第4話

文字数 6,583文字

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 朝食は前日にコンビニで買っておいた菓子パン一個だった。それを食ってアパートを出た。晴れてはいるが寒い。大学は開店休業状態。就活もやる気はなし。居酒屋のバイトも夕方から。そんなわけでほんの散歩のつもりだった。
 相変わらず立派なマンションだった。ボロアパートを見慣れているせいか、光に反射したマンションは眩しかった。安西由紀はどの部屋に住んでいるのか聞きそびれたが、さぞかし眺めのいい部屋なんだろう。そんなことを考えているとなんだかバカらしくなってきた。帰ろうかな、と思った。だが思い直した。安西由紀が現れてネチネチと嫌味をいわれるのは嫌だ。なんといっても幽霊はしつこい。そう相場は決まっていた。
 マンションの玄関脇の細い道を通って奥に入ると、駐輪場があった。安西由紀の言う通り、裏手で、行き止まりで、狭いエリアだった。たしかに自転車に用がある者しかこないところではあるが、こようと思えばだれでも入ってこられる場所だ。
 自転車が三十台ほど置いてある。隅に眼がいった。通行の邪魔にならないところに花とペットボトルが置いてあった。しおれた花もあれば、みずみずしい花もある。ペットボトルは水とお茶とコーラ。缶ジュースと缶コーヒーもある。缶やペットボトルに付箋のような紙が貼ってあるのがある。文字がみえる。近づいてみた。
 友達が書いたのだろうか。寂しいとか、悲しいとか、安らかにとか、書いてある。残念だが安らかではない。なかには、絶対に犯人はつかまる、と太鼓判を押しているのもある。
「君は彼女の友達なのかね?」
 しゃがんで文字を追っていたら、上から突然声が聞こえた。驚いて振り向きざま立ち上がった。ふたりの男が立っていた。中年の男と若い男だった。
「悪い。驚かせたかな」
 中年の狸顔の男がそういった。 
「君は彼女の友達なのかね?」
 中年の男はもう一度同じ質問をした。
「そうですけど」
 僕がうなずくと中年の男は満足そうにニタリと笑った。
「名前を聞かせてもらえるかな」
「影浦ですけど、あなたは?」
「これは失礼。下川というんだがね。こっちは松田」
 下川と名乗る中年の男の横に立つ若いほうの松田は、下川より頭ひとつ分背が高かった。松田は僕が会釈をしても、苦虫を噛み潰したような表情をくずさなかった。
「われわれはこういう者だがね」
 下川は、コートの下に着ているスーツの内ポケットからなにやら出して開いた。警察手帳だった。手帳の写真を確認する間もなく、下川は素早く手帳を閉じてポケットにしまった。どうやら事件を捜査している刑事たちのようだった。
「彼女とは同じ大学かな?」
「違います」
「ほう。では会社員? それとも大学生?」
「大学生です」
「学生証かなにかあればみせてくれるかな」
「いいですよ」
 ポケットから学生証を出してみせた。下川刑事は学生証の写真と本人の顔をしつこいぐらいに確認したあと、使いこんだ小さな手帳を出してなにやら書いた。
「どうもありがとう」
 僕は学生証をポケットにしまった。
「彼女とはどういう関係?」
「関係というほどではないです。彼女がバイトしているコンビニで知り合って世間話をする程度です」
「世間話をねえ……」
 松田刑事がジロリと僕をみた。
「事件のことはなんで知ったのかな」
 反対に下川刑事は好々爺然とした態度だった。
「ニュースで」
「ここへはなにしに?」
「彼女がかわいそうなんで、手を合わせにきました」
「それは殊勝なことだ。ところで、君に聞きたいんだが、彼女からなにか相談を受けたことはなかったかな。たとえば、困っていることとか、悩みごととか」
「ないですね。それほど親しくないんで」
「たとえば、だれかにつきまとわれているとか」
「いや、ないですね」
 松田刑事がジロリと僕をみた。ストーカーをみるような眼つきだった。
「ところで、先月の十日の午後十時半から午後十一時半の間なんだが、どこにいたのか教えてくれるかな?」
「アリバイですか」
