第10話

文字数 4,080文字

       10

 街はクリスマスソングでかまびすしいが、貧乏学生には関係がない。今日も、昼食というか間食に近い朝食兼昼食に前日にコンビニで買っておいたおにぎりを食べ、久しぶりに大学に顔を出そうかやめようか迷いながら、踏ん切りがつかずにグズグズとしていた。
 時計をみるともう午後三時。今日のバイトは遅い時間だ。時間はまだたっぷりある。ちょっと遠いが久しぶりに銭湯に行ってもいいな、などと考えていた。そのとき、入口の引き戸を叩く音が聞こえた。
 だれかがきたようだ。こんなボロアパートにセールスがくるわけがない。友達でもない。友達はノックなどしない。いきなり入ってくる。しかたなく返事をした。
 入ってきたのは安西玲奈だった。呆気にとられて固まっている僕のそばにつかつかと寄ると、部屋のなかを見回し、ずいぶん殺風景ね、といった。
「どうしたの。鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をして」
 僕の顔をまじまじとみながら玲奈はいった。
「なにかいいなさいよ」
 母親に叱られた子供のように僕はやっと声を出した。
「なんでここがわかったんだ」
「姉のマンションの隣に住んでいると母にいったでしょう」
「そうだったかな」
「アパートの前の道路を掃いていたオバサンは大家さんなんですってね。あなたの部屋を聞いたら教えてくれたわ」
「まずい。それはまずいよ」
「なにが?」
「あのオバチャンは回り出すと止まらない舌を持っているんだぜ」
「噂が広まるというわけ? いいじゃない。気にしなければ」
「それはそうだが……ところで、こんな時間になんだよ。学校はどうしたんだ」
 玲奈はダッフルコートの下に高校の制服を着ていた。
「今日は授業が早く終わったの。だから約束を実行しにきたのよ」
「なんだ約束って」
「山本夏海さんに会うんでしょう」
「ああ、あれか。別に今日じゃなくてもいいだろう」
「駄目よ。もう約束ずみなんだから。好機逸すべからず、というでしょう。さあ、行くわよ」
「いまからか?」
 玲奈は大きくうなずき、僕の背中を押した。
 アパートを出たところで大家のオバチャンに会った。オバチャンは僕だけにみえるように、意味ありげにウインクをした。ゾッとした。オバチャンの誤解を解くことは金輪際無理だと思った。
 待ち合わせの場所は近かった。K大の近くのコーヒーショップだった。スイーツもあるのでなかは女性客で混んでいた。それだけでも気後れしていた。
「山本夏海さんよ」
 入ってすぐに彼女をみつけた玲奈はそっと僕に教えた。
 山本夏海は遠くからでもわかるほど存在感があった。髪を無造作にうしろで結わえた山本夏海は、濃紺のトレーニングウェアを着て、窓側のテーブル席に座ってパンケーキを食っていた。
「お久しぶりです」
 玲奈がしおらしい声を出して山本夏海の前の席に座り、スクールバッグを下に置いた。僕はその横に座って軽く頭を下げた。山本夏海は僕の顔をジロリとみて、意味ありげにニヤリと笑った。
「すみません。お呼びだてして」
 玲奈が軽く頭を下げた。
「いいのよ」
 山本夏海が玲奈に向かってうなずいた。
「トレーニング中だったんですか?」
「ああ、これ?」
 山本夏海は自分のトレーニングウェアを指差した。
「終わって帰るところよ」
 山本夏海はそういうと、屈託なく笑った。ラグビー選手のようだといった玲奈の言葉は、本当かも知れないと思った。
「もう落ち着いた? そんなわけないか。ごめんなさいね」
 山本夏海が優しい声を出した。
「いいんです。なんとか落ち着きました。その節はありがとうございました」
「由紀の葬儀では声もかけられなくてごめんなざいね。私もショックでね。涙は枯れたわ……でも玲奈ちゃんは思ったよりも元気そうで安心したわ」
「ありがとうございます」
 玲奈がしおらしい声を出した。
「由紀ともう会えないんだと思うと寂しいわ。ここでふたりでよくパンケーキを食べたのよ」
 山本夏海がしんみりとした声を出した。
「夏海さんは姉の無二の親友でしたものね……」
 玲奈が泣き出しそうな声を出した。
「ごめんね。悲しい話はやめましょう」
「はい」
「玲奈ちゃんは相変わらず勉強ばかりしているんでしょう」
「そんなことないです」 
 またもや玲奈がしおらしい声を出した。尻がムズムズしてきた。帰りたくなってきた。
 店員がきたので僕はコーヒーを頼んだ。玲奈は紅茶だった。
「それで、なに、横の彼は玲奈ちゃんの彼氏?」
 店員が去ると山本夏海が僕の顔をみて聞いた。
「違います。この人は影浦さんといって姉の恋人です」
 おいおい。
「本当?」
 しかたがないのでうなずいた。くる途中、玲奈からは、私のいうことに反論したり否定したりするなといわれていた。
「もしかしてK大?」
「違います。この人はW大です」
 おいおい。
「でも、由紀からひとことも聞いていなかったわ」
「姉は秘密にしていたみたいです」
「由紀が? 隠していたの? なんで?」
「たぶん、大事な人なんで、そっとしておいてほしかったんだと思います」
 そこまでいうか。
