようございます」
待っていた声に素早く振り返る。
「おはよう、お疲れさま」
自然に笑顔になってしまう。ことちゃんは傘を持って、小さい口の口角を上げて笑った。小さな耳も見えている。髪の毛は後ろでまとめられている。
「傘、ありがとうございました」
彼女は傘を差し出した。
「あれ、ちょっと寄っていかないの?」
え、もう帰っちゃうの、って思わず口からこぼれそうになった。
「はい。今日は夜勤明けなんで、帰ってちょっと寝ます」
この場に郁人がいたら、えぇぇぇぇ、って言ってた思う。それぐらい彼女はあっさりと帰る発言をした。がっかりしながら、そっか、と呟いて、彼女の顔を覗き込む。目がいつもより疲れている感じがする。
「あ、本当だ、ちょっと、目の下にクマできてるね」
「え、そうですか」
ことちゃんは両手で自分の顔を抑えた。
「あ、あんまり、みないでください」
顔を逸らす。
「あの、今日、化粧してないんです」
「そうなんだ」
僕は笑った。
そんなにいつもと変わんないけどな、ってこれ言ったら、女性は怒るか。
「大丈夫、ちゃんといつもどおり可愛いよ。なんなら、うちで寝ていく?」
その発言で彼女は顔を赤らめた。他意はないけど、一緒に居たい下心が伝わってしまったかな。
「いや、帰ります。傘返しにきただけなんで」
彼女はそう言って、今すぐ立ち去ってしまいそうな勢いだった。僕は言葉をすぐに探す。
「そっか、じゃあ、また来て。郁人が会いたがってるから、今度晩ご飯一緒に食べよう」
ちょっとでも長く顔を見ていたくて、携帯をポケットから出して、何度も掛けようと思った名前の画面で通話を押した。
「ことちゃんに携帯の番号、連絡しとくね」
彼女の電話が震えて、彼女は手にとって画面を確認した。
「そっちが携帯だから。それで、登録しといて」
「分かりました」
僕は携帯をしまって、彼女の顔を見つめた。
「気をつけてね。また、ことちゃんの仕事の休みの日教えてね」
会いたいから。
最後の言葉は言わないでおいた。気持ちが重い、と思われて引かれたら嫌だ。
「分かりました。勤務表を持って郁人くんと予定合わせないといけませんね」
その言葉に僕は眉を寄せる。
引かれたら嫌な気持ちは一瞬で吹き飛んだ。
「郁人だけ? 僕ともだよ。会いたいのは、僕も一緒だから」
言った後に、なんで言った、と思うが口が勢いついて止まらなかった。
「僕、言ったよね。ことちゃんのこと好きだって。あと、ひょっとして気づいてないかもしてないけど、かなり重いから。死んだ奥さん六年もずっと愛してるぐらいだから。その気持ちをことちゃんも同様に受けるわけだから。意味わかる?」
彼女は顔を真っ赤にして、何回も頷いた。
 彼女の目をまっすぐと見る。
 本当に分かっているのだろうか。
 付き合いたての会話ではないぐらいの愛を囁こうとする自分が止められない。
「本当に分かってる? 死んでも愛してるって今、言ってるんだけど」
「あの、そこまで、って言うか、私は史悠さんに会えて一緒にいれるだけで、嬉しいんで」
いや、だから僕はそれだけじゃ足りないんだって、と言おうとして彼女が真っ赤にしたまま困った表情を浮かべていたため、発言をやめた。頭をかいて、小さくため息が溢れる。可愛いな、でも困らせたくはない。
 息を吐いて、声を出す。
「なんか、いろんな顔してるけど。まぁ、僕も今まで散々、もったいない、子持ちだしとか言ってた手前、恥ずかしいんだけどね。見られたくないところも散々見せちゃったし」
ことちゃんは困りながらも僕からは視線をそらさない。その視線にますます僕の気持ちが収まらなくなってしまう事を彼女は気づいていない。
「それでも、ことちゃんを好きな気持ちは本当だから」
左手で彼女の頬に触れようとして、やめる。
「触ったら、帰したくなくなるから、やめとく」
手をその場で握って、ゆっくりと降ろした。
彼女はゆっくりと視線を逸らした。
「じゃ、じゃあ、帰ります」
そう言って、軽くお辞儀をして彼女は家の方向に歩いて行ってしまった。
