第5話
文字数 2,545文字
寝不足の所為か、ズキズキと痛む頭を抱えながら僕は登校した。クマは日に日に濃くなっていく一方だった。寒さが痛みを増長させるようだ。僕はいつもより猫背になりながらトボトボと歩いた。不機嫌なのを隠そうとするつもりさえなかった。それに、今日は明確に嫌なことがあることが確定している。それは、フォークダンスの練習だった。
僕らの高校では新学期の五月に体育祭が行われる。従って、その前年の一月から体育祭の練習が行われるのだ。次の体育祭での学年全体の種目はフォークダンスと十人十一脚。この時期は主にフォークダンスの練習を行っている。そして、今日はその体育の授業があるのだ。こんなにも憂鬱なことはない。
なんだってフォークダンスなんか……。
そもそも僕は行事ごとが嫌いである。体育祭や文化祭。大きいので言うとこの二つだろうが、僕はこの二つともに、憎悪に近い感情を抱いていた。僕は運動が苦手だ。体育にいい印象なんて全くない。小学生六年生の頃、50メートル走にて、僕の記録は10秒台だった。それでも当時の僕は真剣に走ったつもりだった。けれど、ゴールテープの前に待ち構えていた先生が僕に言った言葉は「もっと真剣に走れよ」というものだった。唖然とした僕は深い悲しみを感じた。僕の努力は、認められなかったのである。その年の運動会、徒競走にて、僕はクラスの代表として走った生徒のことを「こけて恥をかいてしまえばいいのに」と呪ったものだ。
体育はできなければ罵倒され、否応なく他者と比較される。出来ない人間は授業の間、ずっとこの劣等感に苛まれ続ける。しかし先生はそんな僕に手を差し伸べようともしない。出来ない僕が悪いのだと一蹴する。速く走ろうにもその走り方を知らないまま、教えられないまま、努力を、そして結果を強要される。
体育なんてなくなってしまえばいいのに。
なんだってあんなことをしなければならないのだろうか。体育なんて社会に出た時、まるで使わないだろう。運動能力の高さが、一体社会に出た時何の役に立つのか分からない。小学生の頃、女子から人気のある男子生徒は足の速い生徒ばかりだった。その風潮は、高校生になった今でも特に変化が見られない。クラスの人気者と呼ばれるのは、いつも運動部に所属している生徒ばかりだ。結局はどいつもこいつも馬鹿なのだ。無価値なものに価値を見出す。しかしそれは錯覚でしかない。社会に出た時、そう言ったやつらの体たらくを見て、多くの女は自分の愚かさに気づくのだろう。それで気付けないようならば、それは本当に度し難いことだ。
僕は殺人鬼のことを思い出した。あの殺人鬼が、愚かな女たちに天誅を下してくれないものだろうか。やはり僕にとって、顔も名前も知らない殺人鬼の存在は、この世界を変えてくれるかもしれない唯一の希望のように思われた。
学校についた僕はいつも通りスマホゲームを始めた。いやなことを、少しの間でもいいから忘れていたかったのだ。体育は一限。朝のHRが終われば準備しなければならない。憂鬱だ。なんだかイライラしてくる。
「おはよ」
「あっ、おはよう」
そんな時でも、僕の心を優しくなでてくれるのは綾川さんだった。綾川さんはきっと、大多数の阿呆な女とは違い、冷静な目で人を分析していることだろう。聡明な彼女は安易に運動部の男は好きにならないはずだ。断っておくが、僕は綾川さんに対し、恋愛的な感情は抱いていない。このくだらない生活における一抹の清涼剤と言える存在であることは認めるが、しかし綾川さんと仲良くなりたいとか、あまつさえ付き合いたいとか、そういう事は考えていない。とはいえども、相手から告白されれば断る理由なんてないし、それは応えるにやぶさかではない。しかし自分から告白なんてするはずがない。僕はそういった男女関係を拒絶し続けてきた。安きに流れていく女の、同情すら感じうる姿を幾度となく見てきた。そんな僕が、今恋愛にうつつを抜かすはずがないのだ。
