第8話

文字数 3,479文字

       8

 次の夜も安西由紀は現れなかった。つまり二日間現れなかったことになる。あの世の事情はうかがい知ることができないが、たぶん幽霊の事情というものがあるんだろう。それはそれで一向にかまわない。つまり、僕の人生にとって安西由紀は、将来なにかの拍子にふと思い出して苦笑いする、そんなただの通りすがりの幽霊だったというわけだ。のはずだった。
 安西由紀の実家に行った日から二日後の夜、バイトから帰って炬燵の暖かさに背を丸めているときに、背中がザワザワとした。入口の引き戸の横に安西由紀がいきなり登場した。
 彼女はいつものグレーのフード付きパーカーにジーンズ姿だった。髪で半分隠れた顔はなんだか疲れた表情だった。安西由紀は立っていたところに座り、両膝を抱えた。
「二日間現れなかったな」
「寂しかった?」
「まあ、なんというか……」
「いろいろと忙しいのよ」
「やることがあるのか?」
「そうなのよ。あっちの世界もこっちの世界と同じで約束ごとばかりなのよ。融通が利かない連中が多くてね……」
「そっちの世界もいろいろと大変なんだな」
「でも、悲観してばかりいてもしようがないしね……それはそうと、あなたになにか頼みごとをしていたわよね」
「実家のことだろう」
「そうそう、そうだったわ。それで行ってくれたの?」
「行ったよ」
「みんなは元気だった?」
「家族三人に会ってきた。僕がみるところ、まだ君の死を受け入れられていないようだが、みんな思ったよりも元気だった」
 つとめて明るい声を出した。
「元気なのね。嬉しいわ」
「それで、頼まれていた写真をもらってきた」
「どこにあるの?」
 炬燵の上に伏せて置いてあったフォトフレームを持って、よくみえるように彼女の足元に置いた。
 安西由紀は無言で写真をみていた。長い時間だった。ふと思った。彼女の脳裏を去来するのはなんだろうか。悲しみだろうか。やるせなさだろうか。
 瞳が潤んでいるのは明かりのせいではないだろう。無理もない。にこやかに微笑んでいる写真はたった一年前なのだ。彼女をみているとなんだかこちらも胸が熱くなってきた。
「ありがとう」
 やっと出した彼女の声は優しかった。
「写真をもらってきたということは歓迎されたのね」
「なんとかね。君からの情報が役に立ったようだ」
「詳しく教えて」
「まず仏壇がある和室に通された。君の祭壇があった。遺影は大学の入学式の写真だった」
「ああ、あれ。よく撮れているでしょう」
「ああ、黒のスーツがよく似合っていた。それからリビングに通された。そこで親父さんは横文字の冊子をずっと読んでいたな」
「相変わらずね。母は?」
「君とのこと、いろいろと質問されたよ」
「そうだろうと思ったわ」
「まず関係を聞かれた。友人と答えたよ」
「納得した?」
「たぶん。そのあと、知り合ったのはいつだ、知り合ったのはどこだ、どんな話をしたのか、などと質問された」
「なんて答えたの?」
「無難に答えたよ。そうだ、恋愛感情はなかったのかと聞かれた」
「それで?」
「大好きな友達という感情でしたと答えたよ」
「上出来ね」
「君から、悩みごとの相談はなかったかとも聞かれたな。なんでも、警察から聞かれたらしい。警察は男関係のトラブルを想定しているようだ」
「的外れね。犯人は女なのに」
「それから、警察の捜査だが、鋭意捜査中としか聞かされていないようだ」
「さっぱりということね」
「お袋さんは迷宮入りを心配していた」
「その心配はあたるかもね」
「それなんだが……」
「なによ。心配ごと?」
「君の妹だよ。なんであんなに強引なんだ」
「なにかされたの?」
「されはしないけどさ……もう少しでクソ野郎と罵倒されるところだった」
「なによそれ」
「それはいいんだが、実は、探偵ごっこに付き合わされそうなんだ」
「ははーん。わかったわ。一緒に犯人をさがしましょう、とでもいわれたんでしょう」
「あたり」
「で、どうするの?」
「適当にあしらうさ」
「簡単にはいかないわよ。彼女、しつこいから」
 姉妹揃ってだろう、といいたかったが黙っていた。
「ねえ、ミステリー小説は好き?」
「ああ、好きだよ」
「妹はレイモンド・チャンドラーが好きなのよ」
「だれそれ?」
「知らないの?」
「ああ」
「では、フィリップ・マーロウも知らないわよね」
「聞いたことがある名前だな」