 あれだけ、好きだ、と言ってきたのに彼女は全然、僕の物ではない。簡単にあっさりと手をすり抜けていくようだった。こんな所は亜沙妃によく似ている。人に好意を向けられても、人は人を手に入れることはできない。そんなことは分かっている。分かっているから、ますます欲しくなり、独占したくなる。去りゆく背中を見ながら、木枯らしににも似た風を受けて、彼女は少しどころか、かなり人の好意というものに疎いのではないかと思った。


「おとぉぉぉさぁん! まこっちゃん、ごはんさそってくれた?」
郁人を学童に迎えに行くと、開口一番にことちゃんの話題だった。抜け目のない男。周りも固めるタイプ。こんな所まで僕に似ている。変なとこばかり似てしまう。
「ちゃんと誘ったよ。後は日を決めるだけ。次の土曜日でいいな?」
一緒に家路に着く。五時を過ぎているためもう地平線の向こうに太陽は隠れていた。宵闇が包み、辺りを走る車はライトを灯している。
「うん、どようびだね。なにつくるの?」
そう聞かれて、悩む。若い女の子ってパスタとかパンケーキなど洋食を中心に好んで食べているイメージだ。
「何がいいか? 女の子の友達は何が好きって聞く?」
まさか息子に相談するとは思わなかったが、郁人は真剣に考えている。白い運動靴の外側に泥がついており、自分の靴を見ると同じ箇所に泥がついていることに気づく。こんなとこまで似なくていいのに。
「ハンバーグじゃない?」
郁人はしばらく考えていたが名案のように声をあげた。
「ハンバーグか。ちょっと練習しようか」
「そうだね。おとーさんのハンバーグときどきこげてるから、にがいし」
確かに僕の食事はよく焦げるか、生焼けが多い。何年料理をしても大雑把は治らない。野菜も均等に切れないし、千切り、薄切り、桂剥きなんて無理に等しい。
「たまねぎのみじんぎり、いっぱいれんしゅうしよう」
郁人はそう言って、歩道を走った。
「おい、飛び出すなよ」
声をかけてその背中を追いかける。
 お互い髪の毛が伸びた。また一緒に散髪にいくと同じ髪型にされてしまう。ちょっとずらそうか。
 郁人のぴょんぴょんと跳ねる後頭部の髪の毛を見つつ、通りの向こうに街路樹のイルミネーションに明かりが灯された瞬間が目に入った。青白いLEDの電飾が不規則なリズムで点灯し、トナカイやサンタクロースがハリガネで象られた物もある。緑のアーケードが見えた。入り口には緑と赤のオーナメントや旗にメリークリスマスと書かれている。その二つが空っ風に吹かれ、なびいている。
「寒いな。郁人、明日ハンバーグで土曜日もハンバーグでいいか?」
「おっけー」
着ていたグレーのパーカーのポケットから携帯を取り出して、目当ての彼女にメッセージを送る。名前を視界に入れるだけで嬉しくなる。頬に当たる風はどんどん冷たくなる季節だが、僕の心はゆっくりと暖かいもので満ちていくようだった。


 ハンバーグの材料を買って、店に帰ると店前で奈良崎が立っていた。
「よう」
切れ目で僕を一瞥すると、威圧感漂う声を出して手を挙げた。スーツにジャケットを着ている。履いている革靴は履きつぶしているが綺麗に磨かれている。
「よう、どうした」
扉を鍵で開けると、奈良崎は僕より早く店に入った。
「営業でちょっと近くに来たから。顔出した。元気か? 今日、寒いな」
彼はポケットからタバコを出し、火をつけた。
「寒いな。この前、霙、降ったな」
そう言うと、奈良崎が煙を吐いて、僕を見た。
「なんだよ」
その不躾な視線に眉を寄せる。
「いや、史悠が天気の話をしてきたから、驚いた」
「天気の話ぐらいするよ」
奈良崎は、くくく、と小さく笑った。
「それはいい事だ。無自覚なのが1番」
「何がだよ」
聞き返すと、お前天気の話嫌いだろ、とくに雨、そう言って自分の左瞼を指差した。
あ、そうだったな、と他人事のように思った。そうだ、憎くて怖い雨の話を今なんでもないようにした。
「あのカッコいい子のおかげか?」
そう言えば奈良崎にはことちゃんにおっさん呼ばわりされた情けない姿をバッチリ見られたんだったな。
「佐原麻琴って名前」
僕が言うと、奈良崎は眉を上げて、へぇ、と呟いた。タバコの灰が落ちそうだ。
「灰皿持ってる?」
聞くと、彼はポケットから携帯灰皿を出した。
