第8話 霙(みぞれ) ―史悠side―

文字数 9,051文字


 秋の空は、色なき風に吹かれ清涼さを増していた。
 車から見上げたフロントガラス越しの空は澄み渡っている。今日は気温が低いかもしれない。指先が少し冷える。
 車を停め、店に入った。張り紙をはがし、扉の鍵を開ける。時計を見ると十時過ぎだった。
 店先にシクラメン、ビオラ、ゼラニウム、ポインセチアを並べた。だいぶ、秋の地味な花から、冬の紅が映える花が増えてきた。水を軽くかけ、切り花の状態を確認する。ハサミを持ち、痛んだ葉を切っていると、店の前に多々羅さんが立っていた。
ハンドカバンのみを持っていて、今から買い物に行く様子だった。
「史悠くん、もうハロウィンの飾り終わっちゃった?」
「いや、まだありますよ」
今日は十月三十日。
日付を見て、店先にはもうクリスマスカラーばかり並べてしまった事に気づく。ちょっと気が早かった。
「これとか」
奥から、飾り用に買ったおばけかぼちゃを見せる。
「それいいわね。買い物の帰りに買うから、置いといて。今日は寒いわね」
手を振って、スーパーの方角に向かった。
続きの傷んだ葉をカットしながら、先日のことちゃんにおっさん呼ばわりされてしまった事を思い出した。あの時は呆然として笑えなかったが、時間が経てばなんだか滑稽な気がしてきた。
 予想外の言動だった。情けなさ全開で、奈良崎には大笑いされる始末。その後、帰ってきた郁人には、ことちゃんにいじめられたの、って一体どんな顔をしていたのだろうか。
傷んだ葉を集めて、ゴミ箱に捨てる。人間もいらない感情は枯れた葉のように落ちて、土に還ればいいのに、と思う。そしたら、必要な光合成できる葉だけを残して、のびのびと生きていけるのに。
先週末、亜沙妃の七回忌を自宅で行った。
大学が同じだった友人、亜沙妃の小、中、高の同級生、義理の両親、亜沙妃の元同僚、僕の母が焼香をあげに来てくれた。本当は法要の場として、冠婚葬祭用の式場で行おうと思ったが、義両親がそれを嫌がった。どうしても娘の七回忌を葬式場で行うのは抵抗があるらしい。僕にもその気持ちは痛いほど分かった。自分の子供を先に見送るという、現実は何年経っても中々受け入れにくいものがあるのだろう。彼らを見ると、申し訳ない気持ちになる。
七年の年月を重ねた二人の義両親の背中を見て、亜沙妃との結婚の挨拶に行った日を思い出す。よく晴れた日で、僕の慣れないスーツを見た彼女は笑っていた。
『史悠は顔が整ってるからなんでも似合うと思ってたけど、違ったね』
彼女は僕のネクタイを結んでくれた。
『スーツに着られてる感じがすごい。緊張してる?』
一重の大きな目で僕を見上げ、笑っていた。
幸せにします、とは言い切れなかった。
彼女と一緒になって、幸せになるのは他ならぬ僕だったからだ。だから、プロポーズは『亜沙妃と一緒にいたら、僕が幸せだから結婚して』だ。なんと情けない。それでも、彼女は笑って受け入れてくれた。
 ずっと一緒にいるつもりだった。約束も、彼女の命も、守れず後悔しても足りない。
 それでも記憶の中の彼女はいつも笑顔を浮かべている。思い出は美化されるのだろうか。きっと僕の場合、亜沙妃に対しての愛情はどんどんと膨れ上がっていたから、頭打ちされない状態で止まったのだろう。また、会いたいと思う。会ったら、なんて言われるだろうか。きっと今の僕の状態を見て、ため息をつくと思う。そして、呆れられる。僕が十六歳も年下の子に振り回されているのを見て、もしかしたら、笑うかもしれない。僕の想いを受け入れてくれときの様に、好きになっちゃったらしょうがないよね、ってあっさり言われるかもしれない。きっと、後者だろうな。浮気者って怒られた方が嬉しいんだけど、きっと彼女はそうは言わないな。
