第2話

文字数 4,960文字

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 布団と友達に貰った炬燵と少々の衣類、それと少々の本。それだけだった。十分もあれば片付けは終わった。夕食はコンビニ弁当だった。
 今日は居酒屋のバイトも休みだったので、ほかにやることがなく、友人に借りたミステリー小説を読むことにした。三ページほど読んだとき、暖かい炬燵のせいで眠くなってきた。寝てしまうには早すぎる。かといって本を読み続けることもできない。そんなボヤッとしていたときだった。急に背中がザワザワとした。いつものサインだった。眠気は飛んでいた。きた、と思った。
 入口の引き戸の横にアレは立っていた。
 驚いた。若い女だった。
 グレーのフード付きパーカーにジーンズ姿だった。フードはかぶったままだった。髪で半分隠れた顔は暗く、僕を睨んでいた。
 しばらくすると女は驚いた顔で口を開いた。
「私のことがみえるの?」
 こちらの視線でそう思ったようだ。
「ああ、みえるよ」
「なんで?」
 女が不思議そうな顔をした。
「なんでといわれてもみえるものはみえる」
「怖くないの?」
「怖くない」
「なんで?」
「なんでといわれても……そうだな……慣れかな」
「慣れ?」
「小さいときからそういうことを経験しているからかな」
「なんだ。つまらない」
 女が不機嫌な表情になった。
「つまらない? なんで?」
「だって脅かしがいがないんだもん」
「ここの住人たちを脅かしていたんだろう」
「そうよ」
「なんで?」
「いいじゃない。ほかに楽しみがないんだから」
「感心しないな」
「ほっといて」
「脅かすってどうやるんだ?」
「聞きたい?」
「ああ」
「耳元にふっと息を吹きかけたり、机の上の鉛筆をちょっと動かしたり、まあ、そんなとこね」
「それだけ?」
「なによ。それだけって」
「いや、たいしたことがないなって思ってね」
「だって、まだ新人だからそのぐらいしかできないのよ」
「ふーん、そうなんだ」
「こっちの世界もいろいろあるのよ」
「ふーん、そうなんだ。意外と大変なんだ」
「ここに座ってもいい?」
「どうぞ」
 女は立っていたところに座り、両膝を抱えた。
「立っていても足が疲れることはないんだけど、立ったままだとなんとなく嫌でしょう。頭の上から声が聞こえるなんて」
「炬燵に入ったらどうだ。暖かいぜ」
「大丈夫。寒さは感じないから」
 言わずもがなだった。
「ところで、君の名前は?」
「安西由紀」
「何歳?」
「二十一歳」
「よかった。名前と年齢は覚えているんだね」
「どういうこと?」
「霊によっては自分の名前などを忘れている場合もあるからね」
「なんで?」
「さあ? なんでだろう。もしかしたら死んだときのショックが大きすぎて記憶が飛んでしまうのかも知れないな」
「私は忘れていたほうがよかったのかな……」
 安西由紀が考え込む顔をした。
「それはどうかな。忘れていたほうが幸せとは限らないよ」
「そうかな……まあ、いいわ。考えてもしようがないものね」
 安西由紀がかすかに笑った。
「蜜柑でも食べる?」
 アパートを紹介してくれた友人がくれた蜜柑が炬燵の上にあった。
「ごめん。食べられないんだよね」
「大丈夫。気にしないで。ところで、まだあなたの名前を聞いていなかったわ」
「影浦」
「私と同じぐらいにみえるけど、いくつなの?」
「二十二」
「大学生?」
 たぶん知らないだろうと思いながらも大学の名前をいうと、案の定、安西由紀は少し首を傾げた。いわなければよかった。
「君も大学生?」
「うん。でも、だったというべきね」
「どこ?」
 安西由紀が答えた。だれもが知るあのK大だった。聞かなければよかった。
「三年生?」
「そうよ。あなたは四年?」
「ああ」
「就職は?」
「就活中」
「え、まだ決まっていないの」
「ほっといてくれ」
「まあ、私が心配することじゃないか」
 意外と早くこの話題を打ち切ってくれた。考えてみれば他人の就職なんてどうでもいいことだ。それに安西由紀がいち早く気づいたということだろう。もっとも、安西由紀がいらぬ口出しをするなら金輪際口をきいてやらないつもりだった。
