第16話

文字数 13,003文字

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 メモ用紙と鉛筆を持って近くの公衆電話に着いたのが、朝の九時五分前。いつもなら寝ているか起きたての時間だ。だから頭のなかが少しモヤっていた。
 父親や玲奈が出ないようにと強く願いながら電話をかけた。呼び出し音六回で相手が出た。母親だった。胸を撫で下ろした。名前をいうと覚えていてくれた。
「あら、影浦さん」
「先日はお邪魔しました」
「こちらこそありがとう」
 どう切り出そうか考えた。
「玲奈にご用なのね。いま呼ぶので待っていてね」
 慌てた。
「いや、違います。お母さんにお聞きしたいことがあります」
「私に? なにかしら」
「由紀さんの事件のことです」
「はあ」
「事件の第一発見者をご存知ないでしょうか?」
「知っているわよ」
 いきなり答えが出た。
「お会いしたことはありますか?」
「あるわよ」
「本当ですか」
 声が震えた。
「どうしたの?」
「どんな人物なんですか?」
「聞いてどうするつもり?」
「事件の詳しい状況をお聞きしたいと思います」
「そうなの。でも、私が聞いたときはそれほど参考になるような話は出てこなかったわよ」
「僕なりに区切りをつけたいと思いまして」
「そうなの……わかったわ。それで影浦さんがお知りになりたい情報はなに?」
「まず名前ですね」
「堀江仁志さん」
「男ですか……」
「そうよ。どうしたの。がっかりしたような声を出して」
「いいえ、なんでもないです。年齢は?」
「二十代後半かな」
「すると学生ではないんですね」
「会社員と聞いたわ」
「会社名はわかりますか?」
「そこまではわからないわ」
「あのマンションにお住まいなんですね」
「そうよ。二階の二十一号室よ」
 メモをする手が汗ばんでいた。
「彼ね、運動をやっていたみたいね。がっしりした体型よ。ちょっとイケメンね」
「そうですか」
 メモ用紙がだいぶ埋まってきた。
「独身ですかね」
「そこまではわからないけど、たぶん独身ね。あとはなに?」
 考えたが思いつかない。女でなかった時点で興味が半減した。
「彼ね、おもしろいのよ。おもしろいっていうと怒られるかな……ちょっと影浦さん、聞いている?」
「あ、はい。聞いています」
「姿をみないと男の人とはわからないのよ」
「はあ?」
「いや、だからね。姿と声のギャップがすごいのよ」
「どういうことです?」
「声はまるで女性みたいなの」
「え!」
「どうしたのよ。大きな声を出して」
 心臓が口から出そうになった。呼吸困難になり、足が震えた。
「ちょっと影浦さん、聞いている?」
「あ、はい。聞いています」
 声がやっと出た。
「会うのはいいんだけど、声を聞いて笑ったりしては駄目よ。本人は気にしているみたいだから」
「あ、はい。わかりました」
 礼をいって電話を切った。
 足が震えているせいか、何回か転びそうになってアパートにたどり着いた。
 考えがまとまらない。部屋のなかをグルグルとまわった。
 堂々巡りをしていた思考が、ようやくある一点にまとまった。時計をみると正午はとっくにすぎていた。食欲はない。食べるつもりもない。
 これからの段取りを組み立てた。やることは決まった。ノートの一ページを破り、手紙を書いた。長い文章はいらない。簡潔で要点だけを書いた。時計をみると午後三時。急がなければならない。あとは由紀だ。由紀には事前に話をしておく必要があると思った。
 会いたいと思ったときは心のなかでひたすら名前を呼べといっていた。まさか実行することになるとは思ってもみなかった。
 心のなかでひたすら名前を呼んだ。五分がすぎた。もしかしたらからかわれたのか、と思ったとき、背中がザワザワとした。入口の引き戸の横に安西由紀がいつものナリで登場した。
「呼んだ?」
 安西由紀が呑気な声を出した。
「大変なことがわかった」
「どうしたのよ。興奮して」
「まあ座ってくれ」