 切り花の水に少しだけ液体肥料を入れ、カウンターに座った。ハーバリウムの本を手に取る。梅雨の時期から吊るしているアジサイがだいぶ乾燥してきた。ミモザやカスミソウのドライフラワーと一緒にカラーオイルに入れておけば、見栄えがするものになるかもしれない。
 水分を飛ばし、想いを乾燥させ、オイルに入れれば飾っておいても何も思わなくなるのだろうか。愛でる事は出来なくても、記憶の部屋に置いて時々眺める事はできるかも。
 思い出をゆっくりと振り返れる様になった時、人は人の死を受け入れられるのだろうか。僕には想い出が大きすぎて、分からない。少なくとも亜沙妃に対しての感情は捨てるものより持っておきたいものが多い。でも、ハーバリウムのような小さな瓶には入らない。だから、小さい大事な記憶を少しずつ乾燥させて、詰めていき、大事に持っておきたい。未練と言われようが、女々しいと言われようが、浮かんでくる感情の舵取りをできるほど、僕は器用な男ではない。



 次の日は火曜日。店の定休日だった。僕はいつものように郁人を学校に送り出した。郁人はベストを嫌がったが無理やり着せた。今日も寒かった。なんだか、急に冬がやってきたように気温が下がった気がする。
 衣替えをして、服を整理した。
 男二人の衣替えなんて一時間もかからない。亜沙妃は服を何着も持っていて、衣替えのたびに断捨離だ、と言っていたことを思い出した。
 ことちゃんは服をたくさん持っているのだろうか。
 彼女はいつもシンプルな服を着ていることが多い。白いブラウスや、水色のワンピース、この前は薄手のニットを着ていた。彼女は色が白く、透明感があるから明るい色が似合う。ピンク、黄色、赤。花で言うと何だろう。そう思って、考えるのやめた。無意識に彼女に結びつけようとしている自分がいる。
「この前、おっさん、って言われただろ」
一人呟き、時計を見ると昼だった。ちょっと気分転換に車を走らせて、隣町のラーメンでも食べに行こうか。立ち上がって、携帯と財布をポケットに入れる。タバコに手を伸ばそうとして、やめた。


 橋元記念病院に入ったのは四時過ぎだった。郁人の学童の迎えがあるから、少し急ぐ。エレベーターが閉まる所にギリギリに入り込み、五階で降りた。
 五○一号室にまっすぐに進み、廊下の窓から少しだけあいつの顔を覗く。
 人工呼吸器につながれた首元、規則正しく動く胸を見て、瞼が動かないことを確認する。中々、死なない。機械で生きている。あの機械を外したら、あいつは死ぬのだろうか。そんな度胸などないくせに、頭の中で何度もあいつを殺している。あの機械を外すだけ。それだけで殺せる。機械的な生命線を切り刻みたい。
 部屋の中をじっと睨みつける。
あまり長くはいられない、と思い、エレベーターに足を向けた。
「あ〜、七階の人? エアマットこっち!」
ナースステーションから大声が聞こえ、声を向けられた主を見る。
 白衣を着た細い子が僕を見た。澄んだ瞳が真っ直ぐに向けられ、揺れた。ことちゃんだった。彼女はショックを受けた顔をしていた。その表情で僕が今五○一号に向けていた殺意を見られたのだと思った。
 ああ、見られてしまったか。
 あれだけ、必死に殺意を抱く自分を隠そうとしていた事が嘘みたいに、スーッと何かの波が引いていくようだった。
 今まで僕は彼女にこの感情を見つけて欲しくなかった。
 頭のいい彼女は悟ったと思う。
 病室に背を向けて、反対側のエレベーターへ向かう。ボタンを押すと、後ろから声をかけられて驚いた。