「お前、タバコやめたんだ?」
奈良崎は、灰を灰皿に落とした。
「うん、百害あって一利なしって」
そう呟いて笑うと、奈良崎はタバコを灰皿に押し付けた。
「そりゃいい事だな。いい言葉だな。百害あって一利なしって。有無を言わせない感じがして。俺はまず、電子タバコに変えるか。禁煙はいつでもできる」
「だいたいやめられないやつが、いつでもできるって言う」
「いや、俺は違う」
持っていた買い物袋を小上がりの畳に置いた。
「次会う時が楽しみだな。禁煙した奈良崎になってるか?」
「まあ、楽しみにしとけよ。しかし、花はすぐに変わるな。赤い花とか。クリスマスツリーっぽいこの木なんだ?」
切れ目の視線の先を追うとゴールドクレストを見ていた。
「ああ、ゴールドクレストって苗木だな。地植えするとどんどん大きくなるから、プランターに植えた方がいいぞ」
「ふーん。じゃあ、一つ買ってくわ」
あ、買うんだ。
鉢植え用のビニール袋を出し、植木鉢を入れた。袋を奈良崎に手渡す。
「これ、独特の匂いがするな」
高い鼻を木に寄せて、眉をひそめた。
「葉っぱを潰したみたいな、匂いするよな」
奈良崎は代金を支払って、じゃあ、と背を向けた。
 本当に顔を出しただけだったのか。僕がカウンターの中で彼の背中を見送ろうとすると奈良崎は静かに背を向けたまま言った。
「史悠、ちゃんと笑えるようになったな」
その言葉に返事はしなかった。そのかわり、次に彼が禁煙に失敗していても、バカにしないでおこう、と思った。



 乾燥した風が冷気を持って、アーケードの下を駆け抜けて行った。枯れ葉とゴミを連れ大通りの方向に向かったかと思うと、渦を巻いたように店の前で止まったので、それを拾い上げてゴミ箱に捨てた。
 辺りは陽も沈みすっかりと黄昏時だ。
 日の入時刻が早まって、冬至がどんどんと近づくことで冬の訪れを感じる。冬は秋の訪れと違って容赦ない。太陽は早く撤退し、気温は下がり、風は鋭さを増す。そして、唐突に視界を真っ白にする雪が降り始める。
 店先の切り花と植木鉢を店内に片づけていると声を掛けられた。
「こんばんは」
可愛い声に嬉しくなって、振り返る。小走りで線の細い、オレンジのセーターに紺色のロングコートを着た女の子が向かってきた。
「こんばんは」
返事をすると、小さな口がキュッと上がり、頬も一緒に動いた。
「あぁぁぁ! まこっちゃぁぁぁぁん!」
郁人が待ち構えていたかのように店の中から飛び出して彼女に抱きついた。彼女はその勢いで少しよろめく。
 子供はいいな、ってそんな事、口には出せない。
「郁人くん、こんばんは。今日は一緒に晩ご飯食べようね」
「うんっ! これ、またあそこのわがしやさん? こしあん? こしあん?」
「こしあんあるよ。なんと今回はいちごも入ってるよ〜」
「えぇぇぇ! やったー、やったー」
ことちゃんの手に握られていた紙袋を見て郁人は踊り出した。踊り出すほど嬉しいのか。我が息子ながら表現がストレートで笑える。
「こら、郁人! 嬉しいのは分かる。けど、そんな変な踊りはするなよ」
そんな踊りどこで覚えたんだ。バルーンジャーはそんな変な踊りはしてなかったぞ。
「おとーさんもうれしいくせに〜いっしょにおどる?」
「嬉しいけど、踊らない」
僕は笑って、店のシャッターを内側から閉めた。
 店の扉を閉めて鍵を掛けると、急に店内が狭く感じるが、ことちゃんが居るおかげか店内の照明がいつもよりも明るく感じられた。
 ことちゃんは小さな笑い声を出しながら郁人を見ている。
 彼女の手に持たれた紙袋に視線を移した。
「ことちゃん、気を使わなくていいのに。それ、冷やしといた方がいいの?」
手を差し出すと彼女が紙袋を渡して来た。彼女の指が触れて、外の気温を知る。手を握って温めたいと思う感情が浮かび、笑って誤魔化した。
「おとーさん、にやにやしてるぅ〜」
郁人にはバレたみたいだ。そんなに分かりやすかったかな。
「だから、にやにやじゃなくて、ニコニコって言え」
僕は紙袋を持って、部屋に入った。
 二人がすぐに入って来ないので振り返ると郁人がことちゃんの耳に口を寄せて内緒話をしている。二人の方が恋人みたいに仲良く顔を見合わせて笑っている。