 安西由紀は立っていたところに座り、両膝を抱えた。
「堀江仁志のことだ」
「だれよそれ」
「第一発見者だよ」
「名前がわかったのね。ということは母に聞いたのね」
「そうだ。君の言う通りお袋さんは会っていた」
「やはりね」
「堀江はとんでもない特徴を持っているらしい。お袋さんが教えてくれた。堀江は声が女みたいなんだとさ」
「うん? もう一回いって」
「だから、男なんだが声は女のようだってことだ」
「ということは……」
「だから、君がいまわのきわに聞いた声は、女の声ではなくて、女のような声だったんだよ」
「ということは、そいつが犯人?」
「おそらく」
「ちょっと深呼吸させて」
 安西由紀がゆっくりと深呼吸をした。
「落ち着いたか」
「なんとか。それで、そいつの素性は?」
「お袋さんから聞いた情報によるとだな、名前はいまいったように堀江仁志。年齢は二十代後半。会社員。会社名はわからない。がっしりした体型でちょっとイケメン。たぶん独身」
「何号室?」
「二階の二十一号室。会ったことはあるか?」
「さあ、どうだろう。たぶんないと思う」
「堀江仁志という名前に覚えは? もう一度思い出してみてくれ」
「ちょっと待って。思い出してみる……」
 こんな真剣な安西由紀の顔をみるのははじめてかも知れない。
「やはりないわ。会ったこともないはずよ」
「君が知らなくても向こうは知っているはずだ」
「そうね。それでこれからどうするの?」
「準備万端。段取りは考えた」
「教えて」
「堀江を引きずり出す。そのために手紙を書いた。駐輪場に呼び出す内容だ。どうするかというと、まず玄関ドアの郵便受けに手紙を投函する。そのあと、約束の時間になったら駐輪場で待つ。こういう段取りだ。今日は日曜日だからやつは部屋にいると思う」
「その手紙はいま手もとにあるの?」
「あるよ」
 僕は炬燵の上にある紙を指差した。
「読んで聞かせて」
「安西由紀さんが殺された日は十一月十日。時間は午後十時半すぎ。ちょうどその時間にマンションの駐輪場であなたの声を聞きました。どういうことでしょうか。警察に行く前に一度あなたに事情をお聞きしたいと思います。今日、午後七時、駐輪場にきてください」
「内容はわかった。それで、呼び出してどうするつもり?」
「決まっているさ。お前が犯人だといってやる。それで自首をすすめる」
「テレビドラマだったらここで簡単に自供するけど、現実は違うと思う」
「そんなことはわかっている。目的は堀江をジワジワと追い詰めることだ。そこでボロを出すのを待つ」
「目的はわかった。でも、くると思う?」 
「くるさ。そのために、投函する時間とそのあと堀江が手紙を発見して読む時間も考えて午後七時にしたんだ」
「こなかったらどうするつもり」
「今日こなかったら何回でも手紙を投函してやるつもりだ」
「だけど、危なくない? ひとりで大丈夫? 警察を頼るわけにはいかないしね。心配だわ」
「細工は流々仕上げをご覧じろ」
「策士策に溺れる」
「嫌なことをいうなよ。なんとかなるさ。危ないとわかったら逃げるよ。これでも逃げ足が速いんだ」
 本当は自信なんかない。腕力はないし、度胸もない。心臓はバクバクだ。わかっている。なんでこうなってしまったのか、後悔がいまも頭の片隅から離れない。だがもう引き下がれない。なるようになるだろう。このときばかりは、楽天的な性格がつくづく疎ましく感じられた。
「ねえ、聞いている?」
「うん? なに?」
「夏海に助太刀を頼んだらどう?」
「にわか探偵の矜持が許さない。それに、なんて説明するんだ」
「そうか……」
 本当は山本夏海に頼りたい。彼女は僕よりも腕力は二倍あるだろうし、度胸も二倍あるはずだ。このときばかりは、やせ我慢な性格がつくづく疎ましく感じられた。
「あなたは意外と行動派なのね。見直したわ」
「まず動け。そうすればおのずと考えはついてくる、といったのは君だぜ」
「もしかしてあなたを好きになったかも」
「惚れるのは事件が解決してからにしてくれ」
