第6話 亜矢子の願い

文字数 924文字

〈六〉亜矢子の願い

 ミノルは留学を一年で切り上げた。
 しかしその一年の間に亜矢子は重い病気を発症していた。白血病だった。

 彼女は京安帝大付属病院に入院していた。ベッドの上の彼女は(ほお)がこけ(くちびる)も色を失っていたが、相変わらずの美貌(びぼう)は重病を感じさせなかった。

 ミノルは亜米利加で買った童話「眠り姫」の絵本をプレゼントした。分厚い表紙は金糸(きんし)刺繍(ししゅう)()まれ、ページを開けば絵が飛び出す仕掛(しか)け絵本だ。少し値の張るものだった。実はミノルは病名を知ったとき、渡すのをためらった。しかしストーリーはハッピーエンドだったし、何より亜矢子の喜ぶ顔が見たかった。

「こんなもの、もらっていいの?すごくうれしいわ」
雪のように透白(とうはく)だった顔に(しゅ)が差した。彼女は本当にうれしそうだった。

「ミノルは本当にやさしいね」
「そうか?全然そんなことないよ」
「やさしいよ。私初めて会ったときからずっとそう思ってた」
亜矢子は窓のむこうの空に目をやる。

「橋の上でぶつかった時のこと?あれは俺じゃなくても多分拾うんじゃないかな、それに君は、その、綺麗(きれい)だし・・。男だったらみんなああするさ」
「違うわ。そんなところじゃない」
彼女はクスっと笑った。

「私が言ってるのは、もっと深いところよ」
亜矢子は赤く(うる)んだ目をミノルにむけた。
その迷いのないまっすぐな(ひとみ)は、とても()んでいて今にも吸い込まれそうだった。

 帰り道ミノルは一人無力感に(さいな)まれながら唇を()む。医学の限界に悩んでいたオサムの気持ちはこんな感じだったのだろうか。
 大賀茂橋に差し掛ると、一羽のカラスが橋の下にとまっていた。川の中には鮎が泳いでいる。(えさ)としてでも(ねら)っているのだろうか、カラスはその鮎をジッと眺めていた。羽に含まれる油脂(ゆし)が陽光に照らされ、漆黒(しっこく)姿態(したい)(あお)(きら)めいている。その情景はミノルに、マッチが燃え尽きる前の青い炎を連想させた。


病室の去り(ぎわ)亜矢子はポツリと言っていた。
「コナン・ドイルってお医者様だったのよね。だからワトスンはドイルの分身だった」
「そうらしいね。それがどうかした?」
「ごめんなさい。もしもね、私がもう絵本書けないようなことになったら・・」
「何、馬鹿なこと言ってる!」
「いつか私の代わりに書いてくれない?私達が登場する物語を」
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登場人物紹介

ミノル

京安帝国大学医学部(細菌学専攻)の学生

亜矢子(アヤコ)

同智社大学文学部(英文学専攻)の女学生

四郎

京安帝国大学医学部(細菌学専攻)の学生


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