「なに、また二人で楽しそうだな」
その様子を微笑ましく思う。ずっと見て入れそうな気がする。二人を手招きして呼んだ。
「中にどうぞ。今日はハンバーグにしてみた」
「あ、手伝います」
ことちゃんは靴を脱いで、部屋に上がって後に郁人が続いた。
「いいよ。ことちゃんお客さんだし、郁人と遊んでくれてたら」
ベージュのエプロンを脱いで、部屋の入り口のフックにぶら下げる。
「あ、ボタン」
彼女はとっさにそう言って手を差し出した。僕の左のボタンが取れて、落ちて、彼女の手にストンと収まった。
「すごぉい! ナイスキャッチ!」
郁人が喜んで彼女の手の中を覗き込んだ。ボタンが取れ掛けていたのには気づいていたが、そのままにしていた。裁縫は苦手で見て見ぬ振りをしていた。郁人の通園バックや雑巾も、裁縫を必要とするものは購入していた。
「よかったら、ご飯作ってる間にボタンつけときましょうか?」
ことちゃんはそう言って、ボタンを持った手を軽く上げた。
「じゃあ」
僕は服を脱いで、服は着てたから臭いかな、とか、ちょっと消臭剤でも掛けようかなんて思っていたら郁人が声を上げた。
「おとぉぉさんっ、じょしのまえでふく、ぬいじゃいけないんだよっ」
ことちゃんは僕の方から目を逸らして、小さく笑っていた。
「そ、そうだな。それは郁人が正しい」
返事をして、シャツを置いて、奥から適当に服をとって身につけた。
「それ、着てたから、汗臭いかも。ごめん、あんまり顔近づけずに、袖だけ持ってお願いします」
洋服タンスの上に置いた、裁縫道具をとる。埃が手について、少し空中を舞った。六年分の時間を握りしめた埃。その間、主人不在だった道具。
 裁縫道具の埃を払って、食卓に置いた。こんな物で繕ってもらうなんてちょっと申し訳ない。
「それ、亜沙妃しか触らなかったから」
そう言うと彼女は軽く首を振って、裁縫箱の淵の埃をゆっくりと払った。立ち上がり、仏壇の前に正座で座った。
「お邪魔してます。お借りします」
亜沙妃に話しかけて、目を閉じた後、手を合わせた。
 その様子に僕は泣きそうになった。ボタンだけじゃなくて、僕の解けてしまった心さえも繕ってくれるその行動に彼女の強さと優しさが凝縮されているように見えた。
 彼女にとっては大した事ではなかったかもしれないが、僕は自分の人生が肯定されたようにも見えた。
 彼女が仏壇に手を合わせてくれたのは初めてではない。何度もその行動を僕は見た事があった。その時はただ単純に礼儀正しい子だな、とか育ちがいいんだな、ぐらいにしか思っていなかった。それももちろん彼女の要素ではあるのだが、彼女はそれだけでなく、人の気持ちを拭ってくれようとしていた。それが彼女の美しさであり、強さの元だったのかもしれない。
「まこっちゃん、ボタンおわったら、いっしょにブロックしよ〜、なつやすみになかったやつ、おばあちゃんにかってもらったんだ〜」
郁人の声で我に返った。
「オッケー」
彼女は郁人に返事をして裁縫箱を開けた。郁人がブロックを取りに背を向けた。
「ことちゃん、今日は来てくれてありがとう。会えて嬉しい、ご飯作るから待ってて」
愛しさのあまり最後に、愛してる、と呟きそうになった自分を何とか抑えて、キッチンに向かった。
 ハンバーグは予め軽く焼いて置いたので、後は焦げないように温めるだけだった。コンロの火を着けて、冷蔵庫の中に準備していたサラダを出す。
 火加減を気にしながら、ひっくり返し、自分の分のハンバーグに箸を刺して火の通りを確認する。
「できた」
後ろからことちゃんの声がして、振り返った。ボタンが付いているか引っ張って確認している。
コンロの火を消す。
「こっちも出来た」
サラダを運ぶ。ことちゃんも立ち上がって準備を手伝ってくれた。
「あ、おれも、てつだう」
郁人もキッチンからサラダを運び、ドレッシングとコップと箸を順番に渡す。
必要なものを食卓に揃えた所で三人で座った。
「おとーさん、ハンバーグこげてないね」
「おう」
「よかったね。れんし「じゃあ、食べるぞ」
余計な事言うなよ。僕は声を出して彼の言葉を遮った。
