第6話 時間が経つと読み方が変わる

文字数 1,327文字

親になると親視点で物語を見てしまって、子供の無謀さが気になる。または、子供が酷い目に合う物語がダメになった。という意見を見かける。

私は親になっていないので、そのような変化はない。それに、子供でも大人でも「酷い目に合う」物語は好きだ。物語が悲惨であればあるほど、どうやってそれを超えるのかに興味がある。
しかし同時にそれは嫌だという思いが働いているのか、脳内で「酷い目に合わなかった物語」が自然に流れていく。
矛盾しているだろうが、私はそうやって「if(もしもの世界)」を楽しみながら、物語も楽しんでいる。


そして、私がダメだと思う物語は子供のころからダメであり、大人になってからダメだと思うようになる作品は今のところない。
ただし、大人になってから「ダメな理由」を理解することはある。よくわからずに「嫌だな」と思っていた点について、言葉での説明がつくというそれだけの違いである。


それでも、大人になると「物語の読み方」は変わっていく。
私にとっては【カミュの「異邦人」】がそれだった。
最初に読んだときは中学生だったが、「なぜ、暑いからと殺人を行うのか」がわからなかった。

物語を知らない人のために簡単に説明する。主人公は母親を亡くして、海へ遊びに行きそこで殺人を行う。その理由は「暑かったから」と答える。

さて、疑問符しかないこの物語は、中学生の私には理解できなかった。
つまらないといえば簡単なのかもしれないが、そうではなくて「わからない物語」として私の中に残ったのだ。
面接練習でこの物語はわからなかったと答えたら、「わからない物語ではなくて、わかっている作品のことを話せ」と言われた。
確かにそうなのだが、今の私なら中学生の時の私に、
「わからないということが分かっただけでいいし、十年後に読み直してどんな物語なのかをしっかりと理解したいですと付け加えればベスト回答だよ」
と言ってあげたい。

さらに言えば、中学生でこの作品を一通り読めるのはすごいよと言ってあげたい。かなり難解だと今でも思うし、いろいろな作品を読んできたので「異邦人」は簡単な作品ではないというのはわかる。
そして、中学生から二十年後ぐらいに読み直したら、やっと意味が理解できた。

異邦人は差別の物語だ。

それが大人になって読み直してはっきりと分かった。ただし、異邦人が書かれた当時は「差別」という概念は存在せず、カミュはこれを「不条理」として書いている。

でもこれが理解できたのは私が「大人になったから」ではないのかもしれない。差別について様々な情報と知識を蓄積してきたからだ。そして、「大人になる」というのは単に時間が過ぎるということではなくて、経験と知識と情報の蓄積の時間を続けてきたということ。

そして得るものは「人によって違う」
私はたまたま差別について情報を得てきて、それが異邦人にヒットしたというだけの話かもしれない。

親になって変わったという人も、たまたまその方面の知識情報を得る機会があっただけかもしれない。
そして、「親にならなくても」それを感覚的に得る人もいる。子供のころから子供への虐待が嫌だという感覚の人もいる。

物語を楽しむには、感覚と知識と情報がうまく「物語と合致する」必要があるのかもしれない。



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