「冗談はさておき、その手紙をすぐにでも投函するつもり?」
「ああ、行動あるのみ」
「大丈夫? なんだか体が震えているようにみえるけど」
「武者震いだ」
「そうね。あなたならできる。頑張ってね」
 そういうと、安西由紀はすぐに消えた。

 幸運が四つあった。マンション入口にセキュリティシステムがなかったことがひとつ目。手紙を投函するときに堀江本人に出くわさずにすんだことがふたつ目。雲がなく満月で月明かりがあったことがみっつ目。そしてさらに駐輪場に街路灯があって結構明るかったことがよっつ目。
 約束の時間の五分前に駐輪場に着いた。手紙を投函してから三時間は経っている。部屋にいれば必ず手紙は読んでいるはずだ。堀江はまだきていない。表通りからくることを予想してそちらを向いた。くるだろうか。半信半疑だった。正直にいおう。きてほしくない気持ちが半分あった。
「影浦危ない!」
 突然叫び声が聞こえた。右横から聞こえた。体が反応した。右横をみた。瞬時にふたつの人影を認めた。大きな人影の横をすり抜けて小さな人影が叫びながら僕のほうに走ってきた。
 小さな人影が僕にしがみついた。女だった。玲奈だった。大きな人影はがっしりした体型の若い男だった。
「男の手をみて!」
 玲奈が叫んだ。男の手もとをみた。キラリと光った。 ナイフだった。男は素早く移動して表通りを背にした。
 顔がカッと熱くなった。体が小刻みに震えた。
「お前は堀江仁志だな」
 自分でも驚くほど大きな声が出た。
「そうだ。手紙はお前の仕業だな」
 全身黒ずくめの服装をした堀江仁志は女のような声だった。
「お前が安西由紀さんを殺したのはわかっている」
「え!」
 横で玲奈が大きな声を出した。
「本当なの! こいつが殺したの!」
 玲奈がさらに大きな声を出した。
「だれだその女は」
「お前が殺した安西由紀さんの妹だ」
 堀江がひるんだようにみえたが一瞬だった。
「お前の名前を聞かせてもらおうか」
「影浦だ」
「ふん、こうなったらふたり一緒に死んでもらう」
 堀江が一歩近づいた。僕と玲奈が一歩うしろに下がった。堀江がナイフを持つ右手を腰だめにかまえた。右腕が痺れていた。玲奈が力まかせにつかんでいた。
「気をつけて!」
 玲奈が叫んだ。
 堀江がまた一歩近づいた。僕と玲奈が一歩うしろに下がった。このまま突進してくると思った。玲奈が危ないと思った。横にいる玲奈をかばうつもりで前に出て身構えた。
 じりじりする時間がすぎた。堀江が動かない。なぜだかわからない。眼を大きく開いている。やがて手をだらりと下げ口を開けた。呼吸が荒い。
 突然堀江の口から悲鳴が聞こえた。僕と玲奈の体がビクッと反応した。悲鳴がやむと、堀江が頭を抱えてうずくまった。そしてなにか口走っている。声がだんだん大きくなった。許してくれと聞こえた。
 そのとき、堀江に集中していた意識がふっと途切れた。次の瞬間、背中がザワザワとしていることに気がついた。思わず振り返った。由紀がいた。由紀が憤怒の形相で堀江を睨んでいた。
 堀江も由紀がみえる。そう確信した。
 表通りから足音が聞こえた。男がふたりこちらに走ってきた。
「どうした」
 声をかけてきたのは下川刑事だった。松田刑事も一緒だった。
「安西由紀さんを殺した堀江仁志です!」
 うずくまって呪文のように許しを請うている堀江に向かって僕は叫んだ。
「なに! 本当か!」
 下川刑事が堀江をみた。松田刑事が堀江の脇に立った。
「ナイフがあります」
 玲奈が松田刑事にそういった。松田刑事は慌てて堀江の手もとをみた。堀江はナイフを握っていた。松田刑事はすぐにナイフを取り上げた。
「安西由紀さんを殺したというのは本当か」
 松田刑事によって無理やり立たせられた堀江に下川刑事が聞いた。
「俺が殺した。許してくれ」
 堀江が泣きそうな声で答えた。それを聞くと、下川刑事は松田刑事に指示して堀江に手錠をかけさせた。そのあと下川刑事は携帯を取り出した。どこかに電話をするようだ。
