第2話 五月雨 ―史悠side―

文字数 11,858文字

 雨が僕の肩を濡らして、地球の引力に引き寄せられて落ちる。
 一瞬、一滴、一粒を集めて、雨は液体の塊となって、足元まで流れていく。昔は雨を美しく感じていた。季節に伴った空気を纏っていて、家の中でも、軒先でも、自然の中でも、雨音を聞く度に穏やかで幸福な気持ちに包まれた。
 今はその雨が姿を変えてしまったことが、ただ哀しく、心から憎らしい。雨の一瞬、一滴、一粒、全てを握りつぶしてこの視界からなくしてしまいたいほど。


 テレビの電源を入れると、気象庁がこの町の梅雨入りを発表した、とアナウンサーが告げた。その言葉に不快な気持ちが広がった。季節上、仕方がないとは言え、不快で嫌悪を隠せないのはどうしようもない。ゆっくりと仏壇の中の亜沙妃の顔を見る。こうして彼女の顔を正面から見られるようになったのはここ一年前ぐらいだ。それまでは写真は仏壇にも部屋にもどこにも飾ってはいなかった。
 ママのかおがみたい、そう郁人が言ったのは去年の春だ。年長の学年に上がったお祝いに何か欲しいものがないか、と僕が聞いたら、彼はそう答えた。僕は郁人がその言葉を発するまで、母親の顔を自分の息子にまともに見せて居ない事に気が付いた。父親失格だ。自分が亜沙妃の死をなかなか受け入れられない気持ちばかりを優先し、息子の気持ちが見えていなかった。郁人はそれまで、亜沙妃のことを積極的に聞いてきたことはなかった。
『ママすっごく、かわいいね』
写真を見たとき、郁人は亜沙妃と同じ顔で笑った。僕は思わず泣いてしまったのだけれど、息子はなんでもないようにケロッとして、
『おとーさん、なんで泣いてるの?』
なんて言われてしまった。亜沙妃が亡くなった時、郁人は一歳だった。母親の記憶がなくても当然だ。六年前になる。郁人は七歳になって、小学生になった。
「おとぉぉぉぉさん! は、や、く! あさごはん!」
郁人は制服に着替えながら声を上げた。
「はーい、ちょっと待て。今作るから」
テレビの電源を消して、キッチンに立った。
亜沙妃が居なくなって僕の生活は一変してしまった。それまで、料理なんてまともにした事もないから物の場所も分からないし、ましてや一歳の子育ても彼女が中心だったから本当に手探りだった。
 パンを焦がさずに焼き、朝の食事に目玉焼きやソーセージやコーヒーが当たり前に登場することは当たり前では無くなってしまった。
「おとぉぉさん! おれ、たまごはぐしゃぐしゃのやつね」
「はーい、了解」
郁人は小学生になったら、おれ、と言うようになった。周りの友達の影響だろうか。去年までは自分で、いっくんはね、なんて自分のことを呼んでいたのに子供の成長は目を見張るスピードで進んでいく。まるで、僕一人が六年前に取り残されているように感じるぐらいだ。でも、確実に時間は過ぎている。最近、自分の目尻にシワが目立つようになった。これは親父そっくりだ。あと、白髪。髪型は客商売上、清潔になるように気をつけてはいるが、どうしても年齢的に白髪が出てくるようになった。
 卵をかき混ぜて、フライパンに入れてまたかき混ぜる。半熟で火を止める。ソーセージをその横で焼く。パンはすぐに焼きあがった。一つの皿にまとめて乗せて食卓に運ぶと、食卓の下からくしゃくしゃになったプリントが顔を出した。拾うと、授業参観のお知らせ、と書いてあった。
「おい、郁人。これ、お父さん見てなかったぞ」
「え、それ、おとーさんにちゃんとみせたよっ! そこおいといてっていってたもんっ」
プリントのシワを伸ばして日付を確認する。七月の第一週の火曜日だった。ちょうど定休日だ。
「お父さんこれ行くからな。先生にちゃんと言っとけよ」
郁人は半熟卵を食べながら、いわなくてもいいんだよぉ、と返事をした。プリントをカレンダーの横にテープで貼り付けようとして前のプリントが床に落ちてくしゃくしゃになっているのを発見した。
「あ、」
声を上げて落ちていたプリントを拾う。
置き傘の購入依頼の手紙だった。
「あ〜しまった〜忘れてた〜」
