第5話 天の火もがも

文字数 4,385文字

〈五〉天の火もがも

 ミノルの亜米利加(あめりか)留学がいよいよ始まった。
 留学先は当国最大の都市ニューオークにあるコルンビア大学だ。この国で最も古い大学群の内の一つで、師にも徒弟(とてい)にも世界的な俊才(しゅんさい)がつどっていた。

 ミノルは街の林立する摩天楼(まてんろう)、引っ切り無しに行き交うオートモービルの数に目を見張った。しかし学生生活は苦しかった。とくに冬に入って寒さが身にしみる。貯めたお金を切り(くず)しながら、大学から少し離れた(りょう)に住み込み、食事を切りつめ、日本語の家庭教師をしたりした。

 その日の講義に寮を出ようとすると亜矢子からの手紙が投函(とうかん)されていた。(あわ)てて、その場で素手で千切って開封する。

拝啓(はいけい) 
ミノル様
 いかがお過ごしでしょうか。そちらニューオークの冬は京安より寒いと聞いていますが、お体の方は大丈夫ですか。前回のお手紙にはそちらの絵葉書(えはがき)を同封してくださりありがとうございます。とても美しい絵ですね。宝物にしようと思います。

先日こちらでは私に縁談(えんだん)がありました。父と母が先方と勝手に話をして、もう決まりかけていたんです。それで私(いや)で、最初の顔合わせのときに逃げたんです。縁談は(こわ)れましたが、後日先方に両親と共に謝罪にまいりました。そのあと、親不孝でふしだらだとか、家の事を考えていないとか、たくさん怒られ泣いてしまいました。

その心労が(たた)ったのかどうかわかりませんが、近頃体の調子がすぐれません。今度お医者様に診てもらう予定です。ご心配をおかけするようなことを書き連ねてすみません。ミノルさんもお体には十分気をつけてください。ミノルさんがお戻りになる日を心よりお待ちしております。

なんだか愚痴(ぐち)っぽい話になってしまいましたね。そういえばいいこともありました・・・」

途中で読むのを止め、ミノルは手紙を閉じて空を(あお)いだ。血の気が引いていくのが分かった。やがて、手紙をカバンに入れ力なくゆらゆらと歩き出す。
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亜米利加に()つ前、最後に会ったときのことを思い出す。

 祇園祭(ぎおんまつり)の日だ。山鉾巡行(やまほこじゅんこう)を一緒に見物した後、大鴨川の河川敷(かせんじき)の原っぱに腰を下ろした。亜矢子はずっと浮かない顔だった。まるで貧血のように顔色も悪い。
 亜矢子は感情を(まぎ)らわそうとするかのように地面の草をいじった。白い手が黒土で染まっていく。彼女は草をいじりながらポツリと言った。

「君が行く 道の長手(ながて)を ()(たた)ね・・」
「何?」
「ううん、何でもない。・・・ねぇ亜米利加っていつできたのかしら」
亜矢子は会話がしたくて無知を(よそお)うことがあった。

「えーと、建国はだいたい百数十年前だね」
「そうなんだ・・」
「どうした?」
「この京安って千年以上前に造られたのよね」
亜矢子は遠くの山に視線を移した。つられてミノルもその視線を追う。悠然(ゆうぜん)と連なる峰々は(わず)かに(かす)(あお)く深緑に(おお)われた山容からは悠久(ゆうきゅう)の時を感じた。

「ああ、子供のころ歴史で覚えさせられたよなぁ。泣くよ僧侶は京安遷都(せんと)って」
「あら、鳴くよウグイス京安遷都じゃなかったかしら?」
いたずらっぽい目でミノルを見る。「どうして僧侶が泣くの?」
「どうしてだったかな・・・。京安の前は那羅(なら)に都があった。だから那羅の多くの寺院が遷都を(なげ)いたってことじゃないかな」

「ふーん」
亜矢子はすぐ答えが出たことにつまらなそうにして言葉をつないだ。

「でも、そう、京安の前はさらに何百年も那羅に都が置かれたんでしょ。私最近思うの。こうやって大昔から変わらずありつづける山並みを眺めていたら、自分の存在はなんてちっぽけなんだって。自分の悩みなんて取るに足らないことなんじゃないかって。そして、みんな気付いてないだけで、この国からはまだまだ多くのことを学べるんじゃないかって」

