第08話「暗雲」

文字数 846文字

 夕方にはアンヌも元気を取り戻し、マリアが腕によりをかけた料理を囲んで、3人は愛しい娘の怪我が癒えたのを心から祝った。
 楽しい食事が終わり、暖炉の前で家族3人くつろいでいると、急にジャンが立ち上がる。

「……すまんが、銃の部品が壊れてしまっているのを忘れていた。今から行けば村の鍛冶屋もまだ起きているだろう、ちょっと行ってくる」
「今からですか? 明日でも……」
「いや、ダリウスが今夜山に入れば、明日の朝には騒ぎになっているだろう。銃も扱えない司祭に獣が退治できるわけがない。今日のうちに銃を直しておきたいのだ」
 ダリウス司祭の名前にアンヌがピクリと反応する。
 マリアも不安そうにジャンに目を向け、アンヌを引き寄せた。
 2人の反応にジャンは苦しそうな表情を見せるが、一瞬の後にはいつもの表情に戻っていた。

「納得行くまで修理してもらうつもりだ。お前たちは先に眠っていなさい」
 ジャンは銃の入った袋を肩に担ぐとドアへ向かう。

「お父様、いってらっしゃい」
「あなた、お気をつけて」
 玄関まで見送りに来た妻と娘にキスをして袋を担ぎなおすと、大きな満月の月明かりでぼんやりと明るい森の道へ、右足を引きずりながらも急ぎ足で歩いて行った。

「さぁ、お父様もああ仰ったのだから、アンヌはもう寝る準備をしなければいけないわね」
 ドアを閉め、重い閂を下ろすと、マリアはもう一度しっかりと娘を抱きしめた。
 ジャンが獣を倒してくれる。帰ってきてくれる。アンヌの怪我も治った。全ては良くなっている。
 頭の中で良かったことを全て並べ立ててみても、マリアの心は晴れなかった。

「今日は久しぶりに外に出たのだし、疲れたでしょう?温かいミルクにはちみつを溶かしてあげましょうね」
「はい、お母様」
 行儀よく返事をしたアンヌは、柔らかな母の香りをかき消すように風に乗って漂う香りを嗅いでいた。
 日曜日のミサで焚かれるあのお香の煙るような香りと、花の香の入り混じった胸の悪くなるような匂いを。
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登場人物紹介

アンヌ・シャルトル

 フランス、ジェヴォーダン地方の小さな村に住む10歳の少女。

 母親譲りの輝くように美しい銀髪と、父親の血が色濃く残る力強い眼をしている。

 父親はインドでの戦争以降、家に寄り付かなくなり、街でゴロツキのような生活をしているが、小さな頃から聞かされた父の武勇伝を信じ、今でも父を慕っている。

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