頭を抱え、そのプリントを机に置くと、郁人はパンを食べながら言った。
「きょう、あめふってないからセーフ」
我が息子ながら切り替えの早さ尊敬に値する。
僕と違い、人見知りもしないし、友達もすぐにできる。こう言うところは亜沙妃によく似ていた。僕はどっちかと言うととっつきにくいタイプみたいだ。気軽に話しかけられることは少ないし、話しかけられたとしても視線がなかなか合わないことが多い。僕が何か言おうとしたり、しようとしたりすると初対面の人は少し遠慮気味だ。そんなにとっつきにくいのだろうか。笑顔を意識してはいるが、中々すぐに打ち解けられない空気でも出ているのだろうか。
「おとぉぉぉぉさん! きょうはどこに、おはなもっていくの?」
郁人はもう朝ご飯を食べ終えていた。時計を見る。
「おい、もう時間だぞ。早くランドセル持って、とりあえず傘も持って、学校!」
郁人はランドセルを背負って、店先に向かう。僕も一緒に店に出て、店のシャッターを片側だけ開けた。
「じゃあ、行ってらっしゃい。気をつけてな」
「いってきまぁぁぁあす!」
流行りの戦隊モノの決めポーズをして小走りで郁人は学校に向かった。食卓に戻って朝ご飯を食べ、片付けをした。カレンダーの下の棚に置いているサインペンを持って手の甲に「置き傘」とメモする。
 店先に出て、菊、桔梗、リンドウ、と呪文のように花の名を繰り返し一つの水の入った器に切り花を集めた。一般的に仏花と呼ばれる類の花だ。
三回忌の仏花との依頼だったので、そこまで派手な花は選べない。でも、季節の花は少し取り入れたい、と店内を見回した。カーネーションが目に入ったが、赤と黄色とピンクが鮮やかな色を主張している。僕は首を振ってやめて、アナベルを見つめた。一昨日、市場で仕入れてきた花弁が丸く密接して纏まった上等なものだった。それを2房取り出して、切り花の先を見る。丁寧に切られており、十字カットもされている。水持ちも良さそうだ。これにしよう。仏花の仲間にアナベルを添えて、器を持って店の裏に駐車している白の軽ワゴン車に向かった。花を後部座席に乗せて、家と店の戸締りをした。店はシャッターを片側だけ開けて、扉の鍵をかける。カウンターからメモを取り出し「外出中です、十時には戻ります」と書いて貼っておく。
 店の奥は自宅で、裏は駐車場になっている。駐車場に向かう。車に乗ると空が見えた。梅雨入りしたとは思えないぐらいの晴れた空だった。このまま、この天気が続いてくれればいいのにな、と思いながら車のエンジンを入れた。


 式場で仏花のセッティングをした後、すぐに店に戻った。時計は九時半をさしていた。店を開ける前に商店街の雑貨屋に黄色の学校指定の傘を買いに行った。
「おはようございます」
店の奥に声をかけた。
多々羅屋と書かれた店には鍋や食器、文房具、傘など大体の雑貨が置いてあり、品揃えが豊富だ。下手なスーパーに行くより日用品は揃っている。何に使うのか分からない、かなり大きな銅色のやかんも置いてある。
「ああ、山瀬くん、おはよう」
店の奥から白髪で銀眼鏡をかけた多々羅さんが返事をした。見ていたタブレットを置いた。
「最近は新聞もこれで見られるから、便利だね。文字なんかさ、二本の指で広げるとどこまでも大きくなって、老眼にはありがたい話だよ」
「確かに便利ですよね。でも、うちにそれ置いとくと郁人がゲームばっかりするんで、もううちは禁止にしました」
多々羅さんは、頷いた。
「確かに大人が夢中になるのに、子供が興味ないはずないもんね。で、何買いに来たの?」
ああ、そうだった傘を買いに来たんだった。
「学校指定の傘を一つ」
僕がそう言うと、あれ?と多々羅さんは首を傾げた。
「この前、買ったばかりじゃないか。もう郁人くん傘、壊しちゃったの」
男の子だもんねぇ、と呟く。
「あ、違うんです。置き傘用なんです。梅雨に入ったから、学校に置いとけって、プリントもらってたの忘れてて」
僕は頭をかきながら言った。多々羅さんは、よいしょ、と掛け声を出して立ち上がった。
「もう梅雨入りか〜傘を店先に出しとかないとな。指定傘はもう出してるよ、そこ」
