第12話

文字数 1,954文字

 僕の眼前に奴が現れる。そう、灰色の僕だ。
 灰色の僕は、やはり何も言わず僕の前に立っている。そして、やはりその姿は、僕の心を濁流にのみ込んだ。
 こいつは一体、何故僕の前に現れるんだろう。僕に何を伝えようとしているんだろう。
 何も分からない。あまりにも未知である。
 「何が目的なんだよ!」
 静寂に耐えられなくなり、僕は叫んだ。
 しかし、いや、やはりというべきか、何の返事もない。
 僕はいてもたってもいられなくなった。しかし、この感情をどう発散させればいいのか分からない。手足の先がヒリヒリするようなこの情動をどう発散すればいいのか分からない。その場で地団駄でも踏めば発散されるのだろうか。いや、それは無理だろう。何故なら、諸悪の根源は僕の眼前でたたずむ灰色の僕なのだから。
 気が遠くなりそうだ。気が狂いそうだ。
 「……」
 頬をやけに冷たい汗が流れたその瞬間、僕の意識は現実世界へと戻った。
 数秒前まで眠っていたとは思えないほど息が荒い。寝汗もひどい。
 僕はため息をつきながら布団を出た。
 このところ変な夢ばかり見る。その度に寝汗をびっしり書いていて、その身体にまとわりつくかのような不快感に耐えられなくて、朝シャワーを浴びる習慣ができはじめていた。シャワーを浴びたところで、夢の中で得た漠然とした不快感までもが洗い流されるわけではない。
 なんなんだよ……。
 腹の虫がおさまらない。なんだかイライラする。
 シャワー浴び終えた僕は朝のご飯を食べた。食器を台所に片づけると、昨日洗った包丁が目に入った。その瞬間、大きく心臓がはねた。
 そうだ。僕はあいつを殺さなきゃいけないんだ。
 僕は微かに震える手で包丁を掴んだ。特に高くもない包丁。けれど、きっとあいつを殺すことくらいならできるはずだ。僕は自分の人差し指を軽く切った。そこからは当然のように血が滲み、僕の薄橙色を汚していく。そうだ。これは狂気なんだ。人を殺せるんだ。
 僕はタオルで包丁をくるみ、鞄の中に忍ばせた。
 そうしていつものように家を出た。
 冬の朝は突き刺すような寒さだ。少し暖かくなったかと思いきや、最近また寒くなってきた。寒いのは嫌いだ。僕はコートのポッケに手を突っ込みながら歩いた。
 学校につくと、すぐイヤホンをつけ携帯ゲームにいそしんだ。もう誰も僕に挨拶はしてこない。そう、誰も挨拶なんてして来やしないのだ。
 特に誰とも話すことなく一日が終わっていく。これが当たり前の日常だ。けれど、今日は違う。今日はきっと、今までよりもずっといい日になるはずだ。
 放課後、僕は綾川のことをつけた。今日は塾に向かう日だ。綾川はいつも通り塾に入っていった。僕は道路を挟んで向かい側のカフェに入った。コーヒーを頼み、道路側の席を陣取る。一応教科書とノートを広げ勉強しているふりをした。
 勉強してるふりを続けて数時間。
 もうしばらく店員から早く出ろという視線を送られ続けている。気付かないふりをするにもあまりにも視線が痛い。しかし僕は断固としてこの席を動くつもりはなかった。
 「……」
 仕方がないのでもう一杯だけコーヒーを頼んだ。
 そうしてまた勉強してるふりに戻る。
 そうしてしばらくした時、塾から出る綾川の姿が見えた。僕は急いで会計を済ませ、店を飛び出した。信号を渡り、綾川の後ろをつける。
 僕は鞄の中をまさぐった。ついに。遂に今日。僕はあいつを殺すんだ。
 心臓が大きな音を立てはじめ、血管が膨張していく。
 あたりはすっかり暗くなっていて、もう完全に夜だ。僕は自分の口角がつり上がっていくのを感じた。抑えなきゃ。口元を手で隠す。ああでもダメだ。僕は……。遂に僕は今日……。
 そんなことを考えていると、通行人と目が合った。その通行人はそんなに寒いのか黒いパーカーを頭からかぶっていた。縮れた髪の毛の隙間から真っ黒な瞳が垣間見える。その黒は、底なし沼のようだった。僕は何故かその瞳が頭から離れなかった。初めて見たはずなのに、何故か僕にはその瞳の黒に見覚えがあったのだ。
 どうしてなんだろう。
 僕はあの真っ黒な瞳に監視されているかのような気分になった。今こうして綾川を尾行していることも、あの人身に監視されてるんじゃないか。鞄に忍ばせた包丁のこともすべてばれてしまったんじゃないか。そんな不安に駆られた。
 違う、僕は、だって僕は、そんなんじゃない。そんなんじゃ……。
 言い逃れをしようにもその瞳は僕をじっと見つめて話さない。
 ああ、ああ……。
 怖くなった僕はその場かあら逃げ出した。綾川のことなんてどうでもよくなっていた。
 家に帰った僕は一目散に布団にくるまった。
 最悪の一日だ。
 目を瞑るとあの事が思い出され、まるで眠れないまま、僕は朝を迎えた。
 僕はその日、学校を休んだ。
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