第04話「心に住む悪魔」
文字数 2,361文字
フランツの事件から9ヶ月が過ぎた6月、初夏の村から、まだジェヴォーダンの獣の脅威は去っていなかった。
庭にうずたかく積まれた穀物袋の前に座り、修繕の仕事を手伝っていたアンヌが、小道を歩いてくる人影を認めた。
背中に猟銃を担ぎ、右足を引きずりながら登ってくる髭をたたえた顔に、アンヌは両手で口を抑えて立ち上がる。
「……お父様!」
庭の柵を開き転がるように駆け出したアンヌは、父ジャンの胸元へ飛びついた。
「おかえりなさい! お父様!」
ジャンは優しく微笑み、アンヌの頭をなでたが、その目は複雑な表情で2人を見つめるマリアへと向けられ、すぐに真剣な表情にもどった。
アンヌに手を引かれ、家に招き入れられそうになったジャンは、顔だけをマリアに向けて口だけを動かし「いいのか?」と尋ねる。
一瞬の間を置くと、マリアはそれに「おかえりなさい、あなた」と、困ったような笑顔で答えた。
初夏と言っても、山地のこの村は夜になればまだ肌寒い。
はしゃぎ疲れて眠ったアンヌをベッドに運ぶと、ジャンは暖炉の前の椅子に腰を下ろし、マリアの運んできた温めたワインを口に運んだ。
「今回の山狩りは大規模な物になる」
暖炉の火を見つめながら、ジャンは隣の椅子に腰掛けたマリアに口を開く。
「陛下の勅による山狩りだ。武功を立てれば叙爵される。荘園の管理程度ならば、この俺の役立たずな足でも家族を守ることも出来るだろう」
長い沈黙が流れ、パチパチと爆ぜる薪の音だけが耳に届く。
「……もしお前たちが許してくれるなら」
「あなたは……」
意を決して口を開きかけたジャンの言葉を遮るようにマリアが言葉をかぶせる。
「あなたは……アンヌの英雄で……大好きな父親です。私の夫もあなたしか居ません。……あなたは……」
マリアが立ち上がり、ジャンを後ろから椅子ごと抱きしめる。
「あなたは何でも自分だけで決めてしまうのに、どうしてそんな事だけ私たちに相談するのですか? 私たちが家族でなくなったことなど一度もありません。……おかえりなさい、あなた」
ジャンは首に回されたマリアの手を握ると、ふり返り、くちづけを交わした。
次の日の昼には、村長の家の前に急遽作られた宿営地に、続々と山狩りに参加する志願者たちが集まってきていた。
片時も父のもとを離れたがらないアンヌを連れて、ジャンも登録へ向かう。
身分で割り振られたのだろう、同じ班の3人のゴロツキのような男たちに言葉少なく挨拶を済ませると、2人はすぐに帰路についた。
そのジャンの背後に大声で噂するゴロツキ達の声が無遠慮に投げつけられる。
「おいおい、まさか『カカシのジャン』と組まされるとはな」
「あいつは金さえ貰えりゃ誰とでも組むからな」
「ジェヴォーダンの獣に買収されて後ろから撃たれないように気をつけねぇとな」
その悪意ある言葉に、カッとなったアンヌが言い返そうとするのをジャンは優しく制し「明日からよろしく頼む」と、もう一度挨拶をすると、そのまま何事もなかったかのように家へと戻った。
ジャンの周りであれこれと世話を焼きながら、やはりアンヌは片時も父のもとを離れることはなかった。
「お父様が獣を追い払ったら、また一緒に暮らせるのですか?」
「うむ、……追い払っただけではダメだろうな」
銃弾を一つ一つ調べてテーブルに並べながら、ジャンは応える。
「ジェヴォーダンの獣は女子供ばかりを襲う悪魔のような野獣だ。仲間の狼を引き連れていると言う話もあるから、全ては難しいかもしれんが、とにかく獣にはとどめを刺さねばならない。そうでないと、いつお前たちが襲われるかも分からんし、父さんも安心できないよ」
