第4話

文字数 2,584文字

 夜。今は何時だろうか。僕にも分からない。あたりはすっかり暗くなって、月の光すら僕の部屋には届かない。僕は布団の中で体を丸めていた。目を閉じても一向に眠たくならない。むしろそうしていると、心臓の鼓動がはっきりと聞こえてきて、緊張しているような、不安を感じているような、そんな心持になった。
 落ち着かない。
 あの猫だ。夕方見たあの猫の死体の所為だ。あの猫が、ぼんやりとした影となって、僕を責め立てる。僕を締め付ける。僕はもう何日も夜に眠れていない。しかし今日は特に酷かった。嫌悪、焦燥、不安。思考がまとまらない。その黒々とした三つの塊が僕の頭の中を堂々巡りし、それは到着点を知らないと言わんばかりにぐるぐるぐると僕を責め立て続けた。
 母さんはもう寝ただろうか。一階からは何の物音も聞こえない。耳をひそめる必要もなく分かった。寝ているに違いない。僕は音をたてないように家を出た。
 眠れない時、僕は決まって家を出た。目的は特にない。何も考えず、というよりも、後ろ影を引く黒い思考から逃げるように、努めて何も考えないように、僕は散歩をした。殺人鬼がいるかもしれない夜の街を歩くのは危ないのだろうが、僕には関係がなかった。それに、僕はあの殺人鬼には殺されないだろうという、不思議な確信があった。
 僕の家の近くには街灯が少ない。月の明かりだけがぼんやりと照らしている。人通りはほとんどなく、少し歩いたところにある大通りから、まばらに車の音が聞こえる。総じて静かだった。音も、光も、人もない。僕はこの世界に僕一人しかいないかのような錯覚を感じた。ならば、この世界の支配権は僕にある。僕は裏側から僕の思考を蝕む黒々としたそれの存在感が薄まっていくことに気づいた。僕は少し気が大きくなった。それで大通りに出ると、一気に明るさが増した。街灯の数が多くなり、二十四時間営業のコンビニから明かりが漏れる。人通りも多く、そこにはかすかな雑踏があった。
 違う。ここは僕だけの世界じゃない。
 途端、僕の中の幻想が崩れ去った。再び、黒々とした霧が僕の思考を犯していった。僕が負の感情の一色に染まっていく。呼吸が荒くなり、苦しくなる。肺が、そして心臓が痛い。僕は小走りで逃げるように家の方に戻った。息をからしながら、歩いていると、僕は思わず何もない場所で躓いてしまった。ふと足元を見ると、靴紐がほどけていた。
 「……」
 僕はちょうちょ結びが苦手だ。昔から上手くできない。中学生の頃、体育の時間にそのことをからかわれたことがある。同級生の男に「お前ちょうちょむすびもできねえの?」と笑われた。でも、僕はちょうちょ結びのやり方なんて教わったことがない。誰も僕にそんなことを教えてくれなかった。親も先生も、誰も彼も、僕にそんなこと言わなかった。僕は唇をかんで、何も言い返せないまま立ちすくんだ。泣きそうになった。自分があまりにも惨めだった。あまりにも無様だった。その時の同級生の子にちょうちょ結びをしてもらったが、しかし僕はちょうちょ結びすら教えてくれなかった大人を憎悪した。大人は常に、僕を叱り、押さえつけるだけだ。教師は常に理想論を振りかざしてくる。例えば、あいつらは「みんな仲良く」そんなことを言って、僕をクラスメイトの輪に入れようとしてくる。しかしあの後の面倒が見てくれやしない。結局輪に馴染めず孤立した僕を見て言うのだ「もっと協調性を身に付けない」と。とどのつまり、先生は僕のことなど考えていない。見ていないのだ。母さんに至っては、僕に何もしてくれていない。母さんは僕の環境を整えただけだ。確かに僕は衣食住が保障されている。それは母さんのおかげだ。しかし母さんは僕を育ててはくれない。だって僕は、ちょうちょ結びのやりかたさえ教わらなかっていないのだから。
 僕は一人靴紐を結ぼうとしゃがみこんだ。やはりちょうちょ結びはうまくできない。
 なんなんだよ。……なんなんだよ……。
 結局いつも通り、不格好に靴紐を結んだ。それは結んだと言っていい代物なのかは分からなかったが、しかし僕にはこれくらいのことしかできなかった。
 僕はたまらず虚しくなった。虚しさから逃げようとして外に出て来たのに、結局僕を待ち構えているのは虚しさでしかないのだ。
 ふと、僕は思った。
 死ねば楽になるのかなあ。
 あの猫のように、車に轢かれて死ねば、こんな苦しみからも解放されるのだろうか。あの殺人鬼に後ろから包丁で刺されれば、僕は楽になれるのだろうか。
 しかしそれは、僕が自分では死ねないことを現われでもあった。僕にはそんな度胸も勇気もない。だから他人の手や偶発的な状況に期待してしまうのだ。
 何となく歩いていると山の麓についた。僕の家の裏には山がある。そこまで高い山ではないので、僕でも簡単に登ることが出来る。僕は山道に入っていった。真っ暗な闇の中、坂道を歩いて行く。この道には誰もいない。明かりもない。環境音だけが微かに聞こえてくる。ふと上を見上げてみると、木々の隙間から空が見える。うっすらとした黒い空。その上に同じく黒い雲がかかっている。星が、月が、煌々と輝いていた。いつもより空が近い。僕はふと、綾川さんのことを思い出した。
 綾川さんだけだ。綾川さんだけが、僕を人にしてくれる。僕を人として見てくれる。
 しばらく歩くと公園が見えてきた。僕はその中に入り、ベンチに座り、息を整える。日ごろの運動不足が祟り、たった数分坂道を歩いただけで疲れてしまった。
 僕は公園の景色を見渡した。ブランコに滑り台。飛行機のような形をした遊具もあるが、僕にはどうやって遊べばいいのか分からなかった。公園で遊んだことなんてほとんどない。だからといって今から公園で遊ぼうとは思わないが。
 僕は体制を崩し、ベンチの上に寝転がった。
 静かだなあ。本当に静かだ。
 人恋しさを感じているわけじゃない。寂しい訳でもないが、何故だか、綾川さんの存在が僕の頭から離れなかった。
この場に綾川さんがいればどれほどいいことだろう。この場に綾川さんがいればどれだけ楽しいだろう。このどうしようもない世界の中で、綾川さんだけが唯一の光だ。
 僕は体を起こした。
 帰ろう。明日も学校だ。
 帰り道、僕は坂道を駆け下りた。
 世界すら置き去りにし、水彩画のように背景が滲んでいった。
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