第02話「始まり」
文字数 2,012文字
「おかえりなさい、アンヌ。今日は遅かったのね」
「ごめんなさいお母様。今日は東の葡萄畑までお出かけしたの」
アンヌ・シャルトルは輝くような銀色の髪を元気良く跳ねさせながら、怒っている母の背中に抱きつく。
暖炉の火にかけた鍋をかき混ぜながら、母マリアは微笑みを堪え切れなかった。
「……仕方がないわね。明日からはちゃんと日が暮れる前に帰ってくるのよ? さぁ、手を洗っておいで。シチューを食べましょう」
小さく肩をすくめて頬を合わせると、頭をなでて娘を送り出す。
「はぁい!」
もう一度強く母に抱きつき、表の水桶へと駆け出すアンヌを見て、マリアは神に感謝した。
(神様。私の宝物が今日も元気良く、笑顔にあふれて平穏な暮らしを過ごせた事を感謝します)
もう一度鍋に向き直ろうとしたマリアは、娘が固まったように外を見て居ることに気付く。
どうしたの? と声をかけようとしたが、マリアにも玄関の先に広がるすっかり暗くなった畑の小路に、うねうねと蛇のように連なる赤い松明の列が見えた。
「……お母様、何かあったのかしら?」
心配そうに呟くアンヌの傍らに寄り添うと、マリアはそっと肩を抱き、一緒に松明を見つめる。
その赤く明滅する光は、何か悪い事の予兆のように思えた。
「東の畑でデルモントさんの所のフランツ坊が死んでいたんだ」
松明の列から抜け出し、話を伝えに来てくれた村の若者が、水を受け取って飲みながら神妙な面持ちで語る。
「フランツちゃんが?! まだ6つか7つじゃない……どうして……?」
マリアはアンヌの手をぎゅっと握りしめる。
アンヌだってまだ10歳になったばかりの子供だし、フランツともよく一緒に遊んでいた。 それに今日、アンヌは東の葡萄畑まで遊びに行ったと言っていたのだ。
「どうも狼じゃないかと言う話だ。村長たちが猟銃を持ちだして東の森を見に行ってる。俺もすぐに行くよ。戸締まりをしっかりして、夜は表に出ないようにしなよ」
背中の猟銃を背負い直すと、若者は礼を言って歩き出す。
「アンヌちゃん、兄ちゃんたちが狼はやっつけちゃうけど、それまでは遠くで遊ばないようにな。フランツは後ろから頭をガブッ! とやられたんだ、怖いんだからな!」
わざと大げさに恐ろしい顔を作り、手を振って去ってゆく若者を見送ると、マリアはアンヌを家に入れ、しっかりと閂を下ろす。
「さぁ、ご飯にしましょうね」
心に広がる不安を振り払うように、マリアは明るくそう言った。
フランツの事件を特に気にした素振りもなく食事を終え、自分の部屋でベッドに入った娘の顔を時々見に行きながら、マリアは後片付けをしていた。
シャルトル家に父親は居ない。
いや、居ないことになったと言った方が正しいだろう。
インドでの戦争でそこそこの功績を上げたものの、戦争には敗れ、パリ条約締結による全面撤退により帰国したジャン・ピエール・シャルトルは、戦うことでしか家族を養えない男だった。
国の外交政策が融和路線へと方向転換された今、彼のような男に居場所はなく、右足に負った傷のために仕事もない。一年以上もただ酒を飲んでは管を巻く日々を送り、ついにジャンは家に帰らなくなった。噂では麓の街で用心棒のような事をしてその日暮らしの生活をしているらしい。
アンヌは小さな頃から聴かされた戦争の功績を今でも覚えており、この父親を英雄視しているが、街へ出た村人たちから時々聞くジャンの噂は、嫌われ者のゴロツキそのものだった。
マリアは「お父様は、別の戦争へ出かけてしまって、これからずっと帰ることは出来ないのよ」と言い聞かせていたが、聡いアンヌは事実を理解してしまっているようだった。
理解してもなお、父親を英雄として愛し続ける娘に、マリアは時々申し訳ない気持ちで泣き出しそうになってしまう。
ジャンの心は壊れてしまい、マリアにはそれを癒やすことは出来なかった。
マリアは愛する娘と2人で生きて行くことを決めたのだった。
アンヌの服をたたんでいたマリアが、娘のお気に入りのワンピースに点々と血のような赤い染みが付いているのに気付いた。
肩の後ろ、娘の美しい銀色の髪に隠れる辺りに点々とつく赤い染みを濡らしたタオルで拭き取ってゆく。
娘は今日、東の畑に行っていた。
赤い染みを一つ一つ丁寧に拭き取りながら、マリアは思う。
(きっと葡萄の染みだわ。アンヌのお気に入りの真っ白な服に染みが残らないようにしてあげないと……)
フランツは東の畑で死んでいた。
やがて、全ての赤い染みを拭き取ると、マリアは満足気に燭台の火を吹き消し、アンヌの隣で眠りについた。
(神様、明日も私の宝物が、笑顔にあふれた幸せな生活を送れますよう、ご加護を)
