第16話 そして、また五月雨 ―史悠side―

文字数 7,686文字

 手を握って、抱き締めて、口付けをしても彼女は僕のものにはならない。分かっていてもこの欲望は留まることを知らない。そして、彼女を大切にしたい気持ちも同時に膨れ上がる。
 電車を待つのも、家に入るもの焦れったかった。でも、家に着いて少しだけ冷静になれた。時計を見ると時間は午後五時前だった。郁人の迎えがある。
 彼女に触れるだけのキスをしてなんとか理性を保った。もう、勢いで、布団に押し倒して、抱いても良かった。抱きたかった。だけど、時間が足りなかった。二人きりになって、彼女の吐息を感じて、優しくしたい。
『この続きはもっと時間をかけてしよう』
言葉に約束と希望を乗せる。彼女は僕の言葉に頷いてくれた。


 三月、四月はことちゃんと中々予定が合わず、二人きりになる事が一回ぐらいしかなかった。彼女は仕事の行き、帰りに寄ってくれてはいたが、僕としては全然彼女が足りなかった。笑顔を見て、声を聞いていると雪解雨の日を思い出して、どうしようもなくなってしまう。いい歳したおっさんが、思春期の初恋のように彼女に会う事を喜んで、それ以上を常に考えてしまう。寒空の下に頬を染めた彼女が可愛くて、愛しくて、僕の熱で彼女の頬を紅くすることができたら、と欲望が湧き上がる。
 そんな時に義実家から手紙が届いて、六月に郁人の泊まりを提案された。電話で折り返すと、六月の第二週の土曜日に都合がいいとの事だったので、その日で約束した。郁人はその事を喜んだが、目先の五月の誕生日が彼にとっては一番の関心事みたいだった。
「おとぉぉさぁん! ケーキはくだものいっぱいにしてよっ」
「分かった、分かった、それはもう何度も聞いたから」
僕がケーキの注文を考えていると、携帯が震えた。ことちゃんから、美味しいケーキ屋さんが家の近くにあるので買って行きましょうか、とメッセージが届いた。いつも商店街のケーキ屋だったから、彼女にケーキはお願いすることにした。


 五月十日は土曜日だった。郁人が産まれて八年。
 もうこんなにも月日が経ってしまったのかと思う。
 郁人はもう幼児ではなくなり、少年になった。義両親が言うには亜沙妃の幼い頃にそっくりだと言う。人懐っこく、利発的で、よく喋る。確かに僕に似ているところは探さないと見つからない。
ことちゃんは夜勤明けだったので、家で一旦寝てから、また行きます、と連絡があった。僕は店で彼女を待つことにした。郁人は学童を休み、みんなと同じ下校時間で四時過ぎに帰ってきた。
「おとぉぉさぁん! たーだーいーまー、たんじょうび〜」
変な踊りをしながら店の扉を開ける。思わずその動作に笑ってしまう。
「おかえり」
郁人は小上がりの畳に背負っていたランドセルを投げた。
「こら、ランドセル投げるな」
僕の顔を見ると、はぁぁい、と言った。
「するって、するよぉ!」
また返事をして、今度は家の奥に向かった。
「てもちゃんとあらうって〜」
再び声をあげて、洗面所に向かう。やっと習慣化したか。言っても、言ってもすぐテレビをつけようとしていたのに。
いや、待て。
今、僕、郁人に手を洗えって言ったか?
