第15話 そしてまた、五月雨 ―麻琴side―

文字数 6,303文字


 彼の熱が口の中と右手に残る。
 あの雪解け雨の日。彼に手を引かれて、山瀬生花店に行った日、本当は彼に抱かれたかった。あの日の事を反芻して、自分にこんな恥ずかしい願望があったのかと、驚きながら、でも、ずっと夕立の日のように、今度は、亜沙妃さんの名前ではなく私の名前を、甘く囁いて欲しいと思っていた。
 山瀬生花店に着いたら時間は午後五時前だった。家の中に入って抱きしめ合って、キスをした。だけど、触れるようなキス。時計を見ると郁人くんのお迎えの時間だった。
『この続きはもっと時間をかけてしよう』
鼓膜を通って、脳に響いた低い声。心臓を鷲掴みにして、ずっと握っていてほしいと願うほど甘い言葉。
 その言葉は約束のようにも思えた。


 三月も四月も忙しかった。火曜日の休みが史悠さんと一回ぐらいしか合わず、夜勤明けや準夜勤務前に顔を合わす程度だった。
 ちょっと、史悠さん不足。
 そう言ったら、史悠さんは、足りてないのはことちゃんだけじゃない、と言ってくれた。電話の向こうで、少し照れたような低い声を聞くのは嬉しかった。
 五月に入って、ゴールデンウィークは祝日出勤があるためまとまった休みは取れなかったが、山瀬生花店には顔を出した。郁人くんは二年生になった。
五月十日の今日、八歳の誕生日を迎える。
「まこっちゃぁぁん! それケーキ?ケーキ?」
郁人くんは私の持っている箱を見て、ぴょんぴょん飛び跳ねた。
「そうだよ〜ケーキ! 生身は見てからのお楽しみ」
カウンターに座っている史悠さんに、軽く頭を下げる。
「お邪魔します」
彼は奥二重の目尻を下げてくしゃっと笑った。私の大好きな笑顔。ケーキを彼に手渡して、ベンチ椅子に座った。携帯を見ると午後四時過ぎ。少し早かったかな。郁人の誕生日を一緒にしよう、と誘われて、嬉しくて気持ちが前のめりになってしまった。
「まこっちゃん、いっしょにこっちでパズルしようよ〜」
郁人くんに誘われて、小上がりの畳の部屋に向かう。
「ことちゃん、晩ご飯今日はグラタンにしようと思ってるんだけど、後で一緒に作ってくれない?」
史悠さんの声が私を追いかけてきた。振り返る。
「グラタンですか?」
「そう、グラタン。そんな難しいの作った事なくって。ネットで見ながら見よう見まねだけど。郁人が食べたいっていうから」
「そうそう! テレビでいつもしてるでしょ、またつくってね〜って」
私の頭の中にCMが浮かんだ。
「そうだね。見た事ある」
「まこっちゃん、そんなににこにこしないでよ〜、グラタンたべたことないんだもん」
「そうなの?じゃあ、楽しみだね。私も作った事ないけど……、頑張る!」
「よろしく!」
私は郁人くんに手を引かれて、畳の部屋に入った。荷物を置いて、亜沙妃さんの仏壇に手を合わせる。
お線香を上げる。
 郁人くんは八歳になりました。おめでとうございます。元気で良い子です。ずっと一緒にいたいです。心の中で呟く。顔を上げると亜沙妃さんの笑った写真が目に入った。
「ねぇ〜まこっちゃん、このパズルの方がいい?」
郁人くんが声を出してパズルを持ってきた。私が選ぼうと手を伸ばすと、郁人くんは笑った。
「ありがとう、ってママもいってる」
「え?」
その言葉に私は首を傾げた。一重の大きな瞳が私を見ている。髪の毛はふわふわで色素が薄い。
「え、郁人くんどう言う意味?」
私が聞き直すと彼は何でもないように言った。
「そのまま。たんじょうびのおいわいにきてくれて、ありがとう」
郁人くんのママが?私は仏壇を振り返った。お線香の煙がゆっくりと登って、一瞬揺れた。
「え、それってどういう意味―――」
私が聞くと、郁人くんは笑って、それ以上は何も言わずに声を張り上げた。
