第13話

文字数 3,096文字

 学校をサボり、一人布団にくるまる。特に何かをするわけでもなく、携帯ゲームをしたりSNSを眺めたりする。しかし、だからといってゲームがしたいわけではないし、SNSで顔も本名も知らない人の投稿を見ていたところで面白いはずがない。じゃあなんで僕はこんなことをしているんだろう。
 理想をいってしまえば、僕は何もしたくない。何もせず、何も考えず、ただぼんやりとしていたい。何もしたくはないが、しかし眼前には莫大な時間が広がっている。この時間を潰すのに、ぼーっとするという手段はあまりにも弱い。手持ち無沙汰を解消するためにはこうするしかないのだ。
 学校をサボるは初めてだ。こう見えて、僕は無遅刻無欠席を貫いていた。担任教師ですら指摘しないのでもしかしたら気づいてないのかもしれない。とはいえども、毎日学校に行っていた理由は、単に家にいたくないだけなのであまり褒められたものではないだろう。
 じゃあなんで今日サボったんだと聞かれれば、それ以上に学校に行きたくなったからだ。いや、学校に行きたいからというのは理由としたら正確ではない。より正確に表現するのであれば、外に出たくない。
 外に出てしまえば、またあの視線に晒されるかもしれない。それは耐え難い苦痛だ。
 何もやる気が起きない。というよりも、何もしたくない。
 僕は一体、何がしたいのだろうか。
 「………」
 ため息ばかりが口をつく。
 灰色の僕が僕に問いかける。
 「お前はどうしたいんだ?」
 「……」
 今度は僕が何も言えなくなる。
 「お前は何なんだ?」
 「……」
 やはり、僕は何も言わない。
 「お前は、何者なんだ?」
 「……」
 僕は……。
 僕は…………。
 「………………」
 ………。 
 ……。
 気が付いたら、僕は山に登って、あの公園に来ていた。外には出たくなかったはずなのに、何もしたくなかったはずなのに。それなのに、気が付いたら空がいつもより近かった。日が暮れた空。真っ白な月。
 やはりここはいい。気分が落ちつく。サビれた遊具。暗緑色。ここには僕しかいない。灰色の僕も、僕を追跡するかのような黒い瞳もない。優しい冷たさだけが、僕を包み込む。
 思えば、僕は何をしたかったのだろうか。
 綾川を殺そうと思っていた。この世界に罰を与えようと思っていた。
 けれど僕には分かっていた。僕に人は殺せない。僕は綾川を殺せない。僕は僕でさえ殺せない。それに、そんなことをしても、僕は満たされないだろう。綾川を殺したって、僕はこの耐え難い渇きを満たせないだろう。
 僕は僕に牙を向けない。僕は自分を悪いだなんて思えない。そんなことをしてしまえば、それこそ僕は死んでしまう。だから僕はこの牙を綾川に向けた。でも、そんなことしても虚しいだけだ。きっとあの僕は、灰色の僕は、そんな僕の虚しさの表れだったのだろう。
 ならば僕はどうすればいいのだろうか。この渇きは、この疼きは何をすれば満たされるのだろうか。 
 ふと僕は公園を出た。山をゆっくりと下っていく。
 死んでしまいたい。でも死ねない。死にたくない。
 辛い苦しい。満たされない。楽になりたい。
 はやく、早く幸せになりたい。
 この渇きが、この疼きが、まるで別世界での出来事だったかのような、そんな幸せを得たい。
 文句のつけようのない、純度100%の幸福が欲しい。
 幸せ。
 幸せって、何なんだろう。
 山を下りた僕は、自宅には向かわず、住宅街を歩いた。まばらな街灯。まるで見えない人影。遠くから車の走る音が聞こえる。そんな住宅街。
 ふと、遠くの方に人影が見えた。僕はその人影を、なんだか非現実的なものとしてみていた。この世界には僕しかいない。そんなことはあり得ないのだから、少し遠くの方に人の背中があることは不思議なことではない。それなのに、その光景がひどく不自然なもののように思われてならなかった。