「蜜柑を食べてもいいかな」
「どうぞ。私に遠慮はいらないわ。飲食の欲求はぜんぜんないから心配しないで」
 蜜柑を一個皮をむき、ひとふさ口に入れた。
「それはそうと、肝心なことを聞いてもいいかな」
 やはりこれは聞いておくべきだと思った。
「なに?」
「君はなぜまだこの世でさまよっているんだ?」
 成仏できないのはそれなりに理由があるはずだ。
「いいたくなければいわなくてもいいよ」
「……私、殺されたのよ」
「それは大変だ」
 いってすぐに後悔した。ふざけたつもりはなかったが、どう返事していいのかわからず、思わず軽口を叩いてしまった。
「ごめん」
「いいのよ。事実なんだから」
「話せるかい?」
「いいわよ。なんでも聞いて」
「犯人は?」
「まだつかまっていないわ」
「犯人の目星は?」
「それがぜんぜん」
「捜査の進展はどうなんだろう」
「捜査は進展していないみたいよ……ということは、私はこのまま永遠にさまっているのかな……ねえ、詳しく聞いてくれる?」
「ああ、いいよ。どうせ暇だから」
「私、刺されたのよ。いきなり背後から。マンションの駐輪場で……先月の十日よ。知らない? ニュースになったでしょう」
「さあ、どうだったかな」
「張り合いがないわね……まあ、いいわ。その日はね、土日だけやっているコンビニのバイトからの帰りだったの。いつもは午後十時十分ごろにマンションに着くんだけど、コンビニの前で友達にばったり会って話し込んだので、マンションに着いたのはたぶん三十分ぐらい遅かったわ。それで、マンションの駐輪場に自転車を止めて玄関に向かおうとしたところで背中を刺されたの」
「いきなり背後から?」
「そうよ」
「犯人の心あたりは?」
「ないわ」
「ぜんぜん?」
「うん」
「たとえば、だれかにつきまとわれていたとか」
「ストーカーということ?」
「そう」
「ないわ」
「だれかに恨まれたことはない?」
「殺されるぐらい?」
「うん」
「ねえ、私が殺されるほど恨みを買うようにみえる?」
 安西由紀が上目づかいで僕を睨んだ。
「そんなことはないと思うけど、一応聞いてみただけ……そうすると、犯人になりそうなやつが君のまわりにいないんだね?」
「いないわよ」
「そうすると、通り魔的な犯行かな」
「そうなんじゃない」
「現場はマンションの駐輪場といったよね?」
「そうよ」
「そこは人通りのあるところ?」
「ないわ。マンションの裏手で、行き止まりで、狭いエリアよ。自転車に用がある人しか行かないわ」
「そうするとどうも通り魔的な犯行はしっくりこないな……土日はバイトだといったけど、行き帰りはいつも自転車だった?」
「そうよ」
「バイトのことを知っているのはだれ?」
「私のまわりの人ならみんな知っているわ」
「そうか……」
「なによ。私の知り合いが犯人だというの?」
「絶対ないとはいえないだろう……ちなみに、そのマンションというのはどこなんだ?」
「隣よ」
「え?」
「ここの隣にマンションがあるでしょう。そこよ」
「あの高そうな洒落たマンションか?」
「そのいいかたにちょっと抵抗はあるけど、そうよ」
「ちょっと待ってくれ。すると、君はそのマンションに住んでいたのか?」
「そうよ」
「だれと?」
「ひとりよ」
 朽ちかけたボロアパートを威圧するかのように隣にマンションが建っている。安西由紀はそこに住んでいたという。それもひとりで。学生の分際で。
「なにかいいたそうね」
「いや」
「いいたいことはわかるわよ。いい身分だといいたいんでしょう」
 本当はいいたい。
「駕籠に乗る人担ぐ人そのまた草鞋を作る人」
「なによそれ」
「まあ、人それぞれだということだ」
「あなたが考えているほど高級じゃないのよ。間取りは1LDKなんだから」
 充分に高級だ。だが黙っていた。
「君、家族は?」
「質問が多いわね」
「興味があるんでね」
「まあ、いいわ。両親に妹がひとりよ」
「父親の仕事は?」
「大学教授。そいでもって母親は教育評論家」
「もしかして、テレビにしょっちゅう出ている?」
「うん」
 なるほどうなずけた。
 安西由紀が思い出したようにキョロキョロと見回した。
「いまあらためて部屋のなかをみたけど、なにもないわね。いままで三人ここに住んでいたけど、あなたが一番貧乏ね」
