第6話

文字数 8,057文字

       6

 東横線の都立大学が実家の最寄り駅だった。
 駅に着いたのが午後一時。途中花屋に寄ってから環七通りに出た。その環七を渡ってさらに三分ほど歩くと彼女の実家があった。住所は碑文谷三丁目。和風家屋の立派な家だった。気後れして帰りたくなった。だがここでジタバタしてもしようがない。留守を願いつつ意を決してインターホンを押した。
 すぐに反応があった。母親のようだった。ドギマギしながら名前と用件をいった。
 もしかしたら門前払いがあるかも知れないと少しの期待があった。
だがすんなりと玄関が開いた。だいぶ前にテレビでみた顔が現れた。教育評論家の母親だった。もう一度名前と用件をいった。もしかしたらここで門前払いがあるかも知れないと期待したが、そんなことはなく、家に入ることが許された。
 玄関の靴箱の上にある大きな木の根の置物に圧倒されながら靴を脱ぎ、廊下に上がった。そこでいわれるがままに横の部屋に入った。そこは仏壇がある和室だった。
 仏壇の前に白布をかぶせた祭壇があった。上段に遺影と遺骨があり、下段に線香台と燭台、そして和菓子があった。左右には菊とカーネーションの生花があり、香りを放っていた。
 母親に花束を渡し、祭壇の前ににじり寄って線香をあげ、手を合わせた。もう出ないでくれ、と念じた。
 眼の前に微笑んでいる彼女の遺影があった。黒のスーツ姿だった。
「大学の入学式の写真なんです」
 僕の視線に気がついた母親が説明してくれた。写真の彼女はいくらか誇らしげに、そしていくらかはにかんでいた。アパートでみせる表情とまるで違う表情だった。
「いい笑顔ですね」
「ありがとう」
 母親がちょっと寂しげな笑顔をみせた。そのあと、和室を出て、用意されたスリッパを履いていわれるがままにリビングに入った。
 部屋の真ん中にふたり掛けのソファーが二台。それぞれ向き合う形で置いてあり、コの字になるようにその横にひとり掛けのソファーがあった。そのひとり掛けのソファーに、白髪で眼鏡をかけた、大学教授のオーラ全開の男が座っていた。手に横文字の冊子を持ち、それに眼を落としていた。前にある大きめのテーブルには、雑誌類が山と積まれていた。
「由紀の父親ですのよ」
 母親が紹介すると、父親は眼鏡を下にずらし、上目づかいで僕をみて会釈をした。僕は慌てて名前をいって頭を下げた。母親は躊躇する僕に斟酌することなく、ふたり掛けのソファーに座るようにいった。いわれるがままに座るしかなかった。僕はどうしたら早く帰れるだろうかと、そればかりを考えていた。
 気まずい沈黙だった。母親はどこかにいなくなり、父親はだんまりで冊子に眼を落としたままだった。
 身動きができなかった。時間が長く感じた。これは拷問かと思った。息が詰まりそうになった。窒息寸前になったとき、ようやく母親がお盆に紅茶カップを乗せて現れた。一気に肩の力が抜け、僕はゆっくりと深呼吸をした。
「あなた、影浦さんとおっしゃったかしら」
 紅茶カップをテーブルの上のそれぞれの前に置いてから僕の前に座った母親は、そう聞いてきた。
「はい。そうです」
「由紀とはどういう?」
「友人です」
 間髪を容れず答えた。
「失礼ですけど由紀と同じ大学かしら」
「いいえ、違います」
 否定したあと大学名をいった。母親は心持ち首を傾げ、
「あら、そう」
 といった。父親は眼鏡を下にずらし、上目づかいでチラッと僕をみた。
「由紀と同じ三年生なの? それとも四年生?」
「四年生です」
「君、就職は?」
 父親は眼鏡を下にずらし、上目づかいで僕をみながら聞いてきた。
「あなた、失礼よ」
 怒られた父親はすぐに冊子に眼を落とした。
「いや、いいんです。生来の怠け者で就活はしていません」
「あら、そうなの」
 そういうと、母親は紅茶カップを手に取った。父親のほうは黙ったまま冊子に眼を落としていた。
 また気まずい沈黙だった。父親は冊子に眼を落としたままだし、母親は僕から視線を外さず、紅茶をゆっくりと口に運んでいた。僕はいたたまれずに、俯いたまま眼の前の紅茶カップを手に取った。