 小上がりの畳を見るとランドセルは投げられたままの場所にあった。それを拾おうと手を伸ばす。
「こんにちは」
声だけでもうこの主の顔が浮かぶ。
「ことちゃん」
振り返ると彼女はケーキの箱を持って立っていた。白いシャツに薄オレンジのカーディガンを着ている。淡い色は彼女によく似合っている。
「まこっちゃぁぁん! それケーキ?ケーキ?」
郁人が飛び出てきて、飛び跳ねた。
「そうだよ〜ケーキ! 生身は見てからのお楽しみ」
彼女は軽く頭を下げた。
「お邪魔します」
思わず笑みが溢れて、彼女の持っていたケーキの箱を受け取った。三日ぶりに顔を見た。一日会えないだけで、長く感じてしまう。
「まこっちゃん、いっしょにこっちでパズルしようよ〜」
郁人は早速彼女の手を引いて、小上がりの畳の部屋に向かう。その背中に声をかける。
「ことちゃん、晩ご飯今日はグラタンにしようと思ってるんだけど、後で一緒に作ってくれない?」
彼女が振り返った。
「グラタンですか?」
「そう、グラタン。そんな難しいの作った事なくって。ネットで見ながら見よう見まねだけど。郁人が食べたいっていうから」
一応、マカロニとクリームソースが簡単にできるセットを買ったけど、誕生日に失敗したご飯は作りたくない。郁人とことちゃんは楽しそうに会話をして部屋に上がって行った。
 とりあえず、店の片付けをもう少しして、植木鉢と切り花は店の中に入れておこうと準備をする。シャッターはまた後でいいか。五月になってだいぶ陽が長くなるのを感じる。アーケードがあるため店前の道はそこまで明るいわけではないが、冬の午後四時とは比べものにならないぐらい明るい。緑のアーケードが夕陽のオレンジと混ざり穏やかな光が店前に現れる。
「おとぉぉぉさぁん! なにしてんのぉ〜グラタンつくらないのぉ!」
郁人の声が聞こえて、僕は部屋に顔を出した。
「郁人っ、声がデカい。聞こえるから。グラタン作るけど、ちょっと待ってろ。店の片付けだけするから」
残りのアヤメ、ユリと順番に切り花に手を伸ばして、順番に水の量を確認しながら片付ける。花言葉をまた書いていた方がいいな。前に作ったハーバリウムももう少し店に入ってみやすいところに並べた方がいいかもしれない。そう思って、その作業は明日にする事にした。
 靴を脱いで、部屋に上がる。ことちゃんに声を掛けて、一緒にキッチンに立つ。なんかもう一緒に生活してるみたいだな。そう思って、顔がにやけてしまう。彼女は僕の顔を見上げて可愛く笑った。
「もぉ〜おとーさん、ニヤニヤしないで、はやくつくってよっ!」
郁人が僕の心などお見通しのようにそう言って、声をあげた。
 ことちゃんが手を洗って、タオルで手を拭いているところで、郁人がトイレに行った。あ、今なら来月の話ができる。
「ことちゃん」
彼女の耳に口を寄せる。彼女が僕を見上げた。
「来月の第二週の土曜日。郁人が義理の両親の所に泊まりに行くんだけど」
 この言葉で意味が伝わるだろうか。
 雪解雨の日の熱が蘇る。彼女は恥ずかしそうに笑顔を浮かべた。
「その日に、ここに来ていいんですか?」
当たり前だよ、誘ってるんだから。彼女の表情につられて笑ってしまう。
「できれば、泊まりで」
僕はハッキリと彼女にそう言って、耳から口を遠ざけた。郁人がトイレから帰ってきた気配がした。
 その後、グラタンは上手にできた。初めてにしては上出来だ。僕はやっぱり大雑把で分量を無視して牛乳を使おうとしたら彼女に注意されてしまった。やっぱり一緒に作ってよかった。ケーキは郁人のリクエスト通り果物たっぷりで生クリームが甘すぎず三人で15㎝ワンホールを丸々食べてしまった。
 食事の後、郁人とことちゃんはパズルで遊んでおり、僕はその様子を横で見ていた。午後九時前になって、車の鍵を持った。
「ことちゃん、送るよ」