「おとぉぉぉさぁん! なにしてんのぉ〜グラタンつくらないのぉ!」
その声に、史悠さんは顔を出した。
「郁人っ、声がデカい。聞こえるから。グラタン作るけど、ちょっと待ってろ。店の片付けだけするから」
彼はそう言って店先の植木鉢と切り花を片付け始めた。
アヤメ、ユリ、トルコキキョウ、バラ、ハナミズキ、シャクヤク。
名前が振られた花たちが彼の手によって店の中に入る。ぼんやりと去年の三回忌で初めて彼を見たときの事を思い出した。彼の腕に抱かれて嬉しそうな白いアジサイ。あの姿を見てからもう来月で一年経とうとしていた。月日の移ろいを感じる。
 史悠さんは片付けを済ませて、小上がりの畳の部屋に上がってきた。一緒にキッチンに立ってグラタンを作る。隣に二個頭上の彼が並ぶ。見上げて笑ってしまう。
「もぉ〜おとーさん、ニヤニヤしないで、はやくつくってよっ!」
郁人くんが声を上げる。
私はグラタンの準備をして、シンクで手を洗った。振り返ると郁人くんは、トイレっ、と言って家の奥に行ってしまった。
「ことちゃん」
不意に史悠さんに名前を呼ばれ、見上げた。彼の口が私の耳に寄せられる。
「来月の第二週の土曜日。郁人が義理の両親の所に泊まりに行くんだけど」
その言葉の意味を考えて、耳の奥から熱が体に伝わる。彼は熱っぽく私を見ていた。まだ来月の休みの希望は間に合う。
「その日に、ここに来ていいんですか?」
私の問いかけに、彼は照れたように笑った。目尻が下がって嬉しそう。心臓が騒ぎ出して、急に落ち着かなくなる。
「できれば、泊まりで」
彼はそう言って、私の耳から口を遠ざけた。
 その後、グラタンは成功した。グラタンとケーキを三人で食べた。でも、私の頭は六月の第二週の事ばかりを考えていた。
 帰りは車で送ってもらった。
気づけば運転する彼の腕の服は薄くなっており、袖口のボタンは機会があれば全部繕っていたので、落ちるような事はなくなっていた。ズボンの裾が擦れているものは飛び出した糸だけを切った。
 送ってもらった彼にお礼を言って、車から出ようとすると、彼は私の腕を持った。
「ことちゃん、待って」
振り返ると、彼はまっすぐと私を見ていた。瞳は揺れていない。私を映している。
「返事を聞いてない。来てくれるよね」
私は、頷いた。



 泣き出しそうな空だ、とよく雨が降る前の空を表現するけれど、反対はどう表現したらいいのだろうか。太陽が笑っている空?風が雲を寄せ付けない空?どっちにしろ、約束の日はよく晴れた。でも、その日の天気予報で、気象庁は梅雨入りを発表した。
 沈みかけた夕陽を背に山瀬生花店を目指して足を進める。浮つく気持ちを何とか抑えながら、でも、抑えられなくて顔がにやけてしまう。史悠さんと今日から明日の朝まで一緒に居られる。すごく嬉しい。彼にとって自分が必要な人間であると実感できることが幸せ。肩にかけたショルダーカバンの紐を掛け直して、少しの泊まりの道具を入れてきたのを確認する。
 緑のアーケードが見えた。
 何度もこの下を通って、彼の店に足を運んだ。会いたくて、声が聞きたくて、笑って欲しくて、彼を知りたくて、通った。梅雨の雨も夕立も、時雨も、霙も雪が降っても、雪が溶けても、彼に会えていることが嬉しい。ボーナストラックの人生での最大の幸福だと思える。これからもこんな幸せが続くように、歩いていきたい。
 山瀬生花店の店構えが見える。時計を見ると午後六時過ぎ。郁人くんを送って、帰ってくるのが六時ぐらいって言っていたから、ちょうど良いかな。
 足を進めるとシャッターを降ろす史悠さんの姿が見えた。陽に焼けた腕が動いている。相変わらず、採血しやすそうな血管。白いシャツを腕まくりして、ベージュの見慣れたエプロンをしている。黒い靴には泥が少しだけ付いている。
 彼に走って駆け寄った。
「史悠さん」
「ことちゃん」