「特に不満はないね」
「テレビもないけど、退屈しない?」
「しないね」
「ふーん、そうなんだ」
「そうだ」
 ぼんやりとした疑問がいまやっとはっきりとした。素朴な疑問だった。
「なぜ君はこのアパートに出るんだ。住んでいたマンションに出ればいいだろう」
「だってここのほうが出やすいのよ。この古いアパートの雰囲気と幽霊の組み合わせがしっくりくるでしょう」
「たしかにいわれてみればそうだな」
「思い出した!」
 安西由紀が突然大きな声を出した。
「いきなりどうした?」
「いま思い出したんだけど、私が刺された直後、携帯に電話がかかってきたわ」
「君の携帯に?」
「違うわ。犯人の携帯よ」
「それで」
「またまた思い出した! 犯人が出たのよ。電話に」
「その場で?」
「そう。倒れている私のすぐ近くで犯人は出たのよ。またまた思い出しちゃった。なんとそれが女の声だった!」
「女の声?」
「そうよ。間違いない。女の声だった」
「本当か」
「本当よ。遠のく意識のなかで、たしかに聞いたわ。犯人の声を」
「本当に間違いないか」
「間違いないわ。なんで忘れていたんだろう……」
「だけど、そうすると犯人は女ということになる……」
「そうなるわね」
「どんなことを話していたんだ?」
「もしもし、しかわからない。そのあと意識を失ったから」
「その声が女だったというわけか」
「絶対に間違いないわ」
「それは重要な事実だよ。だけど警察はそのことをつかんでいないんだろうな」
「でしょうね……ねえ、そのことを警察に知らせたほうがいいんじゃない」
「だれが?」
「あなたが」
「ちょっと待ってよ。なんていうんだよ。殺された被害者から聞きましたなんていうのかよ」
「そうか……そうよね。信じてもらえないか」
 安西由紀は抱えた両膝に顔を伏せた。
「頭がおかしいやつだと思われるのがオチだよ。なんとか力になってあげたいけどさ……」
「悔しいわね」
「もう一度聞くけど、君を恨んでいる女の心あたりは本当にないのか?」
「何度もいうけどないわ」
「そうすると、やはり通りすがりのイカれた女の仕業か……」
「……いいことを思いついた」
 安西由紀が顔を上げた。
「ねえ、お願いがあるんだけど」
 嫌な予感がした。
「犯人をさがしてくれない」
 予感があたった。
「無理だよ。警察がさがしてもまだみつかっていないんだよ。素人には無理だよ」
「力になるっていったでしょう。私がこのまま永遠にさまっていてもいいの?」
「そんな無茶な」
「あなたは警察がつかんでいない重要な事実を知っているのよ。犯人が女だったということを」
「だからといって……」
「ねえ、力になってよ。どうせ暇でしょう」
「そうしてあげたいのはやまやまなんだが……」
「大学を出て、就職をして、恋人ができて、結婚をして、子供ができて、幸せな家庭を築く、そんな未来が私は奪われたのよ。なんとか力になってあげたいと思わないの。そんな冷たい人なの。あなたって」
「無茶をいうなよ」
「協力してくれないんだったら、あなたのそばを一生離れないからね」
「そんな」
「本当よ」
「もし、もしもだよ。僕が犯人をみつけたとしたら、君はどうなるんだ」
「成仏できるのよ。たぶん。だって成仏できないのは、不条理な死にかたをしたからでしょう。それが恨みとなって成仏の妨げになっているんだわ」
「わかったよ。なんとかやってみるよ。でも、あまり期待しないでくれよ。素人なんだから」
 そういうしかなかった。
「サンキュー」
 安西由紀が笑った。幽霊の笑い顔はみたくないが、安西由紀の笑い顔は可愛かった。
「まずはどこから手をつけるの?」
 なんだか声に張りが出ていた。
「現場をみるところからかな」
「いつから?」
「明日から」
「頑張ってね」
「君はついてこないの」
「デリカシーがないわね。自分が殺された場所になんか行けるわけがないじゃない」
「ごめん。たしかにそうだ」
「わかればいいのよ。じゃあ頑張ってね。明日またくるわ」
 安西由紀が唐突に消えた。眠気は完全に消えていた。
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