僕が立っている反対側の入り口を彼は指差した。僕はそこにあったのか、と傘を手に取る。
「男手一つだから、大変じゃないかい?」
何十回このセリフを聴いてきただろう。もう思い出せないぐらい、言われて慣れてしまったセリフだ。僕は財布を出しながら、ゆっくりと返事をする。
「もう、慣れましたよ」
自分に言い聞かせるようにその言葉は響く。慣れたんじゃなく慣れるように努力している。三人で暮らしていたであろう未来を想像しないように、最初から二人であったかのように、平気なふりをして暮らしている。そうすればいつか本当に平気になって、心穏やかに過ごせる日が来るかもしれない。僕はそうやって、郁人と一緒に暮らしてきた。これからもそうやって暮らしていく。
「傘、ありがとうございます」
僕は自分がちゃんと笑えているか不安になりながら、傘を持って、多々羅屋を後にした。自分の店に向かう。時計を見ると十時十分前だった。店側から鍵を開けて、シャッターを全部開けた。店の外に少しだけ手頃な切り花と植木鉢の花を並べる。ここは駅前だから昼前になると人通りが増えて、手頃な花たちは見初められて購入されていく。
 開店準備をした後に順番に切り花の水を交換し、植木鉢の花と観葉植物に水をやっていく。最近は花言葉をつけると売れ行きが伸びるとネットに書いてあるのを発見したので時間があれば花に名前と花言葉をつけるようにしている。一昨日、入荷したアナベルと紫と水色とピンクのアジサイの鉢植えに花言葉を添えよう。僕はペンを持って、表示板に花言葉を書き込む。アジサイは色によって花言葉が違う。それもアジサイの一つの魅力だ。花は見た目だけでなく、香り、手触り、色、そして季節をも感じさせてくれる。植物だが生きている。僕はこの店を祖父から継いだ。彼はよく言っていた。生きている限り理由がある、そして見えているものだけではなく、歴史もある、と。今の僕にはその言葉はあまりにも重く感じる。
「あの、すみません」
女の人が立っていた。
「はい」
僕は返事をして立ち上がった。彼女に近づく。僕と同世代ぐらいだろうか。髪の毛は長く、茶色に染められており、体の曲線にそった薄手の長袖のセーターとジーンズを履いていた。
「あ、あの。友達へのお祝いで、花束ってお願いできますか?」
彼女は僕の顔を見るとパッと視線を逸らしてしまった。まただ。僕の左の瞼の傷を見てから目線をそらすならまだしも、目も合わないうちからそらされるのは結構、傷つく。
「はい、大丈夫ですよ。花を送られる方はどのような方ですか? また、何のお祝いですか?」
なるべく感じ良く聞こえるように気をつけて話した。女性は顔をパッとあげて僕を一瞬見た。
「えっと、結婚のお祝いなんですけど、年は私と同じぐらいで。彼女、黄色が好きです」
一気にそう言うと少し頬を赤くして下を向いてしまった。
「分かりました」
返事をして、店内にあるベンチ椅子を示した。
「どうぞ、ここにお掛けになってください」
彼女は再び僕の顔を見るとすぐに視線を逸らして、はい、ありがとうございます、と言って椅子に座った。僕は切り花を見つめた。
結婚のお祝い。出来るだけ華やかな方がいいだろう。
「すみません、予算はどれくらいですか?」
僕は花の方を見たまま彼女に聞いた。
「三千円ぐらいで考えてます」
ふむ。
「それって、花束じゃないとダメですか?」
僕の質問が、的を得てなかったようで、彼女は頭に? を浮かべていた。
「あ〜、すみません。質問が悪かったな。せっかくのお祝いなんで、生花じゃなくって、プリザードフラワーも置いてるんですよ、そっちはどうかな、と思って」
僕は観葉植物の鉢の横の棚から黄色のカーネーションと白のアジサイ、カスミソウ、ミモザの入ったプリザードを手にとって彼女に見せた。
「わぁ、可愛い」
気に入って貰えたようだ。
「あの、可愛いんですけど、彼女、生花も好きなんです。マメな性格なんで、手入れもすると思うんで、よかったら生花も一緒に送りたいんです」
僕はプリザードを一旦カウンターに置いて、鉢植えの中からマトリカリアを手に取った。