名前を呼ばれて嬉しくなる。
「今日は、お邪魔します」
頭を下げると、目尻を下げて彼は笑った。
「どうぞ。いつもと一緒だけどね」
店に招き入れられ店のベンチ椅子にショルダーバックを置いた。
「一緒に私も片付けます」
店内に広がっていた切り花や植木を通れるように脇に避ける。史悠さんは花を丁寧に寄せて、花の横に落ちていた葉っぱを足で集めた。その仕草に笑ってしまう。
「また、足で葉っぱを集めて。花には丁寧に触るのに、時々、雑ですね」
私の言葉に史悠さんは笑った。
「だから、言ったじゃない。結構、大雑把だって」
「言ってましたね。郁人くんもそんなところありますよね。ランドセルいつも投げてますもんね」
「ああ、あれは完璧、僕の悪い所が似てるな」
「でも、花は大事に扱いますよね」
「そりゃ、売り物だし、大事だからね」
「大事なものは、丁寧に扱うんですね」
そう言って私はハッとした。史悠さんは私を熱っぽく見つめている。
「ことちゃんにも大事に触りたいんだけど、いい?」
彼を見上げる。彼の顔が近づいて、唇が触れる前で止まった。
「返事を聞いてない。好きに大事に抱いていいの?」
返事をするのが恥ずかしい。なんて答えようか。そう思って私は彼の背中に手を回して、唇を重ねた。すぐに離して彼を見上げる。
「名前、呼んでください」
彼は私を抱きしめて、耳に口を寄せた。
「麻琴、愛してるよ」
低く甘い言葉が私を支配した。


 そのまま、彼に抱きかかえられて、夕立の日以来入って事のなかった寝室に向かった。お風呂にも入りたかったけれど、彼は、そんなのいい、と言って私を離さなかった。
 布団にゆっくりと寝かされて、彼は私を見つめた。深くため息を吐いて、額に唇を落とす。
「夕立の日、あの日の事は本当にごめん」
彼はそう言って、私を抱きしめた。私はゆっくりと抱きしめ返した。
「大丈夫です。亜沙妃さんの事、大事に思っている史悠さんの事を私は好きになったんです」
「麻琴、好きだよ」
彼はそう言って、頬、耳、首、胸、うなじと順番に唇を落としていく。左手で髪の毛を梳かれて背筋がゾクゾクする。夕暮れの部屋は薄暗い。彼の唇の熱で体温が上がるのがわかる。熱を帯びて、体が疼く。耳元に口を寄せられ、麻琴、と名前を呼ばれる。その甘い響きに胸が痛くて、なんだか泣きそうになってしまう。
「し、史悠さん」
名前を呼んで腕を彼の背中に回す。硬い背中。しなやかな腕が私を包む。陽に焼けた大好きな腕。胸元に口づけを落として少しそこに鈍い痛みが走る。
「跡残すけど、いいよね。僕のだから」
少し鋭い目で私を見ている。その視線を向けられるのが嬉しい。頷くと彼は順番にキスをしながら私の服を脱がした。肩にも、胸にも、胸の傷にも、お腹にも、太腿にも唇を寄せる。履いていたワンピースを捲し上げて、内腿に唇を寄せる。両足を立てられる。
「あ、あの、そこは恥ずかしい、からあんまり見ないで」
史悠さんは、はぁぁ、とため息をついた。
「その言葉は、逆効果だから。もっと見たくなる」
彼はそう言って、私の疼いて落ち着かない蜜が溢れる場所に顔を寄せた。下着を脱がせて、内腿に口付けを何度も落とす。そして、舌をゆっくりと這わせて、蜜の出口に触れた。舌が出入りして、蕾の部分に触れて体がビクつく。快楽が走って、声が我慢できない。
「――――ッん」
彼は顔を上げた。私を見て、少し笑った。怪しくて、少し余裕がない顔。私も史悠さんの色んな顔が見たい。今度は顔がゆっくりと近づいてくる。
「麻琴、可愛い。顔が真っ赤、声も出して」
耳元で名前を呼ばれて、今度は口付けを落とされる。彼の手は蜜口に触れた。口を舌で占領され、疼く秘部を、手で何度も擦られる。
「っん、―んっ、ンッ、――んッ、っん」