「多くのこと?」
「歴史でしょ、古典でしょ、それから・・」

英文学を専攻している彼女には似つかわしくない台詞(せりふ)に思えた。ミノルの亜米利加行きに(あらが)うかのようだった。通りすがる人が好奇の目でミノルたちを見る。ミノルは慎重(しんちょう)に言葉を選んだ。

「科学は少しだけ亜米利加に遅れている。だから科学は亜米利加に学べるんだ」
「遅れていたら何か困るの?別に平和に()らせるならいいじゃない」
ミノルは沈黙(ちんもく)した。

「戦争のとき困るの?」
亜矢子はうつむきながらつぶやいた。
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ミノルはなんとか頭を切り()える努力をした。

教室に駆け込んだとき授業は半分が過ぎていた。原子核物理の授業で、教授の名前はエンリコ・フェルミルという。
ミノルは亜米利加で医学以外の幅広い分野で授業を受けていた。吸収することは山ほどあった。授業が消化不良のときは、終わった後辞書や参考書で片っ端から調べて意味を類推(るいすい)した。

 その中で、原子核物理を専攻している学生ウォルター・ジンスと親しくなった。今日のウォルターは最前列に座っている。ミノルは彼の隣りに着席した。エンリコとウォルターは熱い議論をしている。途中から来た事もあって議論の内容は半分も解らなかった。コルンビア大に来て(おどろ)いたのは、ディベート形式の授業が多いということだ。講義形式の授業に慣れていたミノルには新鮮だった。

 授業が終わったあと、ミノルとウォルターは購買部(こうばいぶ)で買ったハンバーガーをかじりながらキャンパスの中庭にあるベンチに腰をかけた。左右には重厚な赤レンガ造りの校舎がそびえ立っており、それが緑の芝生(しばふ)の上に良く()えた。芝生の上には直接寝そべっておしゃべりをしている学生もちらほら見えるし、昼寝をしている老人もいる。

「原子力ってのはまだ理論上のものでしかない。しかし研究が進めば、近い将来その力を手にするときがくる。それなのに今、何に使うかの議論が欠けている。そう言ってやったのさ」
ウォルターは肩をすくめた。
「エンリコは言いやがった。たとえその力が破壊に使われることになるとしても、科学の進歩はその歩みを止めることはできないって。そんな馬鹿な理屈(りくつ)があるか」

「E=mc² ・・」
ミノルは呟いた。
物理学者アインシュタインが1905年に提示した、E(エネルギー)=m(質量)×c(光速度)の2乗、という式はすなわち、核分裂によって質量が増えればそれによって膨大なエネルギーが放出されるということを意味する。
 後に原爆を生みだす、悪魔の公式であった。

「君の大学にもすごい論文書いた人いるじゃないか。ヒデキ・アユカワといったかな」
「そうかい。どんな内容の論文だったんだい」
ミノルはその論文を知らなかった。

「確か、原子核の中に未知の粒子(りゅうし)が存在するって内容さ」
「そんなもの本当にあるのかい」
「さあな。でも、かの有名なキュリー夫人も、新たな元素(げんそ)はもうないと言われている中でラジウムを発見したろ。その時々の科学の常識はあてにならん。まあでも、見つかるのはずっと先の話さ」

ウォルターは恐らくあるというような口ぶりだった。ミノルは自分が()められたようでうれしかった。
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「こっちに来て(しばら)くたつがこちらの環境には慣れたか?」
ウォルターはハンバーガーを食べ終わると、その袋を丸めながら(たず)ねた。

