第9話

文字数 2,736文字

 本当に久しぶりに長時間眠ることが出来た。日付が変わったあたりに気が付いたら眠っていて、目覚まし時計がかかる前に自然と目が覚めた。遮光カーテンから差し込む柔らかな日差し。ぶっきらぼうな寒さ。しかし寒さに不快感はなかった。
 リビングに出ると母さんの姿はもうなく、僕は一人朝ご飯を食べた。支度を済ませ学校に向かった。ちゃんと眠れたおかげか、いつもより頭の中がすっきりしていた。いつもの通学路。見慣れた景色。そのはずなのに、その景色は、いつもと違って見えた。木々には少しづつ緑が芽吹き始め、春の訪れを感じさせる。寒さに耐え、春を待ちわびるだけの日々だったが、しかし確実に、季節が変わろうとして来ている。芽吹きを待つ草木は、確かにそこに生きている。アスファルトの隙間から雑草がその姿を現していた。この土地にはあまり雪は降らないが、きっと、遠くの山の方では雪解けが始まっていることだろう。
 学校に着くと、綾川さんが挨拶をしてくれた。
 「おはよ」
 「おはよう」
 僕は不器用に口角を上げた。
 そんな短い会話だけで、僕は心が柔らかなもので包まれていくような感じがした。
 その日の夜、僕はあの山に向かった。眠れなかったわけではない、ただまたあそこに行きたかっただけだ。息をからしながら山を登っていく。相変わらず、その木々から顔をのぞかせる月や星の明かりは綺麗だった。公園についた僕は、腐食した木製のベンチに座った。ぼんやりと空を眺める。僕は親指で月を覆い隠した。それほどに空に輝く月は小さい。けれど、何故か届きそうに思えるのだ。手を伸ばせば、この月に手が届きそうに思えてならないのだ。馬鹿げた話だろうか。荒唐無稽な妄想に過ぎないのだろうか。でも僕は、手を伸ばしてみたい。そう思った。
 なんだか変な気持ちだった。いつもの僕ではないようだ。僕はふと、綾川さんのことを思い出した。綾川さんのことを思い出すと、なんだか体が熱くなっていった。こんな寒いのに、それすら感じられなくなってく。いてもたってもいられなくなった僕は立ち上がった。そして意味も分からず滑り台の上に上った。大きくなって滑り台を上から眺めると、高校生の僕では窮屈なくらい幅が狭い。それでも僕はその滑り台を滑った。けれど、やはり幅が狭くてまるで勢いがつかず、まるでずるずるとずり落ちていくかのように僕は地面に足をついた。僕はなんだかおかしくなって、その場で大声で笑った。声を上げて笑うのなんて本当に久しぶりで、僕は自分笑い声ってこんな感じだったんだなあと不思議な感慨を覚えた。
 そうして僕は公園を出て、この前のように坂道を駆け下りた。絵具に水を落とした時のように背景が滲んでいく。点だった星の明かりが線になっていく。世界を置き去りにし、僕は坂道を駆け下りていく。すると、僕は自分すらも追い越してしまったような気持ちになった。速さについてこれなくなった僕が、半透明な姿となって僕の体から切り離されていくかのような感覚。
 僕はそれがたまらなくおかしくて、また声を上げて笑った。
 そうして僕は自分の部屋に戻った。暗い自室で一人物思いにふける。
 「……」
 僕は綾川さんへの感情に名前を付けなければならない。その名前は、ずっと僕の頭の片隅にあった。けれどもその名前を付けることに躊躇いを感じていた。けれど、今なら大丈夫だ。
 僕は綾川さんのことが好きなのだ。
 誰かに恋愛感情を抱くのは今回が初めてではない。けれどここまで強いのは初めてかもしれない。そう思うと、綾川さんの存在の大きさに改めて気づかされる。
 僕はその日もよく眠ることが出来た。
 そうして次の日。
 三限の授業は体育だった。けれども以前のような憂鬱さはそこまでなかった。確かに見知らぬ女と手をつないだり踊ったりするのは苦痛を伴うものであったが、しかし、綾川さんの番が来た途端、そんなものはすっかりなくなってしまった。
 綾川さんと手をつなぎ踊る。緊張で体が強張っていく。息が乱れる。けれどもこの時間がもっと続いてほしいとも思う。不思議なものだ。
 すると、僕は思わず振付を間違えてしまった。途端、頭が真っ白になった。
 「ごっ、ごめん」
 恥ずかしさのあまり小声で謝罪すると、綾川さんは軽快に笑った。
 「気にしないで」
 「ありがとう……」
 そうして綾川さんの番が終わり、僕が次の女と踊りはいじめた。恥ずかしさのせいでまだ頬が熱い。
 いや、これは恥ずかしさの所為だけではないかもしれない。
 綾川さんが見せたあの笑顔が、まだ僕の頭の中に張り付いていたのだ。まるで瞼の裏に張り付いているかのように、瞳を閉じる度にその顔が浮かんでくる。口にしてしまえば単純なワードが頭の中に生まれては消えていく。
 体育が終わり、着替えながら、僕はある一つの決心を固めた。
 僕は。
 僕は……。
 放課後、僕は綾川さんを教室に呼び出した。静かな教室に僕ら二人。窓からは夕日の茜色がさしこむ。
 「どうかしたの?」
 綾川さんが苦笑いしながら僕に問いかける。
 「あのさ……」
 口の中が渇いていく。言葉が頭の中でまとまらない。
 僕は何を言おうとしていたのだろうか。
 僕は何を伝えたいのだろうか。
 「……」
 僕は、僕は。
 僕は綾川さんが好きだ。だから……。
 「好きです。付き合ってください」
 僕は頭を下げた。それは一世一代の告白だった。空気がピンと張り詰める。静寂すらもが耳に痛い。綾川さんは何も言わなかった。怖くなった僕はちらりと綾川さんの表情を窺った。
 その瞬間、僕は息をのんだ。
 綾川さんは表情を歪めていた。そこには苦悩の色が色濃く表れていた。しかし、なんとかといった具合に表情を取り繕い、いつもは見せないような不器用な笑顔で言った。
 「ごめんね」
 今なんて言った……?
 僕の頭が、いや、なにもかもがぐちゃぐちゃにかき乱されていく。
 なんで?なんでなんでなんでなんでなんでなんで?なんでなんで何でナンでナンデNANDE……。
 「なんで!?なんでダメなの?」
 たまらず僕は大声を出した。
 「だって、私彼氏いるし」
 「あっ……」
 知らなかった。ああ、もしかしたらフォークダンスの時仲良さそうに手をつないでいた男のことなのではないだろうか。そうだ。そうに違いない。
 「それに、あんまりあなたのことそう言う目では見れないかも」
 「……」
 結局。
 結局綾川さんも有象無象の女と大差なかった。馬鹿のように運動部の男と付き合って、僕を否定する。僕を受け入れるはずもなく。
 僕はずっと、この女に幻想を抱いていただけなのだ。
 この女も、結局は阿呆なのだ。
 「じゃあ、ごめんね」
 そう言い残して綾川さんは教室を出て行った。
 僕は、一人になった。
 
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