自分から上がる声が耳に入って恥ずかしくなる。声の音量と蜜の量が増えて溢れる。触られるのが恥ずかしいのに、触って欲しい。彼の指先は優しく、伺うように動いている。舌が口から出ていく。
「はァ、」
舌が口から唾液を引く。そしてまた頬、額、耳、耳の裏、首元、うなじ、鎖骨、脇、腕と全身にキスをしながら、蜜部の手を動かす。
「――っんッ」
漏れ出る声を彼に聞かれるのが恥ずかしい。手で口を押さえようとすると、彼は抑えた手に口を寄せた。
「手、外して。声、聞きたい」
低い声で、甘く痺れる言葉が鼓膜を揺るがす。手を外すと、彼は私の頬にキスをした。
「あんまり、余裕なくてごめん」
そう言って、彼はガバッと服を脱いだ。
引き締まった胸とお腹を見て、さらに恥ずかしくなる。彼は避妊具を出して私を見た。うなじや胸にキスをして、胸の頂を優しく舌で愛撫される。上がる声を必死で抑えていると、胸から口を離した。彼は膝を立てて、私の腰を引き寄せた。
私の目をまっすぐに見つめる。視線に捕まる。この目線で私は息が止まるほど緊張する。
「麻琴、可愛い。愛してるよ」
耳元でそう囁くと、ググッと圧迫感を感じた。
「っんん」
声が出そうになって、熱を帯びた彼自身がゆっくりと体に入ってきた。
「ま、こと」
彼は私を見つめて、頭を撫でた。左手の手の平の大きな傷が目に入る。私は彼の左手を持って、手のひらに口付けた。傷を受けた手、顔にも。左の瞼と頬にもキスしたい。
「しゆ、うさん」
彼はゆっくりと腰を押し入れた。圧迫感と少しの痛みと甘い快感が混じる。
「ンはぁ」
短く声が出て、その声で彼は私の頭を撫でて、腰の動きを早めた。動きを早めて、余裕のない表情を浮かべた。愛しいなと思って手を伸ばす。
「まこ、と、あい、してるよ」
「し、ゆうさぁ、ん、わぁた、しもーーー」
愛してます、って最後まで、声がもう出なかった。息をするのに必死で、彼から向けられる欲望も愛情も言葉も指も視線も一つもこぼさないようにと全身が彼に集中していた。
 優しく頭を撫でる腕とは裏腹に、彼は腰を激しく動かす。
 穏やかな彼にこんな激情が眠っていたのかと驚いた。夕立の日と違う抱かれ方だった。優しいけど、ひたすらに優しいだけじゃなくて、激しい。腰を何度も打ち付けられて、彼も声を小さく漏らした。
「まこ、と」
名前を何度も呼ばれて、溶けるどころじゃなくて流れてしまうかと思った。流れてもいいかも、なんて思う。史悠さんと一緒であれば、どこまででも流れていける。何度も、何度も私の名前を呼んで、彼は力尽きるように果てた。彼の体を抱き締めて、私はゆっくりと目を閉じた。


 雨の音に起こされた。隣で眠る左瞼の傷を持つ男の人の顔を指でなぞる。優しくし合う事を許されるのは、とてつもない幸福だと思う。
梅雨の降り始めはいつも穏やかだ。降り始めはこの雨がこの後ひどくなるのか、止むのか、それともこの穏やかなままいつまで降り続けるのか誰にもわからない。それは恋に似ている。始まりを降り始めで自覚し、終わりはいつの間に止んでいる事もあれば土砂降りになって傘で防ぎきれずどうにもならない時もある。
 私の恋はどこへ行くのだろうか。想いが通じるだけが恋の終わりではない。人知れず止んでいった山間の雨のように、ひっそりと終わる恋もあるだろう。私はまだ雨に降られているのだろうか。
 ゆっくりと視線を外に向ける。窓を滴る雨は美しい。降り始めの短い糸を引くような雨は粒を集めて、家の壁を伝って、地面に帰る。見た目を変えて土に吸収され、又は川に流れ海に行き、水蒸気となって、雲に混じり、又、私の目の前に現れる。さようなら、また会いましょう。なんて、巡り会いがあるんだろうな。
雨を見て、静かに呟く。
「さようなら、またどこかで」
空から降る美しい雨の雫達。
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