第8話

文字数 2,760文字

 どれだけ強く願っても、世界は変わらない。僕の周りのちっぽけな世界は、まるで変わり映えのないままで、糞みたいな毎日が続いている。僕は昨日のような今日過ごし、今日のような明日を過ごすのだろう。
 殺人鬼は、一週間経っても現れなかった。
 僕はいつも通り学校に行った。今日は体育がある。朝から憂鬱だった。
 なんでこんなこと……。
 何度も繰り返した不満を、もう一度繰り返す。けれどそんなことをした所で気が晴れるわけではない。現状は変わらない。ため息ばかりが口をつく。
 昼休憩。学食でご飯を買った。一日の食費は1000円。これで昼と夜のご飯を食べなければならないので贅沢はできない。コンビニと比べれば安いのかもしれないが、学食も驚くほど低価格というわけでもない。僕はあったかいうどんを頼んだ。食堂のおばちゃんに食券を渡し、番号が呼ばれるのを待つ。ここのうどんは安くていい。なんと一杯300円。700円あれば夜ご飯に多少いいものが食べられる外食は厳しいがカップ麺とおにぎりと食べてもおつりがくるだろう。
 学食のおばちゃんが僕の場号を呼んだ。僕はうどんをもって、広い学食の一番端っこの席に一人座った。一人にはもう慣れている。喧騒の中においても、それは変わらない。一人でいても、別に寂しくない。寧ろ誰かといる方が面倒だ。
 ここのうどんは、麺は柔らかくて出汁もなんだか味が薄いが食べられないほどではない。ただ量は多い。この量で300円というのは破格だ。味にも目をつぶれる。というか、そもそも僕は腹に入ればそれでいいと思っている。食にそこまでこだわりはない。消化してしまえばおいしかろうがまずかろうが一緒だ。
 手早く昼食を済ませた僕は体育館の男子更衣室に向かった。昼休憩が終われば体育がある。僕はため息をついた。この男子更衣室にも人影はなかった。この学校の体育館は校舎から少し離れている。校門を出て、短い横断歩道を渡らなければいけない。そういうこともあり、男子生徒は普通、着替える際は教室か、或いはトイレだった。僕も態々ここに来て着替えることは滅多にないが、昼休憩の後に体育があるときは決まってここに来ていた。着替えを終えた僕は、人影も音もない更衣室で、一人ソシャゲをして時間を潰した。
 チャイムが鳴り、僕はグランドに向かった。そこには、もうちらほらと生徒の姿があった。その有象無象の中に、綾川さんの姿があった。体操服姿の綾川さんは肩にかかるくらいの髪の毛を結んでいた。身長の高さも相まって、スポーティーな印象を与える。普段はどこか浮世離れした美しさがあるが、今の綾川さんはどこか話しかけやすそうだ。ぼんやりと綾川さんの方を見ていると、僕の視線に気が付いたのか、綾川さんと目が合った。僕は慌てて視線を逸らした。なんだか恥ずかしい。顔が熱くなっていく感覚がした。
 フォークダンスの練習で、まだ僕は綾川さんと踊っていなかった。憂鬱な体育を、ずる休みすることなく出席している理由には、綾川さんの存在があった。きっと綾川さんは僕を拒絶しないだろう。僕を受け入れてくれるのは綾川さんしかいない。きっとそうだ。そうに違いない。
 そうしてフォークダンスの練習が始まった。僕はチラチラと綾川さんの方を窺った。綾香さんは運動部の高身長な男と手をつないでいた。その様子はどこか仲睦まじく見えた。一方僕は、名前も知らない女と手をつないでいる。綾香さんの様子を窺う傍ら、横目でそのこの子ことを見たが、その表情からは一切の感情が読み取れなかった。
 普通、フォークダンスというのは表面上だけでも楽しそうに行うものだ。実際、周囲の生徒はどこか和やかで楽しそうにしている。けれど僕たちは違った。憂鬱さを隠そうともしない僕と、それにつられるかのように表情を見せない女。どうせ女は、僕と手をつなぐことを内心嫌がっているのだろう。けれどそれでいい。楽しさなんていらない。こんなもの壊れてしまえばいいのだ。
 でも、綾川さんは……。
 楽しげな音楽と相反するかのような態度で踊る僕。次々と変わる女たちも、まるで流れ作業かのように踊っている。その心中を考えると、僕は吐きそうになる。耳の奥の方で幻聴がしてくる。僕を罵倒する声が聞こえてくる。でも、お前たちが僕のことを嫌いなら、僕だってお前たちのことが嫌いなんだ。
 自意識が肥大化していく。ああ、気持ちが悪い。
 そもそもなんなんだよ、この振り付け。何を意図して、何を目的として、こんな振付になったのかまるで理解できない。体育祭本番の日には、これも大衆の目に晒されながら踊らなければならないのだ。そんなの、自分のことを阿呆ですと見知らぬ他人に自己紹介しているようなものだ。まさに恥の極み。愚の骨頂。こんな行事の礼賛し、強制する教師どもはやはり無能だ。
 不満を隠そうともせず踊っていると、気付かぬうちに、遂に綾川さんの番が来た。一瞬身構えた僕だったが、そんな僕にも綾川さんは手を伸ばしてくれた。その手を取り、綾川さんと踊る。
 僕を相手にしても、綾川さんの態度は変わらなかった。いつも通り毅然としていて、それでいて笑顔を絶やさない。流れ作業ではないものがそこにはあった。
 僕は体が強張っていくような感じがした。脈拍が乱れ、思考はまとまらず、五感が鈍っていく。不思議な感覚だった。
 やはりそうだ。そうなのだ。綾川さんは、綾川さんだけは、僕を受け入れてくれる。僕を人にしてくれる。
 なんとも名状し難い時間だった。真っ黒な塊を優しくなでられるかのような、そんな時間だった。綾川さんの番はすぐに終わり、僕は流れ作業に戻った。しかし黄色い液体が僕の心を満たしていた。
 そうして体育の時間は終わった。僕は夾竹桃のような幸福感を大切に抱えながら、教室に戻った。制汗剤のにおいが充満する教室。僕は顔を顰めた。少しすると、そんな教室に女たちが入ってきた。そこには勿論綾川さんもいた。綾川さんは取り巻き達と楽しそうに会話をしていた。すると再び綾川さんと目が合った。僕はやはり急いで視線を逸らした。なんだか気まずさを感じた僕は、次の授業の準備を始めた。しかし視線で綾香さんのことをチラチラと窺ってしまう。すると、綾川さんの取り巻き一号が顔を顰めながら綾川さんに話しかけていた。胸にチクリとした痛みを感じた。耳をふさぎたくなったが、しかし、こういう時に限って聴覚は敏感だった。
 「涼子気を付けなよ。あいつちょっとキモイし」
 「そうかなあ、話すといい人だよ」
 「涼子はお人よしだなあ」
 僕は、感じたことのない心の動きを感じた。心臓が大きく跳ねるかのような、そんな感覚だった。感情が、体からあふれ出そうになった。
 僕は、この感情に、名前を付けなければならないかもしれない。
 
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