助手席に彼女を乗せて、彼女の返事を聞いてなかったことを思い出す。直接言葉で聞きたい。確実に約束をしたいと思って、そのことが頭をぐるぐると回っていた。
佐原家の門が見えて、前に車を停める。
「ありがとうございました、じゃあ」
そう言って、彼女はシートベルトを外して扉を開けた。
その腕に手を伸ばす。
「ことちゃん、待って」
彼女は僕を見た。澄んだ瞳をまっすぐと見つめる。
「返事聞いてない。来てくれるよね」
彼女は、頷いた。


 夕方のニュースで気象庁がこの町の梅雨入りを発表した、とアナウンサーが告げた。郁人を義実家に送った時、見上げた空は、晴天そのものだった。雲1つなくて、雨の気配すらない。どこに梅雨の気配があるのかと探してしまうぐらいのものだった。そう思って、探すほどの余裕が雨に対して出来たのかと、自分の心境の変化に驚いてしまった。
 あれだけ嫌悪していた雨をなんでもないように口にして、雨の日に外に出かけて、雨雲を探すほどの余裕を、一年前の僕が知ったらまず信じないと思う。それほど、この一年の変化は目まぐるしかった。ことちゃんに初めて出会った時、まっすぐに僕の顔を見てくれた。若い女の子の知り合いなんていなかったから、その存在を心地よく感じていた。美しい花を愛でるように彼女の存在に僕は癒されていた。雨に打たれて、パニックを起こし、亜沙妃と間違えて夕立の日に彼女を抱いてしまってからも彼女は僕に自分の気持ちを伝えて、僕の気持ちをわかろうとしてくれた。尊い存在。恩人。愛しい彼女。言葉が足りない。感謝もしている。彼女に出会えた事が嬉しい。雨が降っても彼女がいれば僕は前を向いていけるようになった。三人で歩いていける未来を考えられるようになった。
 時計を見ると午後六時過ぎ。そろそろ彼女は来るだろうかと店のシャッターを降ろそうと引っ掛け棒を持つ。シャッターをに手を伸ばして降ろす。
「史悠さん」
愛しい声が聞こえて、駆け寄ってくる彼女が目に入った。
「ことちゃん」
彼女はいつも僕に走ってくる。その姿が可愛い。
「今日は、お邪魔します」
頭を下げ、小さな口をほころばせた。
「どうぞ。いつもと一緒だけどね」
そう言って、店に招き入れる。一緒だけど、心境は一緒じゃない。少し緊張もしている。彼女は持っていたカバンを店のベンチ椅子においた。いつもよりちょっと荷物が多い。
「一緒に私も片付けます」
彼女は丁寧に鉢と切り花の器を持って通路を開けた。僕は落ち葉を足で集める。箒を持ってくるのが少しめんどくさかった。その仕草を見て、彼女は笑った。
「また、足で葉っぱを集めて。花には丁寧に触るのに、時々、雑ですね」
ふふふ、と柔らかく彼女が笑う。心地いい。
「だから、言ったじゃない。結構、大雑把だって」
僕もつられて笑ってしまう。
「言ってましたね。郁人くんもそんなところありますよね。ランドセルいつも投げてますもんね」
「ああ、あれは完璧、僕の悪い所が似てるな」
「でも、花は大事に扱いますよね」
「そりゃ、売り物だし、大事だからね」
「大事なものは、丁寧に扱うんですね」
彼女はそう言って、ハッとして表情で僕を見た。そうだよ。大事な物は丁寧に扱いたい。扱いが分からなくて、手さえ出すのをためらうぐらい大事にしたい。でも、今日は約束したから。
「ことちゃんにも大事に触りたいんだけど、いい?」
彼女にそう言って、手を伸ばす。肩を持って顔を近づける。頬が赤く染まっている。
「返事を聞いてない。好きに大事に抱いていいの?」
声を聞きたい。いい、って言って欲しい。彼女は少し考えた後、腕を僕の背中に回して、唇を重ねた。すぐに離して、僕を見た。
「名前、呼んでください」
可愛いすぎる。すぐに抱きしめ返して、耳に口を寄せた。
「麻琴、愛してるよ」
彼女の心も、体も、すべてを支配したい。