「この花は長時間持ち歩くとすぐに萎れてしまってブーケには向かないんですが、ちょうど季節のものになります」
彼女は、小さくて可愛い、と呟いた。
「名前はマトリカリアと言います。ウエディングによく使われる花ですよ。花言葉は集う喜びです」
「集う喜び。私たちにぴったりです。高校の同級生四人で今日は集まって祝う予定だったので、それにします」
プリザードフラワーは黄色の包装紙で丁寧に包装して、リボンをつけて紙袋に入れた。マトリカリアは鉢植えなので受け皿をつけてビニール袋と下に厚紙を入れて、透明な飾り袋でラッピングした。
「男の人しかいない花屋って初めてで、店員さんがイケメンで緊張したけど、ここにしてよかったです」
お世辞まで言ってくれて、僕は嬉しくなった。
「ありがとうございます。よかったら名刺もお渡ししておきますね」
僕は手をタオルで拭いて、カウンターに置いてある名刺を渡した。この店の名前と電話番号が書いてある。
「また、機会があればよろしくお願いします」
頭を下げてお客さんを見送った。彼女は上機嫌で駅の方に向かった。僕は満足して貰えたみたいで、よかったと胸をなでおろした。


 明け方頃から家の屋根に雨音が響くようになり、その音で僕は目を覚ました。枕元の携帯を見ると午前五時過ぎだった。上半身を起こし、目を細める。カーテンと窓の間からは薄明かりが差していた。
 頭が痛い。雨が降る音が耳に入ると、落ち着いて寝られなくなり、ズキズキとした痛みが頭の中で疼き出す。
「もぉぉぉいいってばぁ」
横の布団で郁人が掛布団から片足を出してよくわからない言葉を発した。僕は薄く笑って、布団をかけ直した。
起き上がる。部屋を雨音と湿気が包んでいる。重くて陰湿で見えない湿度が全身にまとわりついてくる。
 痛み止めを飲もうと、僕はキッチンに向かった。キッチンの窓には細かい雨が線を引いたように跡を残して降っていた。薬を口に入れて、水で飲み込む。飲んでも雨が止まない限り、僕のこの頭痛は止むことはない。でも、飲まないとこの痛みに負けそうになる。コップを持つ手が小刻みに震えている。反対の手で震えが収まるように抑えてみると一旦震えが止まった。しかし、手を離すとまた震え出す。
 この症状は年々酷くなるばかりだ。六年も経つと言うのに。亜沙妃との記憶はどんどん薄れつつあるのに、嫌な記憶は中々消えてくれない。

 雨は夕方まで一定の小雨で降り続いた。郁人の迎えのために店の入り口に張り紙をして、鍵をかけた。小学校まで徒歩で十分と近いが、雨の日は必ず車で迎えに行く。
「おとーさん、きょうずっとあめだね」
学童のお迎えに行くと、郁人は少し声を潜めてそう言った。友達の前では少し照れるのか僕の事をあまり大声では呼ばない。
「うん、そうだな。宿題できたか? 続きは家に帰ってするか?」
「うんっ、する! きょうのばんごはんはなに?」
「今日は、野菜炒め」
「えーっ! ピーマンはいらないよぉ」
「ピーマン食べないと大きくなれないぞ」
雨に濡れないように、素早く白の軽ワゴンに乗り込む。お迎えに来ていた別の子のお母さんとすれ違い軽く会釈した。
「あ、りいちゃんのママだ」
郁人はそう言ったが僕にはりいちゃんが誰か分からなかった。
「同じクラスの子?」
「そうそう、パパがいないこ」
パパがいないこ。郁人の声が胸に刺さる。じゃあ、郁人は学校でママがいないこ、なのだろうか。聞きたい、けどなんだか怖くて聞けない。
「そうか」
僕は短く相槌を打って、車を家に向かって走らせた。


 家に着くと時計は夜の七時半を過ぎていた。雨だからか道が少し混んでいた。車を止めて、家に入って、洗面所に向かう。
「おい、郁人、帰ったら、まず手洗いうがい」
郁人はすぐにランドセルを玄関に投げて、テレビを見ようとしている。
「こらっ、待て」
僕はその背中を捕まえる。
「いくっ、いくって。おとぉぉぉさん、いくかーらー」
手を離すと少し不満顔を浮かべて洗面所について来た。一緒に手を洗う。
「よっし、スーパーせんたいバルーンジャーみていい?」