 ここにきてようやく大きく息を吐くことができた。玲奈も大きく息を吐いている。右腕が痺れている。玲奈が僕の右腕をまだつかんでいた。力まかせにだ。僕の視線に気がついた玲奈が手を離し、照れ笑いを浮かべた。玲奈をみてふと由紀のことが気になった。そっと振り向くとすでに姿はなく、気配も消えていた。
 電話を終えた下川刑事が僕らのそばにきた。
「君はたしか……」
「以前ここで会ったことがある影浦です」
「ああ、そうだったね。いまパトカーを呼んだ。悪いが君たちにはもう少しここにいてもらうからね。いいだろう?」
 僕たちは同時にうなずいた。下川刑事が満足そうにうなずき返すと、また堀江のそばに戻った。
「どうして君はここにきたんだ」
 僕はふたりの刑事に聞こえないように小声で玲奈に尋ねた。口調はどうしてもきびしくなった。
「母から聞いたのよ。あなたが第一発見者のことを根掘り葉掘り聞いたことを。それでなにかあるなと思ったの。その前の遠山芽衣さんと会ったときから様子がおかしかったからね。だいたい彼女に交際を申し込むなんて百年早いわよ。本当は交際なんて申し込んではいないんでしょう。そんな勇気があるとは思えないもの。ねえ、どうなの? 正直にいいなさいよ」
 玲奈も小声だったがいつもの口調だった。
「ずいぶんないいかただな」
「いわないつもりね。いいわ。今度じっくりと聞かせてもらうから」
「なぜここにきたのか、まだ答えを聞いていないぞ」
「だから、なぜ第一発見者のことをしつこく聞いたのか、そのわけをあなたから詳しく聞くためにアパートにきたのよ。そうしたらちょうどあなたがアパートから出てきたところだった。声をかけようと近づいたんだけど、あなたは私なんか眼に入らない様子だった。いつもの締まりのない顔ではなく、すごく緊張した顔をしていた。これはなにかあるなと思った。そこであとをつけたの。そうしたら駐輪場にきたでしょう。絶対になにかあるなと思った。私はあなたにみつからないように、マンションのエントランスから入って駐輪場にくるルートを選択したの」
「マンションのなかから直に駐輪場にこられるのか?」
「住人だけが利用する通用口があるのよ。そうしたらちょうど通用口を開けて駐輪場に出ようとしていた男がいたの。その手もとにナイフがみえた。あとはもう無我夢中。私は叫びながら男の横をすり抜けてあなたのところに駆けつけたというわけよ」
「君は命の恩人だな。ありがとう。あの叫び声がなかったら死んでいたかもな。呼び捨てにされたけど」
「私が影浦って呼び捨てにしたこと? 小さい男ね」
 僕は聞こえないふりをした。
「だけど、あなたはなぜ第一発見者のことが気になったの?」
「第一発見者を疑えはミステリーの基本だろう」
「またはぐらかす」
 表通りにパトカーが到着した。急に慌ただしくなった。下川刑事と松田刑事に拘束された堀江仁志がパトカーに連行された。
 サイレンを鳴らしながらパトカーが走り去った。パトカーには松田刑事だけが乗り、下川刑事は残った。僕たちはまだ解放されないようだ。
「君の住まいはたしか隣のあの……」
 戻ってきた下川刑事は、あののあとに続くボロアパートという言葉を飲み込んだ。
「そうです。隣のアパートです」
「そうだったね。覚えているよ。それで横にいるお嬢さんは?」
「安西由紀の妹の安西玲奈です」
 玲奈がしっかりとした口調で答えた。
「ああ、妹さん。たしか高校生だったね」
 ダッフルコートとジーンズ姿の玲奈をみて下川刑事がうなずいた。
「刑事さんたちはどうしてここへ?」
「ちょっと待って」
 下川刑事が携帯を持って離れた。
「いま車を呼んだからね。きたら妹さんを家まで送っていくよ」
 戻ってきた下川刑事は優しい声を出した。
「ありがとうございます」
 玲奈が頭を下げた。
「君は隣だから歩いて帰れるよね」
「はい」
「それでどこまで話したっけね」
「刑事さんたちはどうしてここへきたのかを聞いたんです」
「それを説明する前に、この状況をさきに説明してもらえるかな」
 僕はあらかじめ考えてあった質問の答えを口にすることにした。その答えは玲奈に聞かせる意味もあった。