「まあ、そんなところかな。でも気を悪くしないでよ。みんなに聞いているんだから」
 テレビドラマに出てくる刑事はだいたいそういう。そして聞かれたほうはだいたい素直に喋る。それも、ずいぶん前のことでも覚えているから不思議だ。下川刑事には悪いが僕もそうだ。その日ははっきりと覚えている。それもそのはず、先月はその時間、ほとんど休みなしでバイトをしていたからだ。
「先月はほとんど休みなしで居酒屋でバイトでしたから、その日も午後六時から午後十一時までバイトですね。終わったのが十一時といっても、ここまで三十分以上かかりますからね。調べてもらえばわかりますよ」
 居酒屋の名前と場所を僕から聞いた下川刑事は手帳に控えた。
「その時間なんですが、はっきりとわかっているんですか」
「ああ、間違いない。被害者は午後十時までコンビニでバイトをしている。帰りぎわにコンビニの前で友達と話しているのもわかっている。その情報と検視でわかった時間だよ」
 安西由紀の話と一致する。
「ところで、君の住まいは?」
「隣のアパートです」
「隣というと、あの……」
 下川刑事は、あののあとに続くボロアパートという言葉を飲み込んだ。
「いろいろありがとう」
「捜査の進展はどうなんですか」
 帰りかけた下川刑事に質問した。やはりこの質問は聞いておかなければいけない。
「鋭意捜査中だね」
 うまくいっていないようだ。
「犯人の目星はついているんですか」
「鋭意捜査中だね」
 さっぱりのようだ。
「警察は犯人を男だとみているんですよね」
「うん? どういうことなのかな」
「犯人は女だということは考えられませんか」
「君はなぜそう思うんだね」
「いや、その……特別意味があるわけではなく……なんとなく、女でも可能なのかな、と思っただけで……」
 余計なことを聞いてしまったようだ。突っ込まれてしどろもどろになってしまった。
「われわれは男だと決めているわけではない。ただ、凶器は相当深く背中に入っているからね。女だとかなり力が強くなければ無理だろうな」
「そうなんですか……」
「君にはなにか考えがあるのかな」
「いや、特には……」
 松田刑事が下川刑事に目くばせをした。この怪しい男を署に引っ張って聞きましょうか、という顔だ。下川刑事は苦笑いを浮かべ、かぶりを振った。どうやら助かったようだ。
「じゃあ」
 下川刑事は僕にそういうと背を向けた。
「あの……」
 帰りかけた下川刑事は足を止め、振り向いた。
「なんだね」
「第一発見者はだれなんです?」
 聞かれた下川刑事の眉間に皺が寄った。怒り出すかなと思ったが、そんなことはなかった。
「ここのマンションの住人なんだがね、自転車で帰ってきて駐輪場にきたときに発見したんだよ」
「時間は?」
「夜の十一時半ごろ」
「さっき、僕のアリバイを尋ねた時刻、つまり、午後十時半から午後十一時半の間が死亡推定時刻ですか?」
「まあ、そうなるかな。そういうことが気になるのかな、君は」
「ええ、まあ。ミステリーマニアなんです」
「なるほど。もういいかな」
「ありがとうございました」
「じゃあ、また」
 下川刑事は僕にそういうと背を向けた。松田刑事も僕に鋭い一瞥をくれて背を向けた。ふたりの刑事は表通りに出ると、右に曲がって僕の視界から消えた。僕もそのあとすぐにアパートに戻った。散歩をする気は失せていた。

 バイトから帰ってすぐに炬燵に入った。部屋は冷蔵庫のなかのように冷えていて、吐く息が白く、手足は氷水に突っ込んだように痛かった。炬燵の上には、バイト帰りにコンビニで買ったペットボトルのお茶があったが、すぐは飲む気にはなれなかった。
 いまのところ兆候はない。このまま現れてくれなければそれに越したことはない。と思ったら突然背中がザワザワとした。いつものサインだ。入口の引き戸の横に安西由紀がいきなり登場した。彼女は律儀に浮気もせずに僕に狙いを定めたというわけだ。嬉しくて涙が出るほどだ。
 彼女はきのうと同じグレーのフード付きパーカーにジーンズ姿だった。やはりフードはかぶったままだった。髪で半分隠れた顔はきのうよりは明るかった。安西由紀は立っていたところに座り、両膝を抱えた。