僕が、いいぞ、と頷くと同時に、やったぁぁ、と踊りながらテレビをつけに行った。僕はキッチンで夕食の準備をして、炊飯器のご飯のスイッチを押した。
夕食の準備がひと段落したところで、郁人に声をかける。
「お父さん、店で片付けしてるからな」
店先に出て、店の外に出していた花を店内に入れる。シャッターを半分下ろす。ショーケースの電気を消したところで小さな悲鳴が聞こえた。
「ん?」
郁人が見ていたテレビかと思ったが、視界の中に商店街のアーケードの入り口にまるでマンガのように転けた人物を捉えた。うわっ、結構派手にこけたな。
とっさに、走って駆け寄る。艶のある髪を1つにまとめた女の子が下半身を引きずりながらアーケードの中に避難していた。
「痛い〜」
絞り出すような声を出して、真っ赤な顔で自分の右膝を見ている。
「だ、大丈夫ですか?」
彼女はなんとか雨に濡れないようにアーケードに移動していた。僕はアーケードの縁から滴り落ちる水滴を見て不快な気持ちを抑えつつ、ポケットの中に手を入れた。
「これ使ってください」
ハンカチを差し出す。
「だ、大丈夫です」
彼女は肩に雨を少し乗せたままそう言って、僕の腕を見た後に素早く顔を見つめた。
あ、初対面で目を逸らされなかった。むしろ彼女は食い入るように僕を見ている。ひょっとして面識があるのだろうか。思い出せない。
「これ、使ってください。洗濯してあります」
僕が差し出したハンカチは少し震えていた。自分の肩にも雨が直接あたりそうだった。
「ありがとうございます。お借りします」
彼女はそう言って、ハンカチを素早く受け取ってくれた。傷口にハンカチを当てている。
線が細い子だなと思った。鼻筋が通った顔に全体的に顔の作りが小さい。大人しそうだけれど、芯がある雰囲気を感じた。伏せたまつ毛が長い。髪をまとめているため耳もよく見える。耳も小さい。首筋のうなじを見て、思わず見とれてしまった。若い女の子のうなじを見たのなんて何年振りだろうか。そう思って我に返った。おっさん思考丸出しじゃないか。
「僕、そこの山瀬生花店の山瀬と言います。良かったら傷口洗って行かれますか?」
僕は手を差し出した。決してやましい気持ちではなかったが、起き上がる時に支えになればと思ってのことだった。彼女は僕の左瞼を凝視していた。僕は手を引いた。
「あ、この傷はちょっとした事故で。ヤクザとかそんな傷じゃないんで、正真正銘の花屋なんで」
ベージュのエプロンに印刷された山瀬生花店の表示を見せる。彼女はその表示をまた食い入るように見つめた。怪しいかな。
「おとおさぁぁぁん!」
郁人が大きな声を出して、走って来た。
「郁人! なんだよ。今、このおねーさん怪我してて……」
店のサンダルを履いて来たみたいで足音がパタパタと鳴り響いた。
「おとぉぉさん! さっき、やさいいため、火つけっぱなしだったよ!」
「え、うそ、待って、ちょっとっ」
火を消したはずなのに、まさか忘れてたのか、やばい。
僕は家に走って戻った。
「やばい、やばい」
小さく呟きながら急いで店の奥のキッチンに向かう。火は消えており、野菜炒めは特に焦げ付きもなく、無事だった。
「なんだよ、大丈夫か、良かった」
一安心して、僕は頭をかいた。急ぎ足でさっきの場所にUターンしようと店をでる。
「おい、郁人! 火、消えてたぞ」
郁人はさっき転けた女の子の腕を引いて、店に向かっていた。
「だから、おれがけしたって言いに来たのに、おとーさんが走ってったんだよ」
なんだ、そっか。郁人が消してくれたのか。
「そっか、ごめんごめん」
僕は彼の頭を撫でた。年々、位置が高くなる頭。そっか、そんなことも出来るようになってたのか。
 女の子は郁人に腕を引かれたまま僕を見た。姿勢を正している。僕も姿勢を正す。
「えっと、すみません。僕は山瀬史悠と言います。良かったらここで傷の手当てしていきませんか?」
「おねーちゃん、いたいの早くなおそうね。おれ、郁人」
我が息子ながら適応力の高さに驚く。それにしたって人懐っこすぎるのも考えものだ。