HRが終わり、僕は服を着替え始めた。冬に着る体操服は、どこか生暖かい。体操袋の中に入れていたから中で温まったのだろうか。その生暖かさは、ねっとりと体にまとわりついてくるかのように感じられ、僕はなんだか気持ちの悪さを感じた。僕は誰よりも早く着替えを済ませた。人前で裸体をさらすのは好きじゃない。僕は身長170センチ弱51キロという貧相な体つきをしている。胸の下の方からはあばらが透けて見える。その骨の丸みを帯びた出っ張りからは生々しさが感じられ、自分の体ながら気味が悪かった。そんな体で人前で服を脱ぐだなんて嫌に決まっている。
僕はふと、あの猫の死体を思い出した。
……気味が悪い。
「死」が、僕の呼吸を乱していった。しかしそこにあるのは不快感だけではなかった。僕は黒々とした塊の中に、どすのきいた赤色の存在を見出していた。それはまごうことなき「死」への関心であった。
誰よりも早く着替えた僕だったが、結局グランドに出たのは一番最後だった。もう点呼が始まっていて、いな一番僕は先生に怒られた。周りの生徒も僕に批判的な視線を向ける。
うるせえなあ。
そんなイライラと共にフォークダンスの練習は始まった。
グラウンドと地続きのテニスコートから行進し、そしてグランド全体を囲むようにしていく。その間、先生が勝手に決めたペアと手をつないでいなければならなかった。僕が今手をつないでいる生徒は、勿論話したことなどない女で、綾川さんではなかった。
僕は自分の動悸がさっきよりも激しくなっていることに気づいていた。怖い。只々怖い。頭の中であの二人の罵倒が反響している。「きもーい」「セクハラじゃない?」「近づかないでよ」僕は段々と僕でなくなっていった。吐きそうだ。今にも吐きそうだ。
先生が「背筋を伸ばせ」とか「目を合わせろ」とか、そんなことを言う。けれど、そんなことできるはずがなかった。この痛みに耐えるので精いっぱいで、他のことになんて気を使えるはずがない。それに、今隣にいる女と目を合わせようものなら、僕は正気ではいられなくなってしまう。
ああ。
ああ……。
なんで僕がこんな思いをしなきゃいけないんだろう。
全員、殺してしまいたいくらいだ。
僕らの高校では新学期の五月に体育祭が行われる。従って、その前年の一月から体育祭の練習が行われるのだ。次の体育祭での学年全体の種目はフォークダンスと十人十一脚。この時期は主にフォークダンスの練習を行っている。そして、今日はその体育の授業があるのだ。こんなにも憂鬱なことはない。
なんだってフォークダンスなんか……。
そもそも僕は行事ごとが嫌いである。体育祭や文化祭。大きいので言うとこの二つだろうが、僕はこの二つともに、憎悪に近い感情を抱いていた。僕は運動が苦手だ。体育にいい印象なんて全くない。小学生六年生の頃、50メートル走にて、僕の記録は10秒台だった。それでも当時の僕は真剣に走ったつもりだった。けれど、ゴールテープの前に待ち構えていた先生が僕に言った言葉は「もっと真剣に走れよ」というものだった。唖然とした僕は深い悲しみを感じた。僕の努力は、認められなかったのである。その年の運動会、徒競走にて、僕はクラスの代表として走った生徒のことを「こけて恥をかいてしまえばいいのに」と呪ったものだ。
体育はできなければ罵倒され、否応なく他者と比較される。出来ない人間は授業の間、ずっとこの劣等感に苛まれ続ける。しかし先生はそんな僕に手を差し伸べようともしない。出来ない僕が悪いのだと一蹴する。速く走ろうにもその走り方を知らないまま、教えられないまま、努力を、そして結果を強要される。
体育なんてなくなってしまえばいいのに。