父の言葉を聞き、アンヌの顔は曇る。
「とどめを……そうなのですか……?」
「ん? どうしたのだ?」
「獣は……お父様の悪口を言う嫌な人の事しか襲っていません。フランツだってソレアおば様だって、街から来た隊商の子供たちだってそうです。ひどい噂を流してお父様の事を意味もなく暴れる悪人のように言う悪魔の様な人たちです。お父様が獣を追い払って、皆がお父様の嘘の噂を信じないようになれば、獣はもう現れないと思います」
真剣な娘の言葉に、ジャンは嫌な予感を覚える。
「……アンヌ、何か知っているのか?」
「……いえ、なんでもありません」
ハッとして言葉を濁すアンヌを見つめ、ジャンは銃を置く。
「父さんが悪く言われていたのは、父さん自身に問題があったからなんだよ。子供たちは大人たちの噂をただ真似ていただけだし、大人だってお前と母さんの事を心配して言っていただけだ。お前に嫌な思いをさせてすまなかったね。でも人を憎むのはやめておくれ。死んでいい人間など居ないのだ」
優しくアンヌの手を取り、頭を下げる。
「……だって……でも……はい……。いいえ、お父様。私は人を憎んでいません。あの人達は悪魔です。悪魔に心を奪われていたんです。……だから神様の使いに罰を与えられたんです」
沢山の思いが心に溢れたのだろう、涙ぐんだアンヌは父の手から身を引くと、そのまま家の外へ駆け出していった。
アンヌと入れ違いにマリアが洗濯物を抱えて家に入る。
「あなた、アンヌが外に走って行きましたけど、何かありましたか?」
ほんの僅か考えを巡らせたジャンは、逆にマリアへ問いかける。
「……マリア、獣の出現以降、アンヌに変わったことはないか?アンヌが……獣と関わっているようなことは?」
不意を打たれたマリアの手から、真っ白なワンピースが滑り落ちる。
慌てて娘のお気に入りの服を拾い上げ、愛おしむように抱きかかえると、マリアは泣き崩れた。
庭にうずたかく積まれた穀物袋の前に座り、修繕の仕事を手伝っていたアンヌが、小道を歩いてくる人影を認めた。
背中に猟銃を担ぎ、右足を引きずりながら登ってくる髭をたたえた顔に、アンヌは両手で口を抑えて立ち上がる。
「……お父様!」
庭の柵を開き転がるように駆け出したアンヌは、父ジャンの胸元へ飛びついた。
「おかえりなさい! お父様!」
ジャンは優しく微笑み、アンヌの頭をなでたが、その目は複雑な表情で2人を見つめるマリアへと向けられ、すぐに真剣な表情にもどった。
アンヌに手を引かれ、家に招き入れられそうになったジャンは、顔だけをマリアに向けて口だけを動かし「いいのか?」と尋ねる。
一瞬の間を置くと、マリアはそれに「おかえりなさい、あなた」と、困ったような笑顔で答えた。
初夏と言っても、山地のこの村は夜になればまだ肌寒い。
はしゃぎ疲れて眠ったアンヌをベッドに運ぶと、ジャンは暖炉の前の椅子に腰を下ろし、マリアの運んできた温めたワインを口に運んだ。
「今回の山狩りは大規模な物になる」
暖炉の火を見つめながら、ジャンは隣の椅子に腰掛けたマリアに口を開く。
「陛下の勅による山狩りだ。武功を立てれば叙爵される。荘園の管理程度ならば、この俺の役立たずな足でも家族を守ることも出来るだろう」
長い沈黙が流れ、パチパチと爆ぜる薪の音だけが耳に届く。
「……もしお前たちが許してくれるなら」
「あなたは……」
意を決して口を開きかけたジャンの言葉を遮るようにマリアが言葉をかぶせる。
「あなたは……アンヌの英雄で……大好きな父親です。私の夫もあなたしか居ません。……あなたは……」
マリアが立ち上がり、ジャンを後ろから椅子ごと抱きしめる。