「史悠さん」
ゆっくりと振り返る。
 白衣を着た彼女が追いかけてきていた。なんで追いかけてきたのかと、嬉しくも悲しい気持ちが湧き上がる。知らないふりもできただろうに。
 彼女は眉を寄せて、呼び止めて何を言ったらいいのか分からない、と顔に浮かべていた。
吐いた息が深いため息となった。
「ことちゃんにはどうしても見られたくなかったんだけどな」
彼女は僕を見ていた。駄目押しのように付け加える。
「これで僕がどんな人間か分かったよね」
彼女は目線を必死に逸らさまいとし、でも言葉が浮かばないのか、口を開けなかった。
 素直で優しい子だ。顔に、見なかったふりができなかった、って書いてある。
「ほんと、ことちゃんってまっすぐだね、顔に書いてある。嫌なもの見せてごめんね」
彼女は必死に首を振った。エレベーターが降りてきている。
僕は観念した。これを言ったら彼女は花屋にもう来ないだろう。でも、言わずにはいられなかった。
「僕は田谷恭平を殺したい。あいつに亜沙妃を殺されたから。でも、郁人が居るから簡単には殺せない。雨が怖いのは、殺された日に雨が降っていたから。これでもう僕に近づいてこれないでしょ?」
 近づいてくるなよ、と最後の牽制。
 誰も乗っていないエレベーターに乗り込んで、どうしてこんな方法でしか遠ざけることができないのかと、自分の小ささを思い知った。
 でも、心のどこかで、潮時だったのだと悲しく諦めに似た気持ちも薄くある。
 彼女はもう二度と僕には近づかないだろう。


 消したい記憶があるか、と問われれば、間違いなく2014年10月15日を挙げる。この日は間違いなく僕の人生で最大の不幸を被った日だ。郁人にとってもそうだと思う。
 彼は母親を、僕は最愛の妻を、失った。
 当時、僕たちは生花店から二キロ程度離れたアパートに住んでいて、その近くの平家に田谷恭平は母親と二人で暮らしていた。
 山瀬生花店はまだ祖父が切り盛りしていて、僕は勤める形で彼から引き継ぎを受けていた。  
 田谷は近所でも有名で、よく鳥やネズミを公園で殺している姿が目撃されていた。亜沙妃はその姿を見かける度に、注意しようと行くものだから僕は気が気でなかった。田谷は動物の死体をゴミ袋に入れ、資源ゴミの日に出していた。この事を僕は後で知ったのだが、ついに亜沙妃がそれを注意したらしい。それが原因で亜沙妃は田谷の記憶に止まり、僕がいないうちに家に上がり込まれて殺された。お腹と胸に複数の刺し傷があり警察は、常軌を逸している、怨恨が考えられる、と言っていた。が、恨みたいのはこっちだった。
 僕が帰宅した時、亜沙妃の息はなかった。
 逃げる田谷を追いかけて、力の限り殴りつけた。彼は街路樹を囲む花壇の角に頭を強打し、意識不明になった。殺すつもりで殴った。しかし、病院に運ばれた田谷は生きていた。助かってしまったことに僕はなんとも言えない気持ちになった。殺し損なったと思った。
 僕のこの殺意は正当防衛とみなされ、刑に処されなかった。明らかな殺意を抱き手を挙げた人間でも刑を逃れる事が出来るのだ、とこの時初めて知った。
 殺意を抱き、手を挙げただけでも許されない行為であるのに、僕は誰にも裁かれなかった。
 無論、田谷も統合失調症と診断がついており、目が覚めても刑法で裁かれない可能性がある事を警察から告げられた。
 絶望は雨を見るたびに降り注いだ。左手の傷も顔の傷もすぐに治った。しかし、雨が降ると頭が痛くなり、吐き気を催し、眠れなくなる症状はなくなるどころか年々ひどくなった。