なんだってあんなことをしなければならないのだろうか。体育なんて社会に出た時、まるで使わないだろう。運動能力の高さが、一体社会に出た時何の役に立つのか分からない。小学生の頃、女子から人気のある男子生徒は足の速い生徒ばかりだった。その風潮は、高校生になった今でも特に変化が見られない。クラスの人気者と呼ばれるのは、いつも運動部に所属している生徒ばかりだ。結局はどいつもこいつも馬鹿なのだ。無価値なものに価値を見出す。しかしそれは錯覚でしかない。社会に出た時、そう言ったやつらの体たらくを見て、多くの女は自分の愚かさに気づくのだろう。それで気付けないようならば、それは本当に度し難いことだ。
僕は殺人鬼のことを思い出した。あの殺人鬼が、愚かな女たちに天誅を下してくれないものだろうか。やはり僕にとって、顔も名前も知らない殺人鬼の存在は、この世界を変えてくれるかもしれない唯一の希望のように思われた。
学校についた僕はいつも通りスマホゲームを始めた。いやなことを、少しの間でもいいから忘れていたかったのだ。体育は一限。朝のHRが終われば準備しなければならない。憂鬱だ。なんだかイライラしてくる。
「おはよ」
「あっ、おはよう」
そんな時でも、僕の心を優しくなでてくれるのは綾川さんだった。綾川さんはきっと、大多数の阿呆な女とは違い、冷静な目で人を分析していることだろう。聡明な彼女は安易に運動部の男は好きにならないはずだ。断っておくが、僕は綾川さんに対し、恋愛的な感情は抱いていない。このくだらない生活における一抹の清涼剤と言える存在であることは認めるが、しかし綾川さんと仲良くなりたいとか、あまつさえ付き合いたいとか、そういう事は考えていない。とはいえども、相手から告白されれば断る理由なんてないし、それは応えるにやぶさかではない。しかし自分から告白なんてするはずがない。僕はそういった男女関係を拒絶し続けてきた。安きに流れていく女の、同情すら感じうる姿を幾度となく見てきた。そんな僕が、今恋愛にうつつを抜かすはずがないのだ。
HRが終わり、僕は服を着替え始めた。冬に着る体操服は、どこか生暖かい。体操袋の中に入れていたから中で温まったのだろうか。その生暖かさは、ねっとりと体にまとわりついてくるかのように感じられ、僕はなんだか気持ちの悪さを感じた。僕は誰よりも早く着替えを済ませた。人前で裸体をさらすのは好きじゃない。僕は身長170センチ弱51キロという貧相な体つきをしている。胸の下の方からはあばらが透けて見える。その骨の丸みを帯びた出っ張りからは生々しさが感じられ、自分の体ながら気味が悪かった。そんな体で人前で服を脱ぐだなんて嫌に決まっている。
僕はふと、あの猫の死体を思い出した。
……気味が悪い。
「死」が、僕の呼吸を乱していった。しかしそこにあるのは不快感だけではなかった。僕は黒々とした塊の中に、どすのきいた赤色の存在を見出していた。それはまごうことなき「死」への関心であった。
誰よりも早く着替えた僕だったが、結局グランドに出たのは一番最後だった。もう点呼が始まっていて、いな一番僕は先生に怒られた。周りの生徒も僕に批判的な視線を向ける。
うるせえなあ。
そんなイライラと共にフォークダンスの練習は始まった。
グラウンドと地続きのテニスコートから行進し、そしてグランド全体を囲むようにしていく。その間、先生が勝手に決めたペアと手をつないでいなければならなかった。僕が今手をつないでいる生徒は、勿論話したことなどない女で、綾川さんではなかった。
僕は自分の動悸がさっきよりも激しくなっていることに気づいていた。怖い。只々怖い。頭の中であの二人の罵倒が反響している。「きもーい」「セクハラじゃない?」「近づかないでよ」僕は段々と僕でなくなっていった。吐きそうだ。今にも吐きそうだ。
先生が「背筋を伸ばせ」とか「目を合わせろ」とか、そんなことを言う。けれど、そんなことできるはずがなかった。この痛みに耐えるので精いっぱいで、他のことになんて気を使えるはずがない。それに、今隣にいる女と目を合わせようものなら、僕は正気ではいられなくなってしまう。
ああ。
ああ……。
なんで僕がこんな思いをしなきゃいけないんだろう。
全員、殺してしまいたいくらいだ。