第1話 若鮎たち
文字数 1,780文字
この物語はフィクションです。
〈一〉若鮎 たち
数字は、言うまでもなく数を表す記号である。一見無機質 なこの数字に、陰 と陽 があることはそれほど意識されていない。古くから陰を表す数字が「二」や「四」だとすれば、陽を象徴 するのは「三」であった。
数字に陰陽があるように、人間にもまた光と影がある。光があるところには影があり、影があるところには必ず光がある。何かに対する強い想 いが時に光となり、時に影となって顕現 する。だとすれば、それらは本来同じものなのかもしれない。善悪の評価を別にすれば…。
三方を山に囲まれ盆地状になっている古都・京安 の初夏は暑い。その日、ミノルは下宿先のボロアパートから大学へ向かって汗ばみながら大鴨川 にかかる大賀茂橋 を渡っていた。ミノルの大学は京安帝国大学といってこの国で二番目にできた国立大学であった。ミノルは去年の春に入学した。
橋の中ほどにきたところで欄干 から川面 に目を落とすと数匹の鮎 が川の流れに抗うように泳いでいた。もう鮎が遡上 する時期か、そう思いながら周りの風景を見渡す。京安市内を北から南へ縦断 するように流れる大鴨川はミノルのいる大賀茂橋が北端である。ここから北へは東の支流・小高野川 、西の小賀茂川 に分かれる。この地点は川筋がY字状になっており、橋からは三方とも遠くまで見通せて景色 がよい。ミノルはここからの眺 めが好きだった。
川の土手には一定間隔 に植えられた桜の木が青々とした葉を茂 らせ、趣 ある瓦屋根 の街並 みがその木々の合間から見えた。川の中州は葦 の葉で緑の絨毯 のようになっている。進行方向を仰げば東山の峰々 が今日も変わらぬ姿で雄大 に横たわっていた。
大鴨川を遡上してきた鮎はこの大賀茂橋の下をくぐると、東か西のどちらかに舵 を切らねばならない。大鴨川は南北約十キロ川幅三十メートルほどの小さな川だがこの東西に分かれた支流はさらにそれぞれ二十キロほど遡 る。鮎がもしここで方向選択を間違えれば生れ故郷とは別世界に行きつくことになるだろう。鮎はここ最近この橋下に留 まっている。ここで川藻 を食べるなどして、最後のエネルギーを蓄 えているのだろうか。
「がんばれよ」
ミノルはつぶやいて、歩き出した。
教室に入って周りを見回す。
「おーい、ミノルこっちだ」
四郎が手を振っている。席をとってくれているようだ。彼はミノルと同じ医学部生だ。
「わるいな、しっかしすっごい日差しだな、焼けるよ」
ミノルは隣に座った。
「まったくだ、ミミズがうらやましいぜ」
ミノルは四郎の言葉をスルーした。
「訳文ちゃんとできたか」
「ああ今日のはな」
四郎は頷 く。
今日はこれからドイツ語の授業だ。ミノルも四郎も医学部で細菌学を専攻しているが、まだ二回生ということもあって、授業の半分以上は、英語・ドイツ語と物理・化学などの教養科目だ。ミノルの成績は上位ではあったが、四郎の成績は首席かそれに近いものだった。そんな四郎にも苦手はあり、ドイツ語だけはミノルがまさっていた。
「ドイツ語ってのはなんでこうも格変化 が多いのかねぇ」
四郎は黒縁 の丸メガネをずりあげながらため息をつく。
「とにかくひたすら繰 り返し繰り返しやることだね」
「さすがもうすぐ留学するやつは言うことちがうねぇ」
「いや行くの亜米利加 だから」
ミノルが突っ込みをいれた。
「こないだは助かったよ。これ借りた分。はい、和気清麻呂 」
そう言って和気清麻呂の十円札を四郎に渡す。先月ピンチだったときに借りたお金だ。十円札が和気清麻呂、百円札が聖徳太子である。
「なに、困った時はお互い様だ」
「お札もな~、古代の人もいいが、将来は野口英世 なんかがなったらいいんだが」
ミノルはなにげなしに呟 く。
黄熱病 研究で有名な野口英世は細菌学を専攻する彼らのヒーローだ。
「あと志賀潔 に北里柴三郎 な。ま、でも医者はお札にならんだろ。なるのは歴史上の偉人か帝国の元勲 だ」
四郎は笑った。
「いや百年後には、野口も歴史上の偉人さ」
「俺は別に今のままでいいと思うぜ。聖徳太子も偉大だよ。十七条憲法、和を以って貴しと為す。いい言葉じゃないか」
四郎は若干皮肉 まじりに吐 いた。
「世界がそうなってほしいね」
「無理だな。人間って生き物は共生という概念 をもたないんだ」
四郎は言った。
教官が入ってきたので二人は正面を向いた。
二人とも戦争の足音が少しずつ近づいてくるのを感じ取っていた。
〈一〉
数字は、言うまでもなく数を表す記号である。一見
数字に陰陽があるように、人間にもまた光と影がある。光があるところには影があり、影があるところには必ず光がある。何かに対する強い
三方を山に囲まれ盆地状になっている古都・
橋の中ほどにきたところで
川の土手には一定
大鴨川を遡上してきた鮎はこの大賀茂橋の下をくぐると、東か西のどちらかに
「がんばれよ」
ミノルはつぶやいて、歩き出した。
教室に入って周りを見回す。
「おーい、ミノルこっちだ」
四郎が手を振っている。席をとってくれているようだ。彼はミノルと同じ医学部生だ。
「わるいな、しっかしすっごい日差しだな、焼けるよ」
ミノルは隣に座った。
「まったくだ、ミミズがうらやましいぜ」
ミノルは四郎の言葉をスルーした。
「訳文ちゃんとできたか」
「ああ今日のはな」
四郎は
今日はこれからドイツ語の授業だ。ミノルも四郎も医学部で細菌学を専攻しているが、まだ二回生ということもあって、授業の半分以上は、英語・ドイツ語と物理・化学などの教養科目だ。ミノルの成績は上位ではあったが、四郎の成績は首席かそれに近いものだった。そんな四郎にも苦手はあり、ドイツ語だけはミノルがまさっていた。
「ドイツ語ってのはなんでこうも
四郎は
「とにかくひたすら
「さすがもうすぐ留学するやつは言うことちがうねぇ」
「いや行くの
ミノルが突っ込みをいれた。
「こないだは助かったよ。これ借りた分。はい、
そう言って和気清麻呂の十円札を四郎に渡す。先月ピンチだったときに借りたお金だ。十円札が和気清麻呂、百円札が聖徳太子である。
「なに、困った時はお互い様だ」
「お札もな~、古代の人もいいが、将来は
ミノルはなにげなしに
「あと
四郎は笑った。
「いや百年後には、野口も歴史上の偉人さ」
「俺は別に今のままでいいと思うぜ。聖徳太子も偉大だよ。十七条憲法、和を以って貴しと為す。いい言葉じゃないか」
四郎は若干
「世界がそうなってほしいね」
「無理だな。人間って生き物は共生という
四郎は言った。
教官が入ってきたので二人は正面を向いた。
二人とも戦争の足音が少しずつ近づいてくるのを感じ取っていた。