 田谷を殺したい、郁人と平和に生活したい、田谷が死ぬのを見たい、郁人が成長する姿を見たい。僕の心はいつもこれで満たされ、最後に亜沙妃に会いたい気持ちがわずかに残る。
 出会って一年も経たない、なんの事情も知らない、佐原麻琴の存在は僕にとって花みたいなものだった。移ろう季節に変化して楽しむ観賞用。僕なんかが独占してはいけないもの。抱きしめて、独占し、枯らす事は出来ない。
 早く、僕から立ち去ればよかったのに。
 彼女は今頃、僕との出会いを後悔し、人間の醜さに戸惑っている事だろう。
 

「おとーさん、きょうあめふってなかったよ?」
郁人は僕の顔を覗き込んだ。野菜を切っていた手を止める。
「郁人、それどう意味だ?」
「だっておとーさん、こーんなかおしてるよ」
両手で目尻を持ち、これでもかというくらい下げている。
僕の泣き顔の真似か? 思わず笑ってしまった。
「そんなに酷い顔してないだろ」
「し〜て〜る〜よ〜。まこっちゃんといたらいつもにやにやしてるのに〜」
「にやにやじゃないだろ。ニコニコって言え」
手を洗い、フライパンに火をつけた。
「まこっちゃんまたきたらいいねぇ。そしたら、もっとおとーさんわらうのにね」
その言葉に返事をしない。野菜と肉を炒めて、卵も入れる。
 もう一生来ないと思うよ。まだ、その言葉は言えなかった。


 降水確率が30%というのは一番困る数字だ。どうせなら、0か100かで表して欲しいと思う。優柔不断な僕は10%でも可能性があるのなら、その日は傘の心配をし続けなければならない。
店のカウンターに腰掛け、ぼんやりと外を見る。朝からずっと薄暗い。きっと、空には分厚い灰色の雲が浮かんでいるのだろう。晴れてもいない空をわざわざ見に行く気は無いが、アーケード越しの商店街の道はやたら暗い。
 一昨日、ことちゃんとエレベーター越しに別れてから、なんだかぼーっとしている。世界の輪郭が曖昧になったような感覚。見ている世界にフィルターがかかっている。彼女に出会う前はどうやって生活していたのか、もう思い出せない。
 そこまで彼女は僕の視界に入り込んでいたのか。
 彼女の笑い声を聞くのが楽しみになっていた。顔を見ると嬉しかった。
 もう、来ないかと思うとますます会いたくなってしまうのは不思議だ。
カウンターに頭を伏せた。空調は二十八度で設定しているが、足先が少し寒い。今日は冷えるのかもしれない。
「こんにちは」
声をかけられ、僕は顔を挙げた。
嘘、だろ。
「……こ、と、ちゃん」
彼女は凛とした表情を浮かべて僕を見ていた。一昨日の事などなかったかのような表情に僕は戸惑う。
「来るとは思わなかった」
心の声が漏れる。彼女は苦笑いを浮かべた。
あまり見ないその表情に、一昨日のことは現実の出来事だと身に沁みた。
「今、時間大丈夫ですか?」
そう聞きもう最後にしますから、と、彼女は付け足した。
最後か、僕はその言葉を噛みしめる。
殺意を見せられ、不快に思わない人間などいない。律儀な彼女は別れを言いに来てくれたのかもしれない。腰を据え、話をしたい。
「大丈夫。落ち着いて話そうか」
ペンを持ち、メモに準備中と書き扉に貼った。そして、店のシャッターを片側だけ降ろした。
 彼女は店内をゆっくりと見回して、ベンチ椅子を少し撫で、座った。
「史悠さん、何を考えてますか? 私はあなたの気持ちが知りたい」
彼女は僕を見た。小さな口から発せられる真っすぐな言葉。艶のある髪は耳にかかっている。小さな耳が出ている。白い肌、長い睫毛、真っすぐに彼女を見た。
もう、嘘も誤魔化しも効かない。
「病院で言ったように、僕はあいつが憎い。できれば殺してやりたい。この感情をことちゃんに見られたくなかった」