「あなたは何でも自分だけで決めてしまうのに、どうしてそんな事だけ私たちに相談するのですか? 私たちが家族でなくなったことなど一度もありません。……おかえりなさい、あなた」
ジャンは首に回されたマリアの手を握ると、ふり返り、くちづけを交わした。
次の日の昼には、村長の家の前に急遽作られた宿営地に、続々と山狩りに参加する志願者たちが集まってきていた。
片時も父のもとを離れたがらないアンヌを連れて、ジャンも登録へ向かう。
身分で割り振られたのだろう、同じ班の3人のゴロツキのような男たちに言葉少なく挨拶を済ませると、2人はすぐに帰路についた。
そのジャンの背後に大声で噂するゴロツキ達の声が無遠慮に投げつけられる。
「おいおい、まさか『カカシのジャン』と組まされるとはな」
「あいつは金さえ貰えりゃ誰とでも組むからな」
「ジェヴォーダンの獣に買収されて後ろから撃たれないように気をつけねぇとな」
その悪意ある言葉に、カッとなったアンヌが言い返そうとするのをジャンは優しく制し「明日からよろしく頼む」と、もう一度挨拶をすると、そのまま何事もなかったかのように家へと戻った。
ジャンの周りであれこれと世話を焼きながら、やはりアンヌは片時も父のもとを離れることはなかった。
「お父様が獣を追い払ったら、また一緒に暮らせるのですか?」
「うむ、……追い払っただけではダメだろうな」
銃弾を一つ一つ調べてテーブルに並べながら、ジャンは応える。
「ジェヴォーダンの獣は女子供ばかりを襲う悪魔のような野獣だ。仲間の狼を引き連れていると言う話もあるから、全ては難しいかもしれんが、とにかく獣にはとどめを刺さねばならない。そうでないと、いつお前たちが襲われるかも分からんし、父さんも安心できないよ」
父の言葉を聞き、アンヌの顔は曇る。
「とどめを……そうなのですか……?」
「ん? どうしたのだ?」
「獣は……お父様の悪口を言う嫌な人の事しか襲っていません。フランツだってソレアおば様だって、街から来た隊商の子供たちだってそうです。ひどい噂を流してお父様の事を意味もなく暴れる悪人のように言う悪魔の様な人たちです。お父様が獣を追い払って、皆がお父様の嘘の噂を信じないようになれば、獣はもう現れないと思います」
真剣な娘の言葉に、ジャンは嫌な予感を覚える。
「……アンヌ、何か知っているのか?」
「……いえ、なんでもありません」
ハッとして言葉を濁すアンヌを見つめ、ジャンは銃を置く。
「父さんが悪く言われていたのは、父さん自身に問題があったからなんだよ。子供たちは大人たちの噂をただ真似ていただけだし、大人だってお前と母さんの事を心配して言っていただけだ。お前に嫌な思いをさせてすまなかったね。でも人を憎むのはやめておくれ。死んでいい人間など居ないのだ」
優しくアンヌの手を取り、頭を下げる。
「……だって……でも……はい……。いいえ、お父様。私は人を憎んでいません。あの人達は悪魔です。悪魔に心を奪われていたんです。……だから神様の使いに罰を与えられたんです」
沢山の思いが心に溢れたのだろう、涙ぐんだアンヌは父の手から身を引くと、そのまま家の外へ駆け出していった。
アンヌと入れ違いにマリアが洗濯物を抱えて家に入る。
「あなた、アンヌが外に走って行きましたけど、何かありましたか?」
ほんの僅か考えを巡らせたジャンは、逆にマリアへ問いかける。
「……マリア、獣の出現以降、アンヌに変わったことはないか?アンヌが……獣と関わっているようなことは?」
不意を打たれたマリアの手から、真っ白なワンピースが滑り落ちる。
慌てて娘のお気に入りの服を拾い上げ、愛おしむように抱きかかえると、マリアは泣き崩れた。