「こら、郁人。ちゃんとはじめましてって挨拶しろっ」
郁人の頭を抑えて頭を下げさせる。女の子はその様子を見て小さな口を笑わせた。僕の一回りぐらい下かな。二十代前半ぐらい。肌も透明感があって、年齢の差を感じさせる。
「はじめまして、私は佐原麻琴と言います。じゃあ、お言葉に甘えて、洗わせてもらっていいですか?」
「まこっちゃんだね、まこっちゃん!」
郁人は嬉しそうに笑って、名前を呼んだ。このコミュニケーションスキルの高さには本当に感心する。
佐原さんを手招きして店に案内した。
「どうぞ、どうぞ。閉店準備してて、ちょっと花が散らばってますけど」
店の床には切り花の器が通り道を狭くしていたため、足で避ける。カウンターの棚の救急箱を目指す。店のベンチ椅子を指差して、彼女に座るのを勧めた。
「郁人がよく怪我するから、消毒液はいっぱいあるんですよ。ちょっと待ってくださいね」
救急箱を見つけて、消毒液を出してガーゼにつける。佐原さんの足を見ると傷口から血が流れ落ちている。あ、先に洗った方が良かったかな。
「先にちょっと洗いますか? 郁人、風呂に案内してやって」
「分かった、まこちゃん、こっち!」
郁人は、任せて、とドヤ顔を浮かべて彼女の腕を引いて家の中に連れて行った。
この家に親族以外の女性が入るのは本当に久しぶりだった。女性、と言ってもだいぶ年下の怪我した女の子だ。笑ってしまう。おっさんが何考えてんだ。
 ベンチ椅子にショルダーバックを見つけて、僕はカバンと救急箱のセットを持って家に入った。もう家の中で手当てをしてしまおう。僕が小上がりの畳を登って、居間に入って声をかけた。
「佐原さん、消毒液をーーー」
彼女は左膝を曲げて、右膝をなるべく伸ばしたアンバランスな座り方で亜沙妃の仏壇に手を合わせていた。
「っきゃ、ちょっ」
僕が声をかけたことでビックリしたのか彼女は前に転がってしまった。彼女のスカートの中のピンクの下着が見えてしまった。
僕は思わず動揺した。女の人の下着なんてもう何年も見ていない。気まずい。
「まこっちゃん、おっかし〜。パンツ見えたし」
こんな時、子供は無邪気だなと思う。
「こら、郁人、笑ったら失礼だろ」
思わず、郁人の頭を叩いた。でも僕も笑ってしまった。あんな格好で仏壇に手を合わせる人なんて初めて見た。
「消毒液を持って来たので、こっちでしましょうか」
ショルダーバックと救急セットを彼女の横に置いた。彼女は恥ずかしそうに目を伏せてお願いします、と返事をした。
 彼女は右膝を伸ばして座った姿勢になり、僕は目の前で座り、消毒液のついたガーゼを傷口に当てた。郁人も心配そうに覗き込んでいる。
「痛い?」
膝からまだじんわりと出血している。僕は彼女の顔を覗き込んだ。小さな耳がほんのりとピンク色に染まっている。
「あ、あ、やっぱり、自分で、します」
彼女は僕の顔を見ると少しうろたえて、ガーゼを自分で持ってしまった。
ああ、またか。
僕はやっぱり人を遠慮させてしまう空気が出ているのだろうか。
「あ、ごめんね。おっさんに足触られるとか普通に嫌だよね。デリカシーなかったわ」
すぐにガーゼから手を離す。確かに初対面のおっさんに足を触られるとか、若い子は嫌だろう。頭をかいて、自分の考えが至らなかった事が恥ずかしく思えた。
「い、いや、違うんです。あの」
彼女は言いにくそうに言葉を探していた。
「あの、私、看護師なんで、自分でできます」
あ、看護師さんなの?そうなんだ。じゃあ、プロだ。僕がするよりちゃんと手当ての方法を知っているはずだ。でしゃばった自分が少し恥ずかしい。
「え、かんごしさんなの? すごーい。びょういんで、せんせい、おねがいします! ってはたらいてるの?」
郁人は急にテンションが上がって声をあげた。
「郁人くんが何を想像しているかは分かんないけど、病院では働いてるよ」
佐原さんがそう言うとさらにテンションが上がって踊り始めてしまった。畳がドスドスと音を立てる。
「こらっ、郁人、踊らない。もうご飯食べないと、明日も学校だろっ」