「僕は由紀さんの友達として、第一発見者にそのときの状況をどうしても聞きたくてここに呼んだんです。すると突然ナイフを出してきて殺そうとしました。意味がわかりません」
「いきなり殺そうとしたのかね」
「そうです」
「うーん」
 下川刑事が唸った。
「それであの男にお前が犯人かと糺すと白状したんです」
「うーん、それはどうなのかね」
「それは本当です」
 玲奈が助け舟を出した。とりあえずここは切り抜けたほうがいいと判断したようだ。
「わからないのは、われわれがきたとき、堀江は許してくれとうわごとのように喋っていたが、あれはどういうことなんだ」
「それはたぶんこういうことだと思います。堀江は、妹の玲奈ちゃんが、自分が殺した由紀さんにみえたんだと思います。姉に似ていますからね。この子は。暗がりと罪の意識からきっと勘違いをしたんだと思います」
 それはないだろう、というような顔で玲奈が僕をみた。僕は無視をした。
「まあ、いい。いずれまたじっくりと聞くよ」
 たしかに説明は苦しかった。下川刑事はぜんぜん納得していない表情だった。
「ところで、彼が第一発見者だとなんでわかったのかね」
「私の母が影浦さんに教えたんです」
 玲奈が代わって答えた。
「ああ、なるほど。そういうことか……それで、私たちがここにきた理由を聞きたいんだね」
「そうです」
「第一発見者の堀江仁志は、午後十一時半ごろにマンションの駐輪場に自転車を戻しにきて遺体を発見したと事情聴取で述べているが、たまたまマンション付近の防犯カメラを確認していたら、午後十時に徒歩で外出している堀江が映っていたんだよ。そのあと自転車で外出している可能性もあるので、くまなく防犯カメラをチェックしたが映っていなかった。だからそのへんの事情を聞くためにここにきたというわけだ。そうしたら悲鳴だろう。それで馳せ参じたしだいだ。納得したかい」
「はい」
「車がきたようだ。家の人が心配しているといけないから早く帰ろう。それで、影浦君は明日の午前中に署のほうにこられるかな。詳しく事情を聞きたいんでね」
「はい。わかりました」
 下川刑事は僕に署の場所を教えると背を向けた。玲奈が僕の耳もとで、またね、といって下川刑事のあとをついて行った。まだ僕はしばらく心穏やかに暮らすことを許されないようだ。

 五日が経った。由紀も玲奈も現れない。由紀はもう成仏したのかも知れない。あれからひとことの挨拶もなしだが、無事に成仏したのならそれでいい。正直ちょっと寂しい思いもあるが特に文句はない。玲奈もこないに越したことはない。正直ちょっと寂しい思いもあるが質問攻めを回避できるので特に異存はない。
 昼飯を買いにコンビニに行った。ペットボトルのお茶とおにぎりを二個買った。つつましい生活にも慣れた。正直ちょっとしんどい思いもあるが特に不満はない。
 天気がいいので、寄り道をしながらのんびりと歩いてアパートに帰った。
 部屋に入ると、炬燵でくつろぐ玲奈がいた。
「鍵もかけずに不用心ね」
「盗られるものなんてなにもない」
「それもそうね」
 僕はペットボトルのお茶とおにぎりを炬燵の上に置き、玲奈の向かいに座った。
「学校はどうした」
 玲奈は茶のハイネックセーターを着ていた。トレードマークのダッフルコートは炬燵の横にきちんと畳まれて置いてあった。
「冬休みよ」
「そうか。それで今日はどうした」
「相変わらず無愛想ね。若い娘がきたんだから少しは嬉しい顔をしたらどうなの」
「時と場合によりけりだ」
「一度どついたろか。まあ、いいわ。今日は逃げられないわよ。正直に答えてよ」
「時と場合によりけりだ」
「クソ。腹が立つな。まあ、いいわ。まずひとつ目の質問よ。あなたはなぜ第一発見者に眼をつけたのか? ミステリーの基本はなしよ」
「話を聞きたかったのは嘘ではない。最初から容疑者扱いをしていたわけではない。あのシチュエーションになったのは偶然だ。フィリップ・マーロウも同じ行動をしただろうよ」
