第10話「邂逅」

文字数 1,638文字

 ジャンがいつ帰ってきてもすぐに分かるようにと、玄関近くの椅子でウトウトと眠っていたマリアがふと目を覚ましたのは、もう真夜中をだいぶ過ぎた頃だった。
 火を落として種火にしてあったはずの暖炉の残り火が、チロチロと風に揺れている。

「……風?」
 隙間の多い古い家だが、風の強くないこんな夜に暖炉の火が揺れるなどと言うことは今まで無かった。
 胸騒ぎを覚えたマリアは、燭台に暖炉の火を移すと娘の部屋へと向かう。
 アンヌの部屋のドアの前に立つと、蝋燭の炎が大きく揺れた。ドアの隙間から風が入ってきている。

「……アンヌ?」
 小声で呼びかけながらドアを開けた瞬間強い風が吹き、蝋燭の炎が消える。
 乱れた髪をかきあげ、部屋の中に目をやったマリアが見たものは、大きく開け広げられた木の窓と、ベッドの上に脱ぎ捨てられた寝間着の上に差し込む黄金色の月明かりだった。

 慌てて窓に駆け寄ると、窓の外からは悲しげな狼の遠吠えが、長く尾を引くように響いていた。
 マリアは全てを悟り、娘の寝間着を抱えて神に祈りを捧げると、ただその場に泣き崩れた。


 サワサワ……。

 微かな衣擦れのような音を立てて、銀色の美しい獣が新緑の森を駆ける。月の光を写した狼の金色の目には、月明かりにおぼろに浮かぶ森の小道が、まるで光り輝く黄金の道のように見えた。

(お母様。……ごめんなさい)
「……オォォォォォォ……・ォォン……」
 アンヌの懺悔は悲しげな狼の遠吠えとなり、山々にこだました。

(でも、神に仕える身なのに、お父様のことを……堕落したと……言った)
(サバキヲ……アタエネバ……)

(あの司祭だけは……許さない!)
(カミヲ……カタルモノヘ……サバキヲ!)

 ただ駆け続ける狼の視線の先に、山の中腹に赤い炎が目印のように輝き、日曜礼拝の香りが一層強く香る。
 一歩毎に香りが強まり、一歩毎に殺意が体に渦巻いた。

(絶対に! 許さない!)
(……コロス!)

トッ。

 小さな足音を立てて降り立ったのは小さな空き地。
 小さな焚き火の前で小さな男がただ神に祈りを捧げていた。

「……やぁアンヌ。遅かったね」
 ダリウス司祭は祈りをやめ、丸太から立ち上がる。
 焚き火を挟んで対峙する2人の距離はわずか10m。この巨大な狼の跳躍ならば一飛の距離だ。しかし司祭は恐れた様子もなく、虚勢を張るでもなく、まるで教会に遊びに来た子供に挨拶するように狼を見ていた。

(なぜ? 狼が怖くないの?)
「グルルル……」
 低い唸り声が広場に響く。

(恐れなさい! お父様を侮辱した罰に! 貴方を殺すこの獣を!)
 短い咆哮を上げ、狼は一足で司祭の目の前まで飛び、前足で撫でるように吹き飛ばした。わずかに爪の先が掠めただけで、司祭は地面に討ち倒される。
 パックリと裂けた左腕から真っ赤な血が流れ出した。
 痛みに耐えながらも神への祈りを呟く司祭に、苛立ちが募る。

(恐怖しなさい! 恐れながら死になさい!)
(ソノ……イノリヲ……ヤメロォ!)
 もう一度距離を取り、飛びかかろうと態勢を低くした狼の耳に、聞き覚えのある声が聞こえてきた。

「やめなさい! アンヌ!」
(お父様!?)
 司祭の後ろの茂みからジャンが現れる。その体はずぶ濡れで憔悴しきっていたが、背中には銃を背負い、真っ直ぐに狼を、いや、アンヌを見つめていた。

(お父様の匂いなんか全然しなかったのに!)

「大丈夫か? ダリウス」
「ええ、何とか。……できればもう少し早く来て欲しかったと言うのが正直な所ですが……」
 ジャンは寒さに震える手でダリウスを助け起こす。

「無理を言うな、匂いを消すために冷たい川に浸かっていたのだ。獣が来なければ意味が無いからな。……命があって何よりだ」
 ダリウスの傷をチラリと見て、そう締めくくる。
 腕の傷は深かったが、後遺症が残るほどの傷でも命にかかわるような傷でもなかった。
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登場人物紹介

アンヌ・シャルトル

 フランス、ジェヴォーダン地方の小さな村に住む10歳の少女。

 母親譲りの輝くように美しい銀髪と、父親の血が色濃く残る力強い眼をしている。

 父親はインドでの戦争以降、家に寄り付かなくなり、街でゴロツキのような生活をしているが、小さな頃から聞かされた父の武勇伝を信じ、今でも父を慕っている。

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