できればずっと隠したまま、ことちゃんを大事に眺めていたかった。
「……はい。私は史悠さんが違う人に見えて怖かったです」
「そう、だよね」
「私は殺したいほど人を恨んだ事はないです」
綺麗な心。
そんな心に僕の感情を見せてしまったことが申し訳ない。
「それが普通だよ」
「でも、許せない気持ちを持ち続けることがいけないとは思いません」
はっきりと言い切った。
「恨んだっていいって事?」
聞き返しながら口の中に苦いものが広がっていく気がした。
「人を恨む気持ちもないのに、僕の気持ちは肯定できるの?」
「はい。史悠さんが何をどう思おうと、自由だと思います」
自由だけれど、僕は殺意を持ち犯人を殴った。それは罪ではないのか。
「でも、殺してはダメです」
鼻で笑ってしまった。汚れを知らない、おめでたい理想論。
「それは綺麗事だ。だったら、罪を憎んで人は憎まずって? 事件の記事を見た? あいつ、精神鑑定が先に出ているんだよ。目が覚めたら、無罪になる可能性が高い。刑法39条、知ってる? 心神喪失者の行為は罰しない、これで守られてる」
あいつと僕は大して変わらない。
病気で我を忘れた殺人犯。
殺意で我を忘れた僕。
「でも、殺してはダメです」
その真っすぐさが僕を苛立たせる。
「他人が、口出ししないで」
「殺さなくても人はいつか死にます。ほっといても、みんな死にます。犯人も、私も、あなたも」
僕は彼女を睨んだ。
彼女は怯むことなく自分の心臓を指差した。服の下の彼女の肌に刻まれた、傷を思い出した。
「私は二十歳までに死ぬ予定でした。十六歳の時に脳死した男の子の心臓をもらって、今ここにいます。本当はここにいない人間でした。普通じゃありません。人の命の上に立って、生きてます」
顔は紅潮していた。
「別に命の尊さを語ろうってわけじゃないです。私は史悠さんの気持ちは分かりません。あなたの悲しみは想像つきません。ただ、犯人を殺してしまったら誰が郁人くんと生活していくんですか? 殺意に負けて、郁人くんの優しい父親を奪わないでください。郁人くんは史悠さんの事、大好きなんですよ」
悪態をつきそうで、目線を彼女から逸らした。
「そんなの、言われなくても分かってるよ。だから…」
「だからなんですか?」
彼女は必死で僕を見ている。思わずため息が出た。
「だから、くるしい、んだよ」
ことちゃんはどうしても、こうなのか。
吐き出した僕より、苦しそうに涙をこらえている。僕の苦しさを分からないと言って、必死で分かろうと僕の心を拭おうとしてくれる。優しくて、強い。
「史悠さんは犯人も雨も、自分も憎いんですか?」
畳み掛けるように、彼女はそう聞く。僕は頭を振った。
「もう、これ以上ことちゃん、入ってこないでよ」
これ以上、僕の情けなさを暴かないで欲しい。こんな良い子を汚してしまう。
彼女は目に涙を浮かべて、僕の様子を見逃さないように必死だ。
 結局僕は彼女に敵わないのだろう。
口を開けた。
「そうだよ、僕は犯人も、雨も、自分も全部が憎いんだよ。憎くて、憎くて、堪らない」
「史悠さんは悪くない」
彼女の優しい言葉に笑ってしまう。
「じゃあ、許せない憎しみはどこに行けばいい?」
僕の言葉の後に彼女の瞳から涙がゆっくりと頬を伝っていた。
その涙はスローモーションのように見えた。とっさに、昔見た雨の雫を思い出した。新緑から滴る雨、軒下から静かに落ちる雫。
昔、僕は雨を美しく感じていた。この彼女の瞳から落ちる涙のように。
 拭わないと、こぼれ落ち、弾けてなくなってしまう。
「私に吐き出して、預けてください」