「いやまだまだだね。正直ここまで違うとは思わなかったから」
ミノルもそれを見て紙袋を折り(たた)んだ。

「そんなに違うのか?」
「うーん・・・」

ミノルは紙袋をいじりながら言い(よど)んだあと聞いてみた。
「君はこの国をどう思う?」
漠然(ばくぜん)としてるな。何が聞きたいんだ?」

「え・・っと、・・君はこの亜米利加の政治に満足してるか?」
ミノルは思い切って言葉を()いた。

「どこの国でも、自分の国の政治に完全に満足している国民なんていないさ」
ウォルターはミノルを見て少し(なぐさ)めるような口調で言った。

「いやそういう意味じゃない。俺は自国の政治に不満なんかない。不満なんかないんだ。・・えっと、それで・・」

「俺は亜米利加の政治に完全に満足はしていないが・・」
ウォルターはじれったそうにミノルの言葉を(さえぎ)った。
「ある意味では大変満足している。少なくとも世界の他の国々の政治と比べた場合、それよりは(はる)かにマシだろうという点においてだ」

「どうして他の国よりマシだと思うんだい?」
「それは合衆国憲法によって基本的人権が守られているからさ」

「しかし、理想を(うた)った憲法は世界にいくらでもある。でも時の権力によって死文化(しぶんか)するんだ。所詮(しょせん)紙の上の文字にすぎない」
ミノルは投げやりに吐いた。

「亜米利加では死文化はおきない」
ウォルターはきっぱりと断言した。

「1803年、マーベリー事件においてジョン・マーシャル裁判官はこう言った。『憲法に抵触(ていしょく)する制定法は無効で、裁判所は法的審査(ほうてきしんさ)の原則に従って、憲法に従う義務がある。裁判所がそれを無視したときの憲法の状態は、もはや成文憲法(せいぶんけんぽう)を持っている意義がないことを意味する』とね」

「深すぎてよくわからないな。どういうこと?」
「つまり、裁判所は憲法に反する法律を無効とする、ということさ。そしてこれは最初の契機(けいき)にすぎなかった。この後時代を重ね判例(はんれい)が積み重なり、今では違憲立法審査制(いけんりっぽうしんさせい)というものが世界で初めて確立しつつある」

「じゃあ例えば自由な表現を禁ずる法律、もっと言えば国民全体を何かに総動員するような法律、あるいは一人に国家の全権を委任するような法律を国会が制定した場合、その法律は・・・」
ミノルは恐る恐る聞いた。彼の大学では、法学部が帝国政府からの抑圧(よくあつ)を受けていた。

「無効となる」
「無効・・」

「そして、ジョン・マーシャルをはじめとする連邦最高裁首席裁判官(れんぽうさいこうさいしゅせきさいばんかん)をこの国ではこう呼ぶ。・・・Chief justice(チーフ・ジャスティス)、とね」
「チ、チーフ・ジャスティス・・・」
直訳すれば正義の(おさ)である。正義の長・・・それが、「人権の最後の(とりで)」に対してこの国が名付けた名であった。


この国は自分の国とは正反対の方向へ何かが流れている
「この国には(かな)わない」
ミノルはオサムの言葉を思い出した。あれは映像技術の話ではなかったのかもしれない。

ミノルは自己弁護(じこべんご)のような気持ちになりながら懸命(けんめい)に言葉を発した。
「しかし現実問題として戦時になった場合は、国民を総動員し、風俗(ふうぞく)を律し、表現を検閲(けんえつ)し、持てる科学力全てを戦争に向けた国が勝つだろう。違憲立法審査制の理念は良いが、理想と心中(しんじゅう)して国が敗亡(はいぼう)するかもしれん」

ミノルにしては珍しく語気が強く荒々しかった。しかし言葉とは裏腹(うらはら)に、(おさ)えつけられていたものが一気に(ある)れ出るような不思議な感覚で体が(ふる)えた。

「短期的には総動員できる方が勝つだろう。でも何十年何百年というスパンで見た場合、そういう国は敗れ去っていくさ」
「なぜそう言える?」
ミノルは(つば)を飲み込んだ。

「なぜって、」ウォルターは静かに言った。
「人類がそういう社会を望まないからだ」


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登場人物紹介

ミノル

京安帝国大学医学部(細菌学専攻)の学生

亜矢子(アヤコ)

同智社大学文学部(英文学専攻)の女学生

四郎

京安帝国大学医学部(細菌学専攻)の学生


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