僕は時計を見た。もう八時半になろうとしている。だいぶ遅くなってしまった。立ち上がってキッチンに向かう。野菜炒めを皿に盛っていると、遅れて後ろを付いてきた郁人に箸とコップを持たせた。
 不意に居間から佐原さんの声がした。
「消毒液、ガーゼと絆創膏、ありがとうございました」
僕は、はぁい、と返事をして、彼女の近くに転がっていた傘の残像が頭をよぎった。
「ちょっと、待ってください」
野菜炒めを食卓に置いて、郁人に、食べろよ、と目配せをする。郁人は何も言わずに軽く頷いた。
「傘、さっきアーケードの入り口に置きっ放しだったから」
店先に向かう。傘を取りに行くのに、傘がいるかもしれない。濡れたらタオルも必要だろう。
「あ、大丈夫です、自分で取りに行きます」
彼女は遠慮がちにそう言った。
「いや、傘きっと、びしょ濡れになってるかも。タオルも一緒に持って行ってください」
僕は構わずに、ショーケース前の傘とタオルを彼女に差し出した。雨に無防備で降られることほど、僕にとって恐ろしく嫌悪する事はない。
「そこまで迷惑はかけられません。本当に大丈夫ですから」
佐原さんは本当に申し訳なさそうにそう言って、お辞儀をすると急いで店を出てしまった。僕はその背中を見送ったが雨音が先ほどより強くなっている事に気がついた。手に2つを持ったまま彼女の背中を追いかけた。
 チェックの傘が雨の塊を蓄えて、道端に転がっていた。雨粒は大きく、アーケードをうるさく鳴らしている。やっぱり、あれを取りに行くには傘がないとびしょ濡れになってしまう。
「あーあ、お気に入りだったのに」
佐原さんは小さくつぶやいてその光景を見ていた。
「ほら、濡れてるじゃないですか」
彼女の背中に声を掛けると佐原さんは振り返った。そして、申し訳なさそうに僕を見た。
「すみません、やっぱり借りますね」
彼女が僕に手を差し出した。僕は自分が雨に濡れないようにゆっくりと傘とタオルを差し出した。さっきより一層、雨脚が強くなり、耳の奥に雨音が反芻され、僕の腕は無意識に震えていた。
「雨、苦手なんですか?」
佐原さんがためらいながら僕に問う。僕は差し出している腕がこわばるのを感じた。口の中に苦いものが広がった気がした。血の味に似たもの。肯定する言葉を出すのさえ躊躇う。僕にとっては嫌で、嫌でたまらないこの質問。
「あ、そうですね。あまり、好き、ではない、です」
好きではない、なんて可愛いものではない。そんな生易しい感情ではない。憎い、のだ。僕は雨が怖くて、そしてたまらなく憎い。
 彼女は僕の表情を見なかったようにして傘とタオルを受け取った。ビニール傘を広げて自分の傘を取り、アーケードの下で自分の傘の柄をタオルで拭いた。なんて事のない動作だったが、僕にとっては流れるような動作だった。普通の人は雨なんか怖くもなんともない。
 彼女は自分の顔についた雨の雫を払って、僕に向かって言った。
「山瀬さん、ありがとうございました」
「いえいえ」
僕はなんとか自分の中に渦巻いている気持ちを悟られないようになんとか体裁を保つように返事をした。差し出されたビニール傘を受け取る。
「私、ここから15分ぐらいの橋元記念病院に勤めてるんです。このタオルとさっきのハンカチは洗って返しますね」
橋元記念病院。その名前で体裁が一気に崩れる。501号室。僕の脳裏に部屋番号が浮かんだ。あいつが寝ている部屋。行きたくもないが、行って確認しないとどうしようもない気持ちに襲われてしまう場所。
「えっと、なんか変なこと言いました? タオルすぐ返した方がいいですか?」
佐原さんの言葉に僕は我に返った。
「あ、すみません。タオルはいつでも大丈夫です。なんなら返さなくてもいいです。気をつけて帰ってくださいね」
一気にそう言って、先ほどの感情を打ち払うように店に足を向けた。僕の中の醜い憎悪の塊を初対面の人に少しでも見せてはいけない。
 何をしていても、どこにいても、僕の中に振り続ける憎悪の雨を誰かに拭いとる事なんてできやしないのだから。
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