 段々とその人影に近づいていく。そうして僕は気づいた。
 それは、綾川だった。
 ぴくりと、僕の手が動いた。僕は綾川に手を伸ばそうとしていたのだ。それは完全に無意識で、僕自身、自分の行動に驚かされた。
 僕は、綾川をどうしたいのだろうか。
 僕は歩く速度を緩めた。
 近づきたい。でも、近づきたくない。
 今ここで、僕が綾川に話しかけて、綾川は一体どんな顔をするだろうか。一体何を思うのだろうか。
 そう思うと、僕は空洞の中でさまよっている気分になった。
 ……帰ろう。
 そう思い、踵を返そうとした瞬間だった。すぐ近くの曲がり角から、一人の人影が現れた。それは黒いフードを被っていて、そのしわくちゃの髪の毛の隙間からは、真っ黒な瞳が顔をのぞかせていた。そしてその人影は、真っすぐに綾川の方に歩いて行った。
 その背中を見た瞬間、僕は走りだしていた。
 確かなものがあるわけでもない。動かぬ証拠があるわけでもない。でも僕の中には、確信があった。
 こいつは。
 こいつが、あの殺人鬼だ。
 あの瞳。あの底なしの悪意を固めたような黒い瞳。
 あれは、僕の目とそっくりだったんだ。
 僕もあんな目をしていた。
 意味も分からぬまま、周囲に不満を持ち、世間に怒りを振りまき、何をしても満たされず、何をしても幸せになれない。
 人生に絶望しているはずなのに、死ぬことすらできない。
 生きていたくないはずなのに、生きていくことしかできない。
 あれは、そんな瞳なんだ。
 フード姿の男は、鞄から静かに何かを取り出した。それは歪んだ銀色の輝きを孕んでいた。
 間違いない。あれが凶器だ。
 やっぱりあいつが……。
 「綾川さん!」
 僕は叫んだ。綾川さんが僕を振り向く。そして、同時に包丁を持った男に気づいた。綾川さんは恐怖に顔を引き攣らせ、後づさりをした。
 「逃げて!」
 僕は殺人鬼にとびかかった。
 「でも……でも……」
 綾川さんはこの期に及んで僕の心配をしているようだった。そんなこと、今はどうでもいいはずなのに。
 「いいから!!」
 「ごめん、ごめんね……」
 綾川さんが走っていく。その背中が小さくなっていく度に、僕は得も言われぬ感情になった。なんだか涙が出そうになって、僕は一瞬体から力が抜けた。
 その時だった。
 僕の腹部に冷たい感触が走った。
 「……!?!!?!?!?!」
 強烈な痛みに頭が麻痺した。声を出すことも叶わない。
 僕の腹に、包丁が突き刺さっていた。見たこともないような色の血が、僕の服を染め上げる。
 「じゃますんじゃねええええええ!!!!」
 甲高い叫び声が聞こえ、今度は殺人鬼の方が僕に覆いかぶさる。殺人鬼は殺しが失敗したことが悔しいらしい。完全に逆上していて言葉ではないような言葉を、声にならない声で叫んでいる。
 そんな殺人鬼の様子を見ながら、僕は視界が段々と白くぼやけていくのを感じていた。
 殺人鬼がもう一度僕に包丁を振り下ろす。でも、もうそこに痛みはなかった。
 殺人鬼の顔も、声も、僕の血飛沫さえも、すべてが遠ざかっていく。
 ああ、僕は死ぬんだな。
 そう思うと、僕の頬を何か温かいものが伝った。それは血ではなかった。
 死にたくない。
 本当に死にたくないんだ。
 ああ、そうだ。分かった。
 僕は、僕はずっと、誰かに愛されたかったんだ。母さんに頭を撫でてほしかった。テストの点がよかったら褒めてほしかった。綾川さんに抱きしめられたかった。僕に笑顔を見せてほしかった。
 何も、何も叶わなかったなあ。
 最後に、最後に一度だけでいいから、誰かに愛されてみたかった。
 視界が白に染まり、意識が遠のいていく。その遠くに、僕は一匹の猫の姿を見た。それは、あの日車に轢かれて死んだ猫だった。
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