 紅茶をひとくち飲み、カップをテーブルに戻して眼を上げたとき、母親の横にいつのまにか若い娘が座っていた。
 部屋着というのだろうか、黒の上下のジャージを着た娘は彼女によく似ていた。髪がショートなところが違っていた。どうやら彼女の妹のようだった。妹らしき娘は、母親と同様に僕にまっすぐ視線
を向けていた。
「由紀と知り合ったのはいつごろなの?」
 母親の尋問が再開した。
「割と最近です」
「知り合ったのはどこなの?」 
「由紀さんがバイトをしていたコンビニで知り合いました」
「あなたもそこでバイトを?」
「いいえ違います。買い物に行ったときになんとなく話をするようになったんです」
「それで、由紀とはどんなお話をしていたの?」
「どんな話といっても……本当に世間話程度でして、映画とか音楽とか、そんなとりとめのない会話ばかりでした」
「あら、そう。お付き合いをしていたわけではないの?」
「友人です。たまにコンビニで会うと世間話をする程度の友人なんです」
 友人のところに力を込めた。
「本当にそれだけですの?」
「はい。本当にそれだけです」
「では、コンビニ以外で会うことは?」
「ありません」
「ねえ、影浦さん、あなた、由紀から相談を受けたことはなかったかしら。たとえば、困っていることとか、悩みごととか」
「相談ですか? いや、ないですね。そこまで親しくなかったので」
「警察に聞かれたのよ。由紀にトラブルはなかったかと。警察は男関係のトラブルを想定しているみたいなのね……ねえ、由紀には付き合っている男性はいなかったのかしら」
 さぐるような視線で聞いてきた。
「さあ……どうでしょう。僕は知りません」
「由紀はあなたの前ではどうだったの? 明るい子でした?」
「はい。活発で明るかったですよ」
「そうなの……」
「普段の由紀さんはどんなお嬢さんでしたか?」
 場を持たせるためにとりあえず聞いた。
「明るい子よ。でもね、ちょっと奥手なところがあったわね」
 嘘だろうと思った。
「でも、あなたにはなんでも話せたのかもしれないわね」
 そんなことはありません、ともう少しで口に出すところだった。
「ところで、影浦さん、ひとつお聞きしてもいい?」
「はい」
「由紀のこと、あなたはどう思っていたの?」
「どうとは?」
「恋愛感情よ。どうなの?」
 ストレートな質問だった。どういおうか迷った。なんとも思っていませんでしたは論外だろう。親としてはそんな答えは期待していないだろう。だが、あからさまな答えも論外だろう。ここはオブラートに包んでソフトに。
「彼女のことは好きでした。恋愛感情というよりは大好きな友達という感情でした。話をしていて楽しかったです」
 自分としては上出来だ。
「嬉しいわ。由紀もあなたとお話ししていて楽しかったと思うわ」
 それはどうだろう。もし生前に本当にコンビニで会ったとしたら、彼女は僕なんか無視するだろうと思った。
「ちなみに、事件のことはなんで知ったのかしら」
「ニュースで知りました。もっと早くおうかがいしたかったのですが、ご迷惑かなと思いまして……」
「きてくださって由紀も喜んでいると思うわ。どうもありがとう」
「いいえ」
 僕は軽く頭を下げた。  
「実は、最近現場の駐輪場にも足を運んだんです」
 いってしまってからしまったと思った。ちょっと酷な話題だった。
「そうなの。ありがとう。でもあんな場所でね……由紀がかわいそう……」
 しんみりさせてしまった。いたたまれずにすぐに口を開いた。
「実は、その横にあるアパートに住んでいるんです」
「横というと、あの……」
 母親は、あののあとに続くボロアパートという言葉を飲み込んだ。
「由紀さんは駐輪場があるマンションにお住まいなんですね」
 なんだか余計なことばかり話しているような気がする。
「あら、詳しいのね」
「まあ、なんというか……」
「あなたは由紀の部屋に行ったことはないの?」
