第9話 禍難の予感

文字数 1,178文字

〈九〉禍難(かなん)の予感
 
 亜矢子は死んだ。

 ミノルは授業に出なくなった。(うつ)の病だった。

 四郎は心配して何度かミノルのアパートの前まで来た。しかし、ミノルは居留守(いるす)を使って一度も会わなかった。
「ミノル。気持ちは解るが、医者になったらたくさんの死を目の当たりにする。一人の死で心が折れてどうする」
ドアの向こうから四郎は言う。しかしその言葉もミノルの心には届かなかった。

 四郎は来た道を引き返しながら漠然(ばくぜん)禍難(かなん)の予感がした。彼はミノルにああは言ったものの、ミノルの気持ちは痛いほど解った。なぜなら四郎にも、(おさな)い頃から想いを秘めた大切な人がいたからだった。もっともその人は遠く離れたところに引っ越して行ったため、今は四郎の心の奥底にしまわれた状態になっている。もう会えることもないだろうと分かっているからこそ、かえってその人の記憶は色あせることなく鮮明に残っていた。

 そのような人の存在があったから、ミノルに亜矢子を紹介された時何の感情も()かなかったし、他の女性に興味を抱くこともなかったのだ。もし今、その人の死を聞いたら、自分だって心のバランスを保てる自信はなかった。

 ただいずれにせよ、今回のことにミノルが討ち勝つかそれとも挫折(ざせつ)するか、結局最後の最後はアイツ自身で答えを出すしかないのだ。四郎は自分をそう納得(なっとく)させるしかなかった。

ミノルは遂に、学期末試験にも姿を現さなかった。彼の留年が決まった。奨学金(しょうがくきん)は打ち切られた。

 ミノルはずっと暗闇(くらやみ)の中にいた。その闇の中で絶えることなく亜矢子の姿を思い浮かべていた。決まって祇園祭の後、河川敷でうつむいて草をむしっているときの彼女の背中だ。

その度に
「俺に何ができたって言うんだ!」
そう叫んでミノルは自分を落ち着かせる。

 この時代の医療水準では、世界のどの医者を連れてきたとしても治せはしないのだ。じゃあ留学が悪かったのか、そんなことは無い、そんなはずはない。そう自分に言い聞かせ一旦は葛藤(かっとう)をもみ消す。しかししばらくすると、またあの時の(さび)しそうな背中が浮かんできてしまうのだ。なぜあの時彼女の悩みに気付いてやれなかったのか。亜米利加に行ってまで学んだものにいったいなんの意味があったというのか。頭の中をそんな想いがぐるぐると巡る。

「俺に何ができたって言うんだ!」

亜矢子の残像をもみ消そうと強く意識すればするほど心がそれを拒み、何度も何度も思い浮かべてしまっては精神を切り(きざ)むのだ。これ以上ない残酷(ざんこく)(ごう)だった。

 ミノルはずっとその無限とも言える鎖環(さかん)の中で()んでいった。暗闇の中でぼんやりと思う。自分の大切な人すら救えない医学、そんなものに何の価値がある。もう学業を続けていくことだって難しい。退学してここを引き払うしかないだろう。そうなれば俺も残りの人生、もう生きていても意味はない。疲れた、もういい、もう全てがどうでもいい・・・と。
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登場人物紹介

ミノル

京安帝国大学医学部(細菌学専攻)の学生

亜矢子(アヤコ)

同智社大学文学部(英文学専攻)の女学生

四郎

京安帝国大学医学部(細菌学専攻)の学生


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