彼女の言葉を聞き、頭を抱えた。僕はカウンターから出て、座っていた彼女を抱きしめた。細い体。この体のどこに、優しくて強い気持ちが隠れているのかと思う。
 僕から一生立ち去れなくなるよ。バカだなぁ、この子。でも、とんでもなく愛しい。
「どうして、僕のために、そんな、真っ直ぐにぶつかってくるの? もっと楽しくて幸せな恋があるでしょ? ことちゃん若いし、可愛いんだから、別、の人、が……」
そこまで言って、泣きそうになった。ことちゃんは両腕を僕の背中に回した。細い腕が一生懸命に僕を抱きしめ返し、気持ちを繋ごうとしてくれている。
「な、何度も言いました。私が史悠さんの事、好きだからです。やっと伝わりましたか?」
ずっと伝わってたよ。逃げててごめん。本当にごめん。情けない男だから、ことちゃんにふさわしくないと今でも思ってる。だけど、どうしようもなく君が愛しい。醜い気持ちを抱いている僕を受け止めようとする彼女は汚れるどころかますます美しい。触ってはいけないと思うけれど、掴んで掻き乱して、彼女の真っ白を僕の汚れた色で染め上げてしまいたいとも思う。
そう思ってしまう僕を許してほしい。


 どれぐらい、抱き合っていたのかは分からない。彼女が腕の力を緩めたと同時に体を離すと少しの沈黙が流れた。でも、嫌な沈黙ではなかった。
彼女の涙は乾いていた。
 アーケードにぶつかる雨の音が耳に入った。30%が今か。少し音が大きい気がしたが、頭は痛くならなかった。ビニール傘を持って彼女に差し出した。
「傘、持って行って」
「ありがとうございます」
彼女は笑い、傘を受け取った。
小さな口の口角が上がる。途端に僕は嬉しくなる。もっと笑ってほしい。
「……また笑ってる」
彼女はゆっくりと見上げた。食い入るように見ている。
澄んだ瞳、長い睫毛が涙で輝いている。透けるような肌は滑らかで口は小さくて可愛い。僕はゆっくりと腕を伸ばした。彼女が嫌ならかわすことができる速度。そして、なるべく優しく腕の中に抱え込む。
「これが最後だよ。ことちゃんは本当に僕でいいの?」
確認するように言葉を発した。返事を聞いたら最後、僕が撤回の言葉を受け入れる事はない。
「史悠さん、が、いいんです」
ため息をついた。
彼女は本当にずっとこうだな。
「こんな情けない男がいいとか、男の趣味、ほんとに悪いよ」
彼女の顔を覗き込む。
「おっさんだよ」
「あ、それ、その、すみません」
ちょっとうろたえているのが可愛い。
「まぁ、事実だから、いいけど。スネに傷もあって、子供もいて、本当に何がいいのか全く分からない」
「それ以上、私の好きな人を馬鹿にすると怒りますよ」
「で、また、バカにすんな、おっさんって言うんでしょ?」
「ちょっと、それは私をからかってますか?」
笑い声は少し高くなる。その声をずっと聞いていたい。彼女の目を見ると、彼女も黙って視線を返した。
 もう本当に観念しよう。
「からかってない。僕もことちゃんが好きだよ。本当はずっとそう言いたかった」
両手で彼女の顔を包む。小さな顔、口、耳。艶のある黒髪。顔にちょこんと乗っている小さな唇を親指でゆっくりと撫でる。
 アーケードに当たる雨が隙間を縫って、店の扉にぶつかった。雨は氷と一緒に地上に落ちてきているようだった。雫と氷塊は混ざり、地面に向かって窓に線をすうっと引いた。だから、音がいつもより高かったのか。
 彼女の閉じた瞼に引き寄せられるように唇を重ねた。雨は振り続けている。憎しみは消えないが降り注がれた雨を少しだけ、拭われた気がした。

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