「ありません」
 即座に否定した。
「そうなの……私ね、すごく後悔しているのよ。由紀がひとり暮らしをしたいといったときに許したことを。ここにいればあんなことにならなかったのに、と思って……」
「彼にそんなことをいってもしようがないだろう」
 父親が口を出した。
「そうね。ごめんなさいね」
 母親が僕に頭を下げた。妹らしき娘が母親の肩にそっと手を乗せた。
「どうか自分を責めないでください。由紀さんが悲しみます。むしろお母さんに感謝していると思いますよ」
 思わずキザな言葉が口をついて出た。自分でも驚いた。
「ありがとう」
 母親は優しさに溢れたまなざしで僕をみた。
「紅茶のおかわりはいかが?」
「いただきます」
 反射的にいってしまった。紅茶が飲みたいわけではなかった。雰囲気を変えたいとの思いだけだった。
 母親が僕の紅茶カップを持って離れて行った。
 妹らしき娘と眼が合った。僕はすぐに眼を逸らした。彼女が無言で射るような視線を僕に向けているのがわかった。どうも僕を歓迎していないようだ。父親のほうをそっとみた。父親は相変わらずだんまりで冊子に眼を落としたままだった。胃が痛くなってきた。
 母親が僕の紅茶カップを持って戻ってきた。ほっとした。また妹らしき娘と眼が合った。優しいまなざしではなかった。いたたまれずに口を開いた。なんだか蟻地獄から這い上がれない蟻の心境に近かった。
「ところで、事件ですが、進展はあるんですか」
「それがね。さっぱりなのよ」
 母親が答えた。
「警察はなんて?」
「鋭意捜査中としかいわないのよ。これで迷宮入りにでもなったら悲しむのは由紀よ。これでは成仏できないわ」
「ええ、そうなんです。彼女はいまだに成仏していません」
「え?」
 母親が不思議そうな顔をした。父親は眼鏡を下にずらし、上目づかいでジロリと僕をみた。妹らしき娘が眉間に皺を寄せた。
「いや、その、そうじゃないかと思って……彼女はさぞかし悔しいでしょうね」
 危ない危ない。
「本当ね。由紀は悔しいはずよ」
「そう思います。アナウンサー志望のことは聞いています。それも叶わぬことになったんですから」
「あら、由紀がアナウンサー志望だったことをご存知なの?」
 母親がおやという表情をした。
「はい。聞いていました」
「そうなの……」
 時計をみた。思わず長居をしてしまった。
「では、そろそろ失礼します。今日は突然お邪魔しまして申し訳ありませんでした」
「いいのよ。由紀も喜んでいるわ」
「おいとまする前に、お願いがあります」
「なにかしら」
「由紀さんから成人式の写真があるとお聞きしました。その写真をいただけないでしょうか」
「写真を?」
「はい」
「由紀はそんなこともあなたに話していたの?」
「はい」
「その写真をどうするの?」
「由紀さんの思い出として部屋に置いときます」
「そうなの……いいわ。成人式の写真は何枚もあるからかまわないわよ」
「ありがとうございます」
「その写真をみて由紀のことをいつまでも忘れないでくださいね」
「はい」
 できれば忘れたい。
「私が部屋に案内するわ」
 妹らしき娘がはじめて口を開いた。
 母親と父親に交互に頭を下げてリビングを出た。その足で妹らしき娘のあとについて二階に上がった。
 ベッドと机と小ぶりのテーブル。それにテレビと本箱と花柄のカーテン。あとはお決まりの人形とぬいぐるみのたぐい。若い娘の部屋のイメージどおりだった。ただ、マンションから移動してきた由紀の持ち物は、部屋にきれいにおさまっているが、どこか寂しげだった。
 机の上に小さなフォトフレームに入った例の写真があった。由紀は着物を着てにこやかに微笑んでいた。
「自己紹介をするわ。私は玲奈。高二よ」
 高二にしては背が高く、ハスキーボイスの玲奈は、僕の顔から視線を外さなかった。
「お姉さんから噂は聞いているよ」
「どんな噂?」
 まずい。つい余計なことを喋ってしまった。
「才気煥発、頭脳明晰、容姿端麗、申し分のない妹だと話していたよ」