彼女を抱きかかえて、寝室に向かった。彼女はシャワーを浴びたがっていたけれど、そんなもったいない事はさせられなかった。彼女から漂う香りに酔って、愛し合いたいのに、そんなの必要ない。
 彼女を布団にそっと寝かせて、見つめた。美しくも可愛い彼女にため息が出る。澄んだ瞳、長い睫毛、小さな口に、赤く染まった頬。透けそうな肌。小さな耳。全てが愛おしい。額に口付ける。
「夕立の日、あの日の事は本当にごめん」
彼女を抱きしめる。ごめん、だけど、僕はとても救われた。人をもう一度愛して、肌で触れ合う喜びを思い出した。ことちゃんに悲しみと怒りを拭ってもらった。
 彼女はゆっくりと僕を抱き返してくれた。その暖かさに涙が出そうになる。
「大丈夫です。亜沙妃さんの事、大事に思っている史悠さんの事を私は好きになったんです」
優しくて、強い言葉。いつも彼女はこうだな。
「麻琴、好きだよ」
彼女の目を見てはっきりと伝える。頬、耳、首、胸、うなじと順番にキスをする。全部が愛しい。
首に僕がクリスマスにプレゼントしたネックレスが光って、嬉しすぎて笑ってしまった。彼女も僕を見て笑顔になる。
左手で彼女の艶めく髪を梳く。細くて柔らかい。口で触れた肌は滑らかで興奮する。彼女の体温か、僕の唇の熱か分からないが、混ざり合うのが分かる。
「麻琴」
何度も名前を呼びたい。僕の呼びかけに彼女は瞳を潤ませて見上げる。その表情にそそられる。欲望が溢れて、もう、我慢はできない。
「し、史悠さん」
彼女の僕を呼ぶ声に胸が締め付けられる。緊張して、気持ちの余裕を奪う。彼女は腕を背中に回して、確認するように触れた。彼女を腕で包む。彼女の胸に唇を落として強く吸うと、彼女の透けるような肌に赤い跡が残った。夕暮れの薄暗い部屋でもはっきりとその跡が見える。
「跡残すけど、いいよね。僕のだから」
彼女を見ると、少し笑って頷いた。
たまらなく可愛い。肩にキスを、胸にも、胸の傷にも、お腹にも。
ワンピースを着ていたから太腿に触れて、キスをしながらスカートを持ち上げる。服を脱がせながら全身にキスを落とす。内腿に唇を寄せて、彼女の両足を立てる。下着の色が変わっているのを見て、ますます興奮してしまう。
「あ、あの、そこは恥ずかしい、からあんまり見ないで」
彼女の言葉に、ため息が出る。そんな事言われて、見ない方が無理。
「その言葉は、逆効果だから。もっと見たくなる」
僕は彼女の蜜口に顔を寄せて、下着を脱がせた。
恥ずかしがる彼女はその行動で僕の余裕を奪うことを知らない。
内腿に口付けをして舌をゆっくりと這わす。愛液が少しづつ溢れ出ていることに嬉しくなる。反応している姿が可愛い。舌でそこに触れ、蕾を舌先で刺激すると、彼女の体はビクッとなった。
「――――ッん」
漏れ出た彼女の声に、顔を上げた。声がいつもよりだいぶ高かった。
ああ、本当に可愛くてたまらない。どろどろに溶かしてやりたい。顔が見たい。どんな顔で僕に反応しているのか。
「麻琴、可愛い。顔が真っ赤、声も出して」
彼女は耳まで赤くなっていた。唇を重ねて、手を彼女の秘部に手を伸ばす。口は舌で確認して、蜜口の入り口から中まで指先で確認する。柔らかく、とろとろにしておかないと痛いかもしれない。内壁に指先を向かわせると、ヌプっと音を立てて、僕の指先に絡みついた。しっかり溶かして、甘やかしたい。
「っん、…んっ、ンッ、……んッ、っん」
彼女は指先の動きに合わせて声を舌の奥から、必死に出す。音量が上がり、舌と蜜口からぬちゃ、くちゃっと、妖美な音が部屋に広がる。ずっとこの声と音を聞いていたい。
口を離すと
「はァ、」
と彼女から吐息もれた。
唾液が連なる。
口を腕で拭って、彼女の頬、額、耳、耳の裏、首元、うなじ、鎖骨、脇、腕と全身にキスを落とす。
秘部は指に絡みついて、咥え込んでいる。とろとろの甘蜜が溢れて、滑る。指先が止められない。ナカが、ぎゅうっと指を締め付けて、たまらない気持ちになる。