「私の好きなフィリップ・マーロウの名前を出せば納得すると思っている? ぜんぜん納得できないわよ……まあ、いいわ。次の質問よ」
「飯を食っていいかな?」
「どうぞ」
「半分食べるか?」
「結構よ」
 おにぎりを頬張り、お茶を飲んだ。
「食わないのか。うまいぞ」
「結構よ」
「で、質問はなんだ?」
「堀江は手紙のことをいっていたけど、なんて書いたの?」
「由紀さんを発見したときの状況を聞きたいから駐輪場にきてくれと書いたのさ」
「うん。これはそんなにおかしいところはないわね。では、堀江に遭遇したとき、あなたはいきなり犯人だと決めつけたでしょう。あれはなぜ?」
「やつはナイフを持っていただろう。だからさ」
「スラスラと答えるところが怪しいけど、まあ、いいわ。次は一番肝心な質問よ。堀江のあの豹変はなんなの? それともうひとつ。あの男が豹変したときに、あなたは振り向いて驚いた顔をしたでしょう。あれはなに? そのふたつを説明してちょうだい」
「それは刑事にも説明しただろう。堀江は君が由紀さんにみえたんだよ。暗がりと罪の意識からの勘違いだ」
「またそれか」
「しようがないだろう。そうなんだから」
「私は姉にそんなに似ていないわよ」
「いや、似ているよ。それに、やつのあのときの精神状態なら見間違いをしても不自然ではないね」
「どこまでも言い張るつもりね」
「次はなんだって? 僕が振り向いて驚いた顔をしたって? それは記憶にないな。君の見間違いじゃないの」
「ああ、腹が立つ。正直に答えるつもりはないのね」
「正直に答えているさ」
「もういいわ」
「帰るのか」
「帰るわ。帰ってコーラをがぶ飲みしてやる」
「おいおい」
「そうだ。興奮しすぎて忘れるところだった。四十九日がすぎたら感謝の気持ちを込めて食事に招待したいのできてください。母からの伝言よ。伝えたからね」
「承りました、と伝えてくれ」
 気が重い。なんとか逃げる方法を考えなければならない。
「それと、母の情報なんだけど、堀江が持っていたナイフね、それに付着していたDNAが姉のものと一致したの」
「それはニュースで知った」
「だけど、堀江は動機について曖昧な供述を繰り返しているそうよ」
「それなんだよ。わからないのは」
「あなたもわからないの」
「わからないさ」
 これは本当にわからない。
「そういえば、君のお袋さんは警察上層部に顔が利くんだってな。そこからの情報か?」
「母のこと、なんで知っているのよ」
「お袋さんは有名人だぜ。そのぐらい常識だ」
「ふん、迷惑よ。じゃあ帰るわ」
「そうだ。今度はこっちの質問だ。車で送ってもらうとき、あの狸顔の刑事に、なぜあの場所にいたのか聞かれなかったか?」
「聞かれたわ。私も姉を発見したときの状況を聞きたくて影浦さんに同道したと答えたわ」
「なるほど。無難な答えだな」
「あの刑事さんにいわれたわ。影浦さんは疫病神だからあまり近づかないほうがいいよって」
 玲奈は強烈な最後っ屁を一発かまして帰って行った。
 この夜、由紀はとうとう現れなかった。

 玲奈がきてから二日が経った。バイトは久しぶりの休みだった。休まなくてもいいのだが、そうはいかないらしい。ということで、昼飯を食べたあとはやることもなくて部屋でグズグズしていた。もっとも、グズグズはいつものことだった。
 コンビニで買ったペットボトルのお茶をチビリチビリと飲んでいるときだった。背中がザワザワとした。入口の引き戸の横に安西由紀がいつものナリで登場した。夜ではなく昼からの登場だった。
「元気にしていた?」
 そういうと、安西由紀は立っていたところに座り、両膝を抱えた。
「しばらく姿をみせないから成仏したのかと思ったよ」
「これからよ。それで最後の挨拶にきたのよ」
「そうか。それはめでたい」
「あなたには感謝しているわ。律儀な幽霊として、ひとことお礼をいわないといけないと思ってね」
「こちらこそ礼をいうよ。危ないところ助けてもらったからな」
「ああ、あれ。なんでもないわよ。あの場所は抵抗があったけど、いても立ってもいられなかったからね」