「ふざけているの?」
「真面目だよ」
「容姿端麗まではその通りだけど、そのあとはあなたの創作でしょう? 姉はそんなことはいわないわ」
 もしかしてこの姉妹は仲が悪いのか。
「最初、あなたのことをどう思ったかわかる?」
 腕組みをして僕の正面に立った玲奈は、少し意地悪そうな表情をしてそう聞いてきた。
「いいや」
「姉へのストーカーか、もしくは冷やかしできたクソ野郎かと思ったわ」
 これで射るような視線の意味がわかった。同時に、妹が問題だといった由紀の言葉の意味もわかった。
「いまは違うのか」
「まだわからないわ。でも、ストーカーじゃないみたいね」
「あたり前だ」
「ねえ、あなたは姉の恋人じゃないの?」
「違うよ」
「本当にただの友達なの?」
「そうだよ」
「不思議なのよ」
「なにが?」
「姉はあなたにプライベートなことまで話していたんでしょう」
「まあ、ある程度は」
「だから不思議なのよ。コンビニで世間話をする程度の仲だというのが」
「どうして?」
「姉がアナウンサー志望だったことは家族しか知らないはずなのよ。姉が生前そういっていたわ。家族にしか話していないと。それに写真のこともあなたは知っていた。だから姉とはよほど親密な関係だったとしか思えないのよ。でもなにかおかしいのよね」
「なにがおかしいんだ」
「姉は上昇志向が強いのよ。悪い意味ではなくてよ。だからあなたは姉のタイプじゃないのよね」
 グサリときた。
「怒った?」
「いいや。このぐらいで怒るほどヤワじゃない」
「頼もしいのね」
 僕の顔をみながら玲奈はニヤリと笑った。
「だけど、どうみても姉のタイプじゃないのよね」
 玲奈は僕の顔を間近でしげしげとみてそういった。
「だから、世間話をする程度の友達だといっただろう」
「わかったわ。もうこの話題はやめましょう。ねえ、話は変わるけど、あなたに霊感はある?」
 ドキッとした。
「なんでそんなことを聞くんだ」
「さっき姉は成仏していないといったでしょう。なにか思いあたることでもあるの?」
「ないよ。あれは口がすべっただけだ」
「すべった?」
「いや、だからただの言い間違いだよ」
「ふーん、そうなの……私ねえ、姉がまだこの世でさまよっているような気がするの」
 ドキッとした。
「なにか根拠はあるのか」
「ないわ。ないけど感じるのよ。姉の存在を」
「君こそ霊感があるんじゃないのか」
「そうなのかな……」
「いずれにしても考えすぎだよ。気持ちはわかるけどね」
「そうね。そんなことあるわけないもんね」
「突然身内を喪った家族はみんなそう思うものなんじゃないかな」
「そうね。私たち家族はまだ姉の死を受け入れられていないのよ。気丈に振る舞っているけどね」
「気持ちはわかるよ」
「母はずいぶんと口数が減ったわ」
 嘘だろう。
「父もなんだか元気がなくなったわ。私だってひとりのときは泣いてばかりいるのよ」
「気持ちはわかるよ」
「本当よ。わかるでしょう」
「もちろんわかるよ」
 玲奈は僕のそばから離れ、机の椅子に座った。僕は立ったままだった。
「そのベッドに腰かけたら」
 僕はいわれるがままベッドの端に腰かけた。
「話は変わるが、君からみたお姉さんの性格を教えてくれないか」
「性格?……そうね。さっぱりした性格ね。私もそうだけど、ちょっと男っぽいところがあるわ」
「君もそうなのか」
「姉ほどじゃないわ」
 今度出てきたときに聞いてみるか。
「明るくてポジティブね。行動力はあるわよ」
「短所は?」
「そうね……自信過剰なところかな。諦めがいいところもそうね。でもこれは長所でもあるわね」
 これも今度出てきたときに聞いてみよう。
「あなたからみた姉の性格はどうなの?」
「あながち外れてはいないな」
「なんだか自信がない答えね」
「そんなことはないさ。ときに、君たち姉妹の仲はどうだったんだ」
「どうとは?」
「仲はよかったのかなと思ってさ」
「悪くはないわよ。お互いに尊重していて干渉はしない。それでいて適度な緊張感を持っている。そんな感じかな」