「――っんッ」
彼女は声が恥ずかしいのか自分の口を手で押さえた。
隠さないで。声も顔も見たい。
僕は口を抑えた手にキスをした。
「手、外して。声、聞きたい」
お願い。
彼女は恥ずかしかったのか、瞳を一瞬揺らしてゆっくりと手を外した。僕は嬉しくなって、頬にキスをする。
可愛くて、たまらなくて、我慢の限界。
「あんまり、余裕なくてごめん」
一旦手を彼女から離して、服を脱いだ。
彼女は視線をそらす。
恥ずかしがってるのは逆効果なんだって。
避妊具に手を伸ばして、付けながら、彼女のうなじや胸に唇を落とす。小さな胸も先の色が綺麗で、口に含んで甘く噛む。彼女の我慢しながら漏らす声が耳に入って、ちょっと強く吸う。
 胸から口を離して、彼女の腰を引き寄せる。僕は膝を立てて、興奮した自分自身を彼女の蜜口に宛がった。
彼女の目をまっすぐに見つめる。瞳は少しぼんやりとしている。ずっと、この顔が見たかった。もっと乱れさせてやりたい。
「麻琴、可愛い。愛してるよ」
耳元でそう囁き、興奮した自分をググっと、内壁を拡げるように、押し入れる。少し抵抗を感じ、快感が走る。
「っんん」
声が可愛い。眉を少し寄せている。彼女の中はキツくて、熱い。息を吐く。
「ま、こと」
彼女を見つめて、髪を撫でる。痛くない?動いていい?聞こうとしたら、彼女に左の手のひらを持たれた。口付けされ、僕の左頬にもキスをしようと腕を伸ばす。
「しゆ、うさん」
その愛しい行動と声に耐えきれず、僕は腰を奥まで押し入れた。
「ンはぁ」
甘い、短い、淫らな声。
僕が支配したかったのに、彼女の甘さと優しさに支配される。彼女の髪を撫でて、ゆっくりと腰の動きを早める。うねって僕を締め付けて、でも、溶けそう。深い所で繋がって、蜜部の音がする。キツくて熱い。気持ちいい。何も考えられなくなる。彼女が愛しい。だたそれだけ。
「まこ、と、あい、してるよ」
「し、ゆうさぁ、ん、わぁた、しもーーー」
いや、僕だって、と言いそうになって声はもう出せなかった。腰を動かして、彼女の快感に身をまかせる姿が艶麗で、いやらしくて、そそられて、もう必死だった。優しくして、溶かして、ゆっくりとって思うのに体も気持ちもコントロールが出来なかった。
「まこ、と」
何度も腰を打ち付けて、まるで覚えたてかと思うぐらい激しく彼女を求めた。愛してるも、麻琴、も何度言ったか分からない。溶かすつもりが僕は彼女に溶かされてしまった。
 僕は彼女には敵わないのだろう。果てるまで彼女の中で溺れて、それでも、彼女を守るというプライドだけは持っておきたい、と重くなる瞼に抗いながら、眠りに落ちた。



 目を開けると愛しい彼女が僕を見つめていた。彼女の胸元の傷を僕はそっと撫でる。彼女は僕の傷に唇を添えてくれた。
 彼女を抱きしめる。
 雨の音が遠くで聞こえる。いつから降り始めたのか全く気づかなかった。僕に降る雨はまだ止んではいない。どうやったら、この雨をやますことが出来るのだろうか、と思っていた。
 結局、答えなんてどこにもない。生きていれば、嬉しいことも悲しいことも自分の予想を超えて大量に降ってきて、その雨を防ぐ方法なんてどこにもないし、それが降ってくる理由だってどこにも見つからない。
これから先も僕には雨が振り続けるだろう。この世界の悲しみや憎しみや怒りを集めた雫が僕を濡らすだろう。それでも、生きている限りこの雨は受けなければならない。だから、人は人を求めて、その雫を拭いあって行かなければならないのかもしれない。雨の存在を認めて、拭いあって、また雨が降るかもしれない明日に向かって。
 晴れる日が来ることを夢見て。
 雨音はただ静かに、優しく降り注いでいた。
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