郁人は笑っている。
「え? 郁人くん何か言いかけた?」
ことちゃんが郁人を見た。
「れんしゅふがっ」
僕は郁人の口を塞いだ。
「いいから。その話は、いいから。ご飯食べよう」
ことちゃんは話し声より少し高い声で笑った。耳に笑声が優しく響く。
「も〜」
郁人は声を出して僕を見ていたが、知らないふりをする。
 その時、携帯の着信音が鳴った。
「でんわだよっ、まこちゃんなってる」
彼女の電話が鳴って、彼女は僕に断りを入れて電話に出た。電話口から低い声が聞こえた。男の声だ。話はすぐに終わったが、明日の話をしていた。
「すみません、夕食前に。せっかく準備してくれたのに冷めちゃいますね」
ことちゃんは電話を切って、食卓に着いた。手を合わせる。僕は彼女の顔をじっと見つめた。
「今の誰?」
聞きたくないけど、聞いておかないときっと気になって仕方がなくなる。
「職場の人です。春香――ー、前に店に連れてきた子と同じ職場で働いている人です」
彼女はあっさりとそう言って、興味はもう食事に移ってしまっているようだった。手を合わせたままその姿勢を貫いている。
「あ、仕事場の人。そっか、低い声が聞こえたから」
「あ、男の人ですけど、友達です」
友達か、とその言葉を飲み込んで、そっか、と言い手を合わせた。こっちが友達だと思っていても、あっちはどう思っているか分からない、と手を合わせないと言ってしまいそうだった。
「じゃあ、食べようか」
「「いただきます」」
郁人はサラダも残さず全部食べた。食事が終わった後、郁人とことちゃんは二人でブロックをしており、僕は食器を片付けた後、店の中の片付けをした。
 片付けをしていると、窓に小雨が線を引き始め、天気予報を思い出した。週末にかけて天気が崩れる。天気予報は当たった。
 片付けを済まし、パソコンを開くともう時間は八時になっていた。楽しい時間はあっと言う間に過ぎてしまう。今度は何を口実にことちゃんを誘おうかと考えて、もう想いを伝え合ったから口実は要らないのではないか、と当たり前の事に気づく。
「雨ちょっと降ってきたみたい。いつの間にか八時がきたね」
「え〜まこっちゃんかえっちゃうの〜つまんない〜」
二人の会話が小上がりの畳から聞こえて、僕はパソコンを閉じ、声の方向に向かった。
 次は普通に予定が合う日だけ、決めればいい。
 靴を脱ぐと、ことちゃんの様子がおかしかった。前屈みになり、両手を握りしめて胸のあたりで少し震えている。
「まこちゃん?」
「まこちゃん?おとぉぉぉさぁぁん! まこちゃん、しんどそうっ!」
郁人の声に、畳の部屋をすぐに登った。彼女は右手で自分のカバンの方へ手を伸ばした。僕はすぐにそのカバン取った。すぐに彼女に差し出す。彼女はカバンから手のひらに乗るぐらいの小さな機械を出して指に挟んだ。機械の画面には120と数字が出ている。
 彼女はその数字を見て、眉を顰めた。すぐさま深呼吸をして、数字を睨むように見ているが数字は3桁を表したままだった。隣で98%という数字も点滅している。僕にはその数字の意味がよく分からなかったが、彼女の様子が只事ではないことは分かった。
 透明感のある顔の肌が青ざめていく。
「ことちゃん?大丈夫?顔が真っ青だ。病院行く?」
彼女の背中に触れて、問うと彼女は頷いた。携帯を自分で持って病院に連絡している。
僕は車の鍵を持って、郁人に声をかけた。
「郁人、一緒に病院行くぞ」
「うんっ!」
ことちゃんの肩と腕を持って、家を裏の玄関から出た。
 雨の音がして、軒先から雨の雫が滴っている。
 小雨だった。
 これぐらい濡れても別にいい。彼女を早く病院に連れて行かないと、苦しそうだ。
 彼女は何か言いたげに僕を見ていたが、息がしんどいのだろうか。顔が青白い。助手席の扉を開けて彼女を乗せて、郁人は後ろに乗り込んだ。
 エンジンを着けて、車のライトを灯した。雲はないが雨が降っている。雨が白く光って、どこか見えない所に走っていくようだった。その雨脚を追いかけるようにアクセルを踏んだ。
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