最終話「英雄」

文字数 1,576文字

 高く晴れ渡った空にうろこ雲が並び、豊かに実った葡萄の葉を秋の風と共に一頭の騎馬が駆けてゆく。
 立派な装具をつけた騎馬に乗った身なりのいい男の頬には、斜めに4本の傷が刻まれており、歴戦の勇者のような顔だったが、畑で収穫の作業をしている者達に声をかけながら通りすぎてゆくその表情は、柔和で村人に安心感を与えるものだった。
 男は少しずつ速度を増すと山道を駆け下り、麓の街の教会へと馬を走らせた。

「これはこれはシャルトル卿。わざわざのお越し何用でしょうか?」
 教会の入り口で出迎えたのは、ゆったりした動作の長身の男だった。

「卿は止めてくれダリウス司祭。ジャンで結構だ」
 馬から降りたジャンは、教会の従者に馬を預けるとダリウスの手を取り固く握手を交わす。

「慣れない仕事で時間が取れずに、礼を言う機会も逃してしまった。申し訳ない。腕の怪我はもういいのか?」
「ええ、傷は残りましたが、何の不自由もありませんよ」
 ジェヴォーダンの獣が退治されてから、既に3ヶ月ほどの時が経っていた。
 ジャンは一躍英雄となり、男爵に叙爵された。
 この周辺の荘園を任されることになり、下級貴族として忙しい日々を送っている。
 町の広場にはジャンの銅像まで建てられ、今日はその除幕式に呼ばれていたのだった。

「たいそう立派な銅像だそうですよ。ジャン」
 面白そうに笑いながら、ダリウス司祭はジャンを教会の中へと招き入れる。

「銅像などいらんとあれだけ言ったのに、頑として聞き入れてくれぬのだ。困ったものだ」
「……まぁ、英雄に銅像はつきものでしょう」
 憮然とした表情で応えるジャンをダリウス司祭は目を閉じて慰める。

「……英雄……か」
 それっきり会話は途切れ、祭壇の前まで黙って歩く。
 2人の思い浮かべているのがアンヌの姿であるのはお互いに分かっていた。

 祈りを捧げると、ジャンはダリウスを伴い広場へ向かう。
 広場には獣を倒した英雄であるジャンをひと目見ようと人だかりが出来ていた。

「……によって、ついに、かの凶悪なるジェヴォーダンの獣を討ち倒すに至ったのであります! その英雄的犠牲の精神と我々全ての命を救った献身的行動を讃え、ここに建立された像をお披露目します! それでは、ジャン・ピエール・シャストル卿、お願いいたします!」
 芝居がかった街の役人の先導で、ジャンは身長の2倍ほどの高さも有る像の膜を引き払った。
 騎士の鎧を身につけ、銃を手に持ったジャンの銅像が現れる。
 広場は割れんばかりの拍手と歓声に包まれた。

「……けっ。カカシのジャンが英雄かよ。ジェヴォーダンの獣くらい銀の銃弾さえありゃあ俺にだって倒せらぁ」
 広場の隅を酒臭い男が歩いてゆく。
 たまたま近くに居たマリアは、その声を耳にして不安そうに娘の顔を覗き込んだ。
 アンヌはその男を見つめていたが、母の視線に気づくとニッコリと笑顔を返す。

「大丈夫よお母様! お父様は英雄ですもの、少しくらい逆恨みも受けるものだわ」
 以前着ていた物より凝った刺繍の施された、真っ白なワンピースの裾をはためかせ、アンヌは嬉しそうにくるりと一回りしてマリアの腰に抱きついた。

「それにお父様が本当の英雄だということは、私がよく知っています!」
 そうねと答えてジャンの方に目を向けたマリアの視界の隅で、一瞬、娘の頭に銀色の狼の耳が見えたような気がした。
 驚いてもう一度娘を見るが、やはりそんなものは存在していない。母の表情を見て、アンヌはもっと強くマリアの腰を抱きしめた。

「大丈夫よお母様」
 マリアも安心して娘の髪を撫でる。

「……大丈夫よ」
 もう一度そうつぶやき、笑顔を浮かべるアンヌの口の端に短い牙が煌めいたのは、マリアからは見えなかった。


―― 終
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登場人物紹介

アンヌ・シャルトル

 フランス、ジェヴォーダン地方の小さな村に住む10歳の少女。

 母親譲りの輝くように美しい銀髪と、父親の血が色濃く残る力強い眼をしている。

 父親はインドでの戦争以降、家に寄り付かなくなり、街でゴロツキのような生活をしているが、小さな頃から聞かされた父の武勇伝を信じ、今でも父を慕っている。

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