「君のことが堀江にみえるとわかって驚いたよ」
「私も。一心不乱に念じたからね。それが通じたのかも。しかし、玲奈があそこにいたのには驚いたわ」
「ああ、僕も驚いた。でも彼女にも感謝だ。大声で教えてもらわなかったら刺されていたよ」
「でもお礼は控えめにね。すぐに調子に乗るから」
「そうだな。彼女は二日前にここにきて、強烈な最後っ屁を一発かまして帰って行ったよ」
「なによそれ」
「いや、なんでもない」
「私は刑事さんたちがきたので消えたけど、あのあと大変だった?」
「堀江は緊急逮捕されて移送された。君の妹は刑事に車で送ってもらった。僕は翌日署で事情聴取だ」
「刑事さんは説明に納得した?」
「なんとかね。なんといっても事件解決の功労者だからな。意外と早く帰してくれた。ただ、ひとつだけ肝を冷やした。例の手紙だ。堀江が手紙の内容を刑事に話したんだ。あそこには、事件のあった時間に駐輪場で声を聞いた、と書いたからね。そこを刑事に突っ込まれた。徹底的にとぼけたよ。やつと僕のどっちを信用するんですか、といってやったよ。刑事は呆れていたね。運も味方してくれた。やつは僕の手紙を読んだあと、ちぎってトイレに流したそうだ。自分の供述を証明する証拠をみずから消し去ったんだね。助かったよ。それでね、下川という刑事なんだが、帰りに署の玄関までついてきておもしろいことをいった」
「なに?」
「やつを犯人だと見抜いた君の眼力はたいしたものだ。強力な助っ人がいたのかね」
 といってニヤッと笑った。食えないオヤジだった。
「もしかして私がみえるのでは?」
「まさか」
「でも、本当によかった。犯人がつかまって。ありがとう。あなたのおかげよ。あなたのこと好きになったかも。一生そばにいてもいい?」
「冗談だろう」
「冗談よ。でもね……」
 安西由紀の表情が曇った。
「どうした?」
「結局、私を殺した堀江の動機がわからずじまいで私は成仏するのね。それが心残りなの」
 いうべきか、いわざるべきか、それが問題だった。急転直下、動機はきのうわかった。真実を知って悔しい思いをさせるのか。真実を知らずに悔しい思いをさせるのか。悩んだ。だがこのまま知らずに成仏させるにはあまりにも無責任だと思った。幽霊だって知る権利はあるはずだ。
「それがわかったんだ」
「うん? なに?」
「動機がわかったんだよ」
「え! 本当!」
「これを聞くと君はショックを受けるかも知れない。それでもいいか」
「もちろんいいわ。教えて」
「遠山芽衣が逮捕された」
「はあ?……」
「遠山芽衣が二日前の夜、逮捕された」
「芽衣が? なんで?」
「教唆だな」
「教唆?……」
「堀江は動機について曖昧な供述を繰り返していたが、とうとう自供した。遠山芽衣の関与を」
「詳しく説明して」
「遠山芽衣は、君を痛めつけてほしいと堀江仁志に命じたんだ。ただ、殺せとまではいっていないと供述している」
「ちょっと待って。あなたはなぜ詳しいの?」
「遠山芽衣が逮捕されたことはニュースで知ったんだ。それできのう下川刑事に電話で詳しい内容を聞いた。最初は渋ったが、僕は最大の功労者だから、内緒で教えてくれたんだ」
「わかった。それで?」
「遠山芽衣は君を恨んでいた。その理由だが、君塚翔太がからんでいる。君も知っているとおり、遠山芽衣は君塚翔太と付き合っていた。だが彼はほかの女に関心が移り、付き合いだした。君だよ。そこまでは許せたらしい。だが君は彼をフった。それが許せなかったようだ。つまり、自分をフった彼を君は簡単にフった。学内ミスコン一位と噂される彼女のプライドが許さなかったんだろうな」
「そんなことで?」
「ああ、恨みが君塚翔太ではなく君に向いたんだ。一方的な恨みだ。もしかしたらまだ彼を忘れられなかったのかもな。それで、遠山芽衣と堀江仁志の関係だが、堀江はいわば彼女の下僕だ。なんでもいいなりだったそうだ。堀江は遠山芽衣の父親が経営する会社の社員で秘書なんだとさ。だからときどき会社に顔を出す彼女は堀江を以前から知っていた。そこで君の部屋に遊びに行った遠山芽衣は、偶然同じマンションに住む堀江をみかけて、そこから付き合いだしたらしい。といっても普通の関係ではない。相手は社長のひとり娘だ。いわば女王様だ。堀江は夢をみたんだろうな。ゆくゆくは結婚して社長になることを」