「なんだか歓迎していない表情だけど、気のせい?」
 表情に出たのかも知れない。気をつけなければいけない。
「気のせいだよ」
「そう。それならいいのよ。で、どうだった?」
「現場に行ってきた。手を合わせてきたよ」
 その当の本人が眼の前にいる。なんだか不思議な感じがした。
「ありがとう」
「君の言う通り、マンションの裏手で、行き止まりで、狭いエリアだった。たしかにあそこは自転車に用がある人しか行かないと思う。でも行こうとすればだれでも行ける場所でもあるな」
「なにか気がついたことはあった?」
「花や飲み物が手向けてあった。友達だろうな、メッセージもあった」
「どんな?」
「寂しいとか、悲しいとか、安らかにとか、だな」
「だれからかわかる?」
「詳しくみる前に邪魔が入った。刑事だよ。現場百遍というやつかな。下川って名乗っていた。狸みたいな顔をした中年の刑事だよ。あと、やたら背が高い若い刑事もいた。松田と名乗っていた。ふたりからいろいろと聞かれたよ」
「どんなことを聞かれたの?」
「君との関係。そして僕のアリバイ。それから、君から相談を受けたことはなかったかと聞かれたよ。たとえば、困っていることとか、悩みごととか。まだある。まるでお前がストーカーだろう、みたいな眼つきで、ストーカーの相談はなかったかとも聞かれたな」
「なんて答えたの?」
「まず、君との関係は、君がバイトをしていたコンビニで知り合って世間話をする程度だと答えたよ。だから君から相談を受けたことはなかったと答えたね」
「賢明ね」
「僕の住まいも聞かれたよ」
「ここを教えたの?」
「ああ、教えたよ。別に隠す必要もないからね」
「じゃあ、ここにくるかもね」
「きたっていいさ」
「アリバイはなんて答えたの?」
「そのときはバイトをしていたと答えたよ」
「疑われなかった?」
「実際そうなんだから完璧なアリバイさ。刑事も納得したと思うよ。そうそう、死亡推定時刻を聞いたんだが、午後十時半から午後十一時半の間といっていた」
 その本人がいる前で死亡推定時刻の話はちょっと残酷かなと思ったが、本人は感じていないようだった。
「ほかにも刑事さんに聞いたことはあるんでしょう」
「事件の進展を聞いた」
「それよそれ。それが一番聞きたかったの」
「がっかりしないでよ。どうも進展がないようだ。犯人の目星もついていないようだ」
「やっぱりね。そんな気がしていたのよ。そうなると、当然ながら犯人は女だと気がついていないんでしょうね」
「そのようだ」
「その刑事さんに、犯人が女だってことをにおわせてくれなかったの? ねえ、どうなの」
「聞いたよ。犯人は女という線は考えられませんかって」
「そうしたら?」
「男だと決めつけてはいないが、女だとかなりの力が必要だといっていた」
 さすがに凶器が相当深く背中に入っていたとまではいえなかった。
「なんだか焦るわね。なんとか犯人は女だとわからせる方法はないかな……」
「そうだ。第一発見者のことも聞いた。なんでも、マンションの住人で、夜の十一時半ごろに駐輪場にきて君を発見したんだそうだ」
「そうなの。興味はないわ」
 心ここにあらずという表情だった。考えていることはわかっていた。犯人は女だとわからせる方法だ。しかしそれはかなりむずかしい相談だ。
「女が犯人だとわからせる方法を考えてみるよ。君も考えてよ」
 堂々巡りを打ち切ることを考えた。いまはとりあえず眠りたい。
「わかったわ。私も考えてみる。それで次はどうするの?」
「さて、どうするかなあ……」
 なにも考えていなかった。早くも手詰まりだった。所詮は素人だった。しかたがなかった。
「明日は何曜日?」
「日曜日だよ」
「日曜なら好都合だわ。私の実家に行って様子をみてきてくれない」
「え? 僕が?」
「気になるのよ。それで家族の近況を教えてくれない」
「気になるんだったら自分で行ったらどうなんだ」
「行けないのよ」
「なんで?」
「私はまだ新人だから遠くへは行けないのよ。行けるとしたら駐輪場からせいぜい半径百メートル圏内ね」
「本当か?」
「嘘をついてどうするのよ」