秋の夜空には、禍々しいほどに大きな満月が浮かんでいた。
「ごめんなさいお母様。今日は東の葡萄畑までお出かけしたの」
アンヌ・シャルトルは輝くような銀色の髪を元気良く跳ねさせながら、怒っている母の背中に抱きつく。
暖炉の火にかけた鍋をかき混ぜながら、母マリアは微笑みを堪え切れなかった。
「……仕方がないわね。明日からはちゃんと日が暮れる前に帰ってくるのよ? さぁ、手を洗っておいで。シチューを食べましょう」
小さく肩をすくめて頬を合わせると、頭をなでて娘を送り出す。
「はぁい!」
もう一度強く母に抱きつき、表の水桶へと駆け出すアンヌを見て、マリアは神に感謝した。
(神様。私の宝物が今日も元気良く、笑顔にあふれて平穏な暮らしを過ごせた事を感謝します)
もう一度鍋に向き直ろうとしたマリアは、娘が固まったように外を見て居ることに気付く。
どうしたの? と声をかけようとしたが、マリアにも玄関の先に広がるすっかり暗くなった畑の小路に、うねうねと蛇のように連なる赤い松明の列が見えた。
「……お母様、何かあったのかしら?」
心配そうに呟くアンヌの傍らに寄り添うと、マリアはそっと肩を抱き、一緒に松明を見つめる。
その赤く明滅する光は、何か悪い事の予兆のように思えた。
「東の畑でデルモントさんの所のフランツ坊が死んでいたんだ」
松明の列から抜け出し、話を伝えに来てくれた村の若者が、水を受け取って飲みながら神妙な面持ちで語る。
「フランツちゃんが?! まだ6つか7つじゃない……どうして……?」
マリアはアンヌの手をぎゅっと握りしめる。
アンヌだってまだ10歳になったばかりの子供だし、フランツともよく一緒に遊んでいた。 それに今日、アンヌは東の葡萄畑まで遊びに行ったと言っていたのだ。
「どうも狼じゃないかと言う話だ。村長たちが猟銃を持ちだして東の森を見に行ってる。俺もすぐに行くよ。戸締まりをしっかりして、夜は表に出ないようにしなよ」
背中の猟銃を背負い直すと、若者は礼を言って歩き出す。
「アンヌちゃん、兄ちゃんたちが狼はやっつけちゃうけど、それまでは遠くで遊ばないようにな。フランツは後ろから頭をガブッ! とやられたんだ、怖いんだからな!」
わざと大げさに恐ろしい顔を作り、手を振って去ってゆく若者を見送ると、マリアはアンヌを家に入れ、しっかりと閂を下ろす。
「さぁ、ご飯にしましょうね」
心に広がる不安を振り払うように、マリアは明るくそう言った。
フランツの事件を特に気にした素振りもなく食事を終え、自分の部屋でベッドに入った娘の顔を時々見に行きながら、マリアは後片付けをしていた。
シャルトル家に父親は居ない。
いや、居ないことになったと言った方が正しいだろう。
インドでの戦争でそこそこの功績を上げたものの、戦争には敗れ、パリ条約締結による全面撤退により帰国したジャン・ピエール・シャルトルは、戦うことでしか家族を養えない男だった。
国の外交政策が融和路線へと方向転換された今、彼のような男に居場所はなく、右足に負った傷のために仕事もない。一年以上もただ酒を飲んでは管を巻く日々を送り、ついにジャンは家に帰らなくなった。噂では麓の街で用心棒のような事をしてその日暮らしの生活をしているらしい。
アンヌは小さな頃から聴かされた戦争の功績を今でも覚えており、この父親を英雄視しているが、街へ出た村人たちから時々聞くジャンの噂は、嫌われ者のゴロツキそのものだった。
マリアは「お父様は、別の戦争へ出かけてしまって、これからずっと帰ることは出来ないのよ」と言い聞かせていたが、聡いアンヌは事実を理解してしまっているようだった。
理解してもなお、父親を英雄として愛し続ける娘に、マリアは時々申し訳ない気持ちで泣き出しそうになってしまう。
ジャンの心は壊れてしまい、マリアにはそれを癒やすことは出来なかった。
マリアは愛する娘と2人で生きて行くことを決めたのだった。
アンヌの服をたたんでいたマリアが、娘のお気に入りのワンピースに点々と血のような赤い染みが付いているのに気付いた。
肩の後ろ、娘の美しい銀色の髪に隠れる辺りに点々とつく赤い染みを濡らしたタオルで拭き取ってゆく。
娘は今日、東の畑に行っていた。
赤い染みを一つ一つ丁寧に拭き取りながら、マリアは思う。
(きっと葡萄の染みだわ。アンヌのお気に入りの真っ白な服に染みが残らないようにしてあげないと……)
フランツは東の畑で死んでいた。
やがて、全ての赤い染みを拭き取ると、マリアは満足気に燭台の火を吹き消し、アンヌの隣で眠りについた。
(神様、明日も私の宝物が、笑顔にあふれた幸せな生活を送れますよう、ご加護を)
秋の夜空には、禍々しいほどに大きな満月が浮かんでいた。