「だからいいなりになった……」
「案外遠山芽衣の言い分は正しいのかも知れないな。君を痛めつけて鬱憤を晴したかっただけかも。もちろん許されるはずはないよ。だが、堀江は暴走した。遠山芽衣が本当は君の死を望んでいると深読みしたのかも知れない」
「許せないわ」
「大丈夫か。聞いたことは後悔しない?」
「大丈夫よ。心配しないで」
「実は、堀江が遠山芽衣の関与を自供したのは、ある証拠を突きつけられたからなんだ。それがなかったら彼女の名前はたぶん浮かぶことはなかった、と下川刑事がいっていた。堀江は彼女の名前を墓場まで持って行くつもりだったのかも知れないな……それでその証拠というのが、音声データなんだよ。堀江はこのさき使えるかも知れないと思って、遠山芽衣に内緒で会話を録音していたんだとさ。その音声データを会社の自分のパソコンに保存していたらしい。それを刑事が発見した。遠山芽衣が堀江に命令する会話がバッチリ入っていたらしい」
「それが芽衣を逮捕する切り札になったのね」
「そういうことだ。ついでにいうと、犯行の日、君がバイトの帰りにコンビニの前で遠山芽衣に会ったのは偶然ではない。君がバイトにきているのを確認するためだ。そのあと君が自転車で帰るのを見届けて、合図を待っている堀江の携帯に電話をしたんだ。用心のために公衆電話でね。そして、時間を見計らってまた公衆電話から堀江にかけた。首尾を聞くためにね。君が意識を失う直前に聞いたのがそれだ」
 安西由紀を注視した。彼女はなんだか惚けた表情をしていた。
「話は以上だ。つらい思いをさせてごめん。怒りを僕にぶつけてもいいよ。受け止めるから」
「……ありがとう。私は大丈夫よ」
 安西由紀は笑顔になった。
「教えてくれてありがとう。これで心残りはないわ」
「余計な口出しかも知れないが、遠山芽衣への遺恨は残さないほうがいいと思う。君たちは友達だっただけに余計に引きずりそうでね。心配なんだ」
「心配しないで。芽衣を恨んでいないといったら嘘になるけど、化けて出るようなことはしないわ。それに私は立ち直るのが早いの。いつまでも引きずらないわ」
「それでこそ君だ」
「これであっちの世界でも話のネタに困らないわ。大丈夫。楽しくやるから。それから、恨みを抱いたままの新人がきたらあなたを紹介するね」
「おいおい」
 安西由紀は問題ない。いつもの彼女に戻った。
 それはいいのだが……。
 気が重い。胃が痛くなってきた。
「なんだか憂鬱な表情だけどどうしたの? あ、わかった。私と会えなくなるので悲しいのね。わかるわ」
「もちろんそれもあるが、問題は遠山芽衣の関与についてだよ。当然君のお袋さんは手を回して情報を得るだろう。そうすると君の妹が知ることになる。そのあとはどうなるかわかるだろう」
「わかるけど、自分の可愛い妹だと思って付き合ってあげてよ。私の最後のお願いよ」
「わかった。君の最後のお願いをたしかに聞いた」
「ありがとう。そろそろ時間だから帰るわ。いろいろとありがとう。あなたに会えてよかった」
 安西由紀が消えた。
 消えた場所をしばらくみていた。すぐに出てきて冗談をいいそうに思えた。
 なんだろう。この気持ちは。心にポッカリ穴が空いたような気持ち。なにか大事なものを失ったような気持ち。彼女はただの通りすがりの幽霊ではなかった。このさき決して忘れることはないだろう。僕の心のノートに鮮やかな色を塗った君だった。

 一時間後、玲奈が大きな声を出しながら部屋に転がり込んできた。遠山芽衣のことを僕に教えるために。
 約束は守るよ。僕はいなくなった安西由紀にそう呟いた。
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