 本当は聞いたことはない。
「世界一有名な探偵よ。妹は大ファンなの」
「ということは……」
「そうよ。もう止まらないわよ。頑張ってね」
「それなんだが、君の友達の山本夏海に会うことになりそうだ。もちろん君の妹と一緒に」
「夏海に? なんで?」
「山本夏海に聞いたらしい。君にボーイフレンドがいるらしいと」
「なるほど。手始めに私のまわりから事情を聞くのね。でも、犯人は女だと妹に教えられないのがじれったいわね」
「山本夏海はラグビー選手のようにガタイがいいんだって?」
「ちょっと待って。もしかして夏海を疑っているの?」
「犯人は女なんだろう。思うに、女だったら相当に力が強くないと無理だと思う」
「夏海がなんで私を殺すのよ。理由がないわ」
「君になくても向こうにあるかも知れない」
「ひどいわ。夏海を疑うなんて。彼女は私の親友よ」
「まあ、会ってみるさ。判断はそれからだ」
 本当は会いたくない。面倒くさいし、怒らせて暴力を振るわれるのも嫌だ。
「わかったわ。会えばわかると思う。だけど、あなたは妹に気にいられたみたいね」
 安西由紀がニヤッと笑った。
「気に入られるのがめずらしいみたいないいかただな」
「まあね」
「でも、いいかたは結構きつかったぜ」
「そういう子なのよ」
「僕と君の関係をしつこく聞かれた。親密な関係だと思ったようだ」
「うまくかわしたでしょうね」
「そこはうまくかわしたさ。だけど、不思議だといわれた」
「なにが不思議なの?」
「僕は君のタイプじゃないらしい。ようするに君は上昇志向が強いんだとさ」
「そんな失礼なことをいったの?」
 そういった安西由紀はほとんど笑い顔だ。
「そういえば、妹はおもしろいことをいっていた。君たち姉妹は、お互いに尊重していて干渉はしない。それでいて適度な緊張感を持っている。そんな感じなんだってさ」
「あたっているわ。さすが妹ね。よくみているわ」
「なんでも、君はさっぱりした性格で男っぽいところがあるんだってね」
「彼女がいったの?」
「ああ」
「そうね。あたっているかもね」
「それと、明るくてポジティブで、行動力があるんだとさ。短所も聞いたよ。自信過剰で諦めがいいところなんだって」
「そうかな……まあ、いいわ。これからも妹とうまく付き合ってね」
 できればそうしたくない。
「妹が通っている高校は有名な進学校なんだけど、彼女、学校はじまって以来の秀才と評判なのよ」
「本当か?」
「ああみえて切れ者よ。ちょっとクセがあるけど」
「それで思い出したが、君がまだこの世でさまよっているような気がするといっていた。感じるらしい。君の存在を」
「双子じゃないんだけど、それに近い感覚があるのよ。むかしから私たち。だから妹の感覚、わかるわ……あら、もうこんな時間。寂しいでしょうけど、そろそろ失礼するわ」
「ちょっと聞くが、君はなんで夜だけ現れるんだ?」
「幽霊は夜に出ると相場が決まっているでしょう。というのは冗談。昼はあっちの世界で忙しいのよ。だから体が空くのは夜なの」
「そうか。わかった。またな」
「たぶん明日の夜はこられないと思う。ちょっと野暮用でね」
 一週間でも二週間でもかまわない。向こうの世界でゆっくりしてくれ。
「いま、もしかして嬉しそうな顔をした?」
「まさか」
「いいわ。邪険にされても出てくるから」
「いつでも歓迎さ。君がいないと寂しいよ」
「本当に。本気にするわよ」
 駄目だ。冗談が通じない。
「どうしても会いたいときは、心のなかでひたすら私の名前を呼んで。そうしたら朝でも出てくるわ」
 たぶんそれはしない。
「いま、もしかしてあくびをした?」
「まさか」
「疲れているの?」
「ちょっとね」
「じゃあまたね」
「ちょっと待った。君に聞きたいことがあったんだ。君が持っているノートパソコンだが、中身をみられて困ることはあるか?」
「なによ。藪から棒に」
「妹がログインのパスワードを知りたがっている。事件の解決につながるような情報をみつけるつもりだ。僕も聞かれたが当然わかるわけがない」
「みられて困るようなのはないわ。あれは授業の補助用として使っていただけ。いいわ。教えてあげる」
 パスワードを二回喋って安西由紀は消えた。僕は二回復唱したあと、止まらぬあくびをかみ殺しながら、炬燵に背を丸めた。
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