「いい関係じゃないか」
「姉から私の噂を聞いているといってたけど、もしかして悪口も聞いていたんじゃないの」
「そんなことはないよ。ところで、さっきお母さんからお姉さんのトラブルのことを聞かれたけど、君はなにか知らないか」
 急いで話題を変えた。
「知らないわ」
「お姉さんだが、交際している男性はいなかったのかな」
「気になるの?」
「いや,そういうわけではないが」
「たしか同級生のボーイフレンドがいるとかいないとか、聞いたような気がするわ」
「だれに聞いた?」
「姉の同級生の山本夏海さん」
「ふーん、山本夏海ね……」
「知っているの?」
「いや、知らない」
 由紀のいった言葉を思い出した。犯人は女。
「その山本夏海はお姉さんと仲がいいのかな」
「いいんじゃない」
「トラブルになっていた、なんてことはないのかな」
「知らない……なんでそんなことを聞くの?」
「いや、特に意味はないよ……」
「もしかして彼女に興味があるの?」
「ちょっとね。どんな子かなって思ってさ」
「姉以上に男っぽいわよ。ラグビー選手のようにガタイがいいわ」
「本当か!」
「なによ、大きな声を出して」
「いや、つい興奮して」
「もしかして好み?」
「いや、そういうわけじゃないよ」
「会うつもり?」
「さあ」
「会うんだったら私も一緒に会うわ」
「君も?」
「もしかしたら事件のヒントがつかめるかも知れないでしょう」
「おいおい、探偵ごっこかい」
「だって警察は頼りにならないんだもん。ねえ、協力してくれるでしょう」
 僕は蟻地獄の底でウスバカゲロウの幼虫につかまった蟻だった。
「ねえ、犯人は顔見知りのやつだと思う? それとも面識のないやつだと思う?」
「五分五分かな」
「警察と同じことをいわないでよ」
「しょうがないだろう。いまはなにも手掛かりがないんだから」
 本当はある。あるがいえない。犯人は女だという由紀の記憶だ。
「君の見立てはどうなんだ」
「あんなどん詰まりの場所で、通りすがりのイカれたやつが、だれかを待ち伏せしているとは思えないのよね。あなたも現場に行ったからわかるでしょう」
「ああ、そうだな」
「だから、面識のあるやつだと思う。だけど、怨恨の線はどうかなあ。姉は殺されるほど恨まれていたとはどうしても思えないのよね。家族だからそう思うじゃなくてよ。私は私たちが知らないストーカーがいるんじゃないかと思うの」
「僕じゃないよ」
「わかっているって。あなたじゃないわ」
「念のためにいうが、現場に行ったときにたまたま刑事に会ってね。そのときにアリバイを聞かれた。刑事も納得したが、僕のアリバイは完璧だからね」
「大丈夫よ。疑ったりはしないから」
「おや、とんだ長居をしてしまった。写真をもらってそろそろ帰るよ」
「これからの予定は?」
「バイトだよ」
「そう。大変ね。それはそうと、あのパソコンなんだけどね」
 机の上のフォトフレームの横にノートパソコンが置いてある。それを玲奈が指で示した。
「姉が普段使っていたパソコンなんだけど、あなた、ログインのパスワードを知らない?」
「なんで僕が知っていると思うんだ?」
「もしかして姉から聞いているんじゃないかと思ったの」
「知らないよ」
「そう。知らないんだ。もしかして事件のヒントになるようなことがみつかるんじゃないかと思ったのよね。いろいろ試してみたんだけど、駄目なのよ」
 玲奈が悔しそうな表情をした。もう少しで、聞いてみるよといいそうになって慌てた。
「そうそう、あなたの携帯の番号を教えて」
「ないよ」
「え、ないの?」
「ああ、貧乏学生に携帯は必要ない」
 玲奈の軽い舌打ちを聞いたあと、すぐに写真をもらって僕は安西家をあとにした。
 
 この夜、安西由紀は現れなかった。祭壇の前で、もう出ないでくれ、と念じたのが通じたのかも知れない。ちょっと寂しい気がしないでもないが、もちろん文句をいう筋合いではない。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み