「ふーん」
 こいつが、という眼で山本夏海が僕をみた。もっともだと思った。
 店員が注文した飲み物を持ってきた。僕の前と玲奈の前に置いて去ると、玲奈が口を開いた。
「ところで、夏海さん、姉につきまとっていた男はいなかったんでしょうか。なにか聞いていませんか?」
「ストーカーってこと?」
「はい」
「警察にも聞かれたんだけどね。なにも聞いていないわ」
「そうですか」
「捜査のほうはどうなの? なにか聞いている?」
 山本夏海が声を落とした。
「いまのところなにも」
「進展なしか……早く犯人がつかまるといいわね」
「はい」
 玲奈がしおらしい声を出した。
「それで、夏海さん、今日お呼びしたのは、もうひとつお聞きしたいことがあったんです」
「なに?」
「以前、姉に交際している男性がいるようだ、と私に話してくれたじゃないですか」
「そうだった?」
「家に遊びにいらっしゃったときに、姉に内緒で話してくれたじゃないですか」
「ああ、そうだったわね。思い出したわ。それで?」
「その男性ってだれなんですか?」
「聞いてどうするの?」
「この人が」
 といって玲奈は僕のほうに向かって顎をしゃくった。
「姉のことをすべて知りたいんですって。理由は聞かないでくれというから、夏海さんも聞かないでください」
 そこまでいうか。
 座っているのがつらくなってきた。山本夏海は変人をみる眼で僕をみている。
「いいわ。理由は聞かない。隠すほどのことでもないから教えるわ。でも、由紀から付き合っていると、はっきり聞いたわけじゃないのよ。だからあくまでも私感よ。それでいいのね」
 玲奈がうなずいた。僕もしかたがないのでうなずいた。
「相手は、君塚翔太。同級生よ。玲奈ちゃんは知らない?」
「知りません」
「そういえば、彼も由紀の葬儀に顔を出していたはずよ。玲奈ちゃんは気がつかなかった?」
「大勢いたのでわかりません」
「そうよね。影浦さんは葬儀には?」
「この人はそのときたまたま海外にいたので葬儀にはきていないんです」
「そうです」
 僕は慌てて返事をしながら、玲奈はよく頭がまわるなあ、と感心していた。
「夏海さんは君塚翔太さんと親しいんですか?」
「それほど親しくはないわ。二、三回話をしたことがある程度よ。どちらかというと、玲奈ちゃんも知っている遠山芽衣と親しいはずよ」
「遠山芽衣さんは姉の友達で同級生よ」
 玲奈が僕に説明してくれた。
「君塚翔太さんってどんな人なんですか?」
「私も詳しくは知らないんだけど、なんでも父親は政治家らしいわよ。いずれは彼も政治家ね。まあ、ひとことでいえば、お坊ちゃんね。それも極めつきの。わかるでしょう。ちょっとイケメンで、まわりにいつも二、三人の女の子がいて、外車に乗っているようなタイプ。大きな声でいえないけど、日本の将来を託すと思うとなんだか寒気がするわね。おっと、これは内緒よ」
 口調に毒があった。それだけで山本夏海が好きになった。
「そんなタイプと姉は付き合っていたんですか?」
「だから噂よ。一度由紀に確かめたことがあるの。そうしたら肯定も否定もしなかったわ。私の感じでは、付き合っていたとしても、浅い付き合いね」
「その君塚翔太さんとお会いしたいです。夏海さん、仲介の労をとっていただけないでしょうか」
「会いたいの?」
「はい」
 勢いよく返事をしてから玲奈は、山本夏海にわからないように僕の靴を踏んだ。
「はい」
 僕も急いで返事をした。
「わかったわ。玲奈ちゃんの頼みとあらば断れないものね」
「すみません」
 玲奈が頭を下げた。僕も急いで頭を下げた。
「ちょっと待ってて」
 山本夏海が携帯を持って立ち上がり、店の外に出て行った。
「なんだかおもしろくなってきたわね」
 玲奈が弾んだ声を出した。犯人は女だといえないのがもどかしい。
 八分ほどして山本夏海が戻ってきた。
「芽衣に電話して彼の番号を聞いてかけたわ。彼ね、金曜日だったら会えるって。それも午後四時の三十分だけ。なんでもそのあと約束があるらしいわ。たぶんデートよ。玲奈ちゃん、どうする?」
「会います」
「学校は大丈夫?」
「その時間だったら大丈夫です」
「じゃあ彼の携帯の番号を教えるね」
 玲奈は番号を聞いて手帳にメモをした。
「どうもありがとうございました」
「だけど、玲奈ちゃん、彼は女にだらしがないから気をつけなよ。いろいろ噂があるのよ。なんなら私が同席しようか?」
「私なら大丈夫です。影浦さんも一緒ですから」
「そう。なら安心ね」
 言葉とは裏腹に僕をみる眼はきびしい。頼りないのは自分でもわかっている。腕力は山本夏海のたぶん半分だ。度胸もたぶん半分だ。
「もういい?」
「はい。どうもありがとうございました。それからここのお金は影浦さんが払います」
 おいおい。
「いいの?」
 山本夏海が嬉しそうな声を出した。この出費は正直痛い。
「私はこいつを片付けてから出るわ」
 山本夏海が眼の前のパンケーキを指差した。
 玲奈とは店を出てから別れた。僕はアパートにいったん戻りすぐに出た。バイトの時間が迫っていた。
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