 どうもいいように使われているような気がする。どうせ暇でしょう、という顔をしている。
「前にもいったと思うけど、あらためて紹介するわ。父親の名前は照夫で五十五歳。T大の教授。母親は靖子で四十九歳。教育評論家ね。そして妹は玲奈で十七歳。高校二年生よ」
「親父さんはなんの教授なんだ?」
「物理学よ。専攻を聞きたい?」
「いや、結構だ」
「ひとつ忠告するけど、父親の前で幽霊の話なんか絶対にしないでよ。非科学的な話題になると怒り出すから」
「わかった。お袋さんはどうなんだ」
「世話好きね。話し出すと止まらないから気をつけてね」
「やはり実家に行くのはやめたほうがいいんじゃないか」
「駄目よ。もう決めたんだから」
「無茶をいうなよ。だけど、訪問の理由はどうするんだ」
「弔問にきました、とでもいえばいいんじゃない」
「着ていく服がない」
「ジーンズでいいわよ。うちはそういうの気にしないから」
「どうしても行かなければいけないのか」
「お願いよ」
 言葉は丁寧だが、眼は行けよ、といっている。
「ただし、間違っても恋人ですなんていわないでよ。友達にしておいてね」
 引っかかるいいかただ。
「いうわけないだろう」
「でも、少しは親しい友達というところをみせないといけないから、それを証明する情報を教えるわ」
「ちょっと待った。なんで親しい友達というところをみせなければいけないんだ」
「だってあなたのことは家族に話していないのよ。いきなり行って警戒されると嫌でしょう。それと妹が問題なのよ」
「どう問題なんだ」
「行けばわかるわよ。それで情報なんだけど、私の写真のことを話してほしいの。私の成人式の写真よ。たぶん私の部屋に置いてあると思うんだけど……」
 安西由紀が急に黙った。伏し目がちで唇をきつく結んでいる。急にどうしたのか、不安になった。
「どうした?」
「思い出したのよ……」
 安西由紀が泣いている。声を出さずに泣いている。言葉をかけることはできなかった。
「ごめんなさい。もう大丈夫よ」 
 ひとしきり泣いたあとに、泣き笑いの顔になった。
「三日前にマンションの私の部屋に行ってみたのよ。そうしたら、ちょうど私の荷物を運び終えてガランとした部屋で、母がひとり、号泣していたの。それを思い出して悲しくなって……」
「無理して話すこともないさ」
「いいの。もう大丈夫。それでどこまで話した?」
「写真だよ。それを話せばいいんだろう」
「うん、そうだった……成人式で撮った写真があるの。それを話題にすれば私たちはプライベートを話し合える友人だとわかるでしょう」
「わかった」
「でも、間違っても恋人だなんていわないでね」
「いうわけないだろう」
 安西由紀はいつもの態度に戻っていた。
「それでその写真をもらってきてほしいの」
「なんで?」
「それをみて私が感傷に浸りたいのよ」
 勝手にしてくれという感じだった。
「そうだ。念のためにもうひとつ情報を教えるわ。私の志望よ。私ね、アナウンサー志望なの。これは家族にしか話していない情報よ」
「ふーん、そうなんだ」
「私ね、なれる自信があったんだ。高学歴だし、容姿だって悪くないでしょう」
「ふーん」
「なにかいいたそうね」
「いや、別に」
「ねえ、幽霊になってなにが変わったかわかる?」
「いいや」
「本音がいえるということよ。自分を飾る必要がなくなったのね」
「そういうものかね」
「そういうものよ。あなたも幽霊になってみたらわかるわよ。ということでわかったでしょう。じゃあお願いね」
 結局押し切られた。
「だけど、なにを持って行けばいいのかな。そういうことは疎いんだよなあ」
「お花でいいんじゃない。お花屋さんに行って、弔問で持って行く仏花をくださいといえばみつくろってくれるわよ」
「わかった。なんとかするよ。それで今日はもういいだろう」
 いまはとりあえず眠りたい。
「眠りたいの?」
「ああ」
「生きているのも大変ね」
 そういうと、安西由紀は実家の住所を話して唐突に消えた。
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