第5話 運命の分かれ目

文字数 4,099文字

 三等機関士のジェームスが、隣の機関室で、異様な音を聞き、重いドアを開けたときだった。すでにその部屋一杯に浸水していた海水は、彼に襲いかかるようにして部屋の中に怒濤(どとう)のように進入してきた。

「うわぁ、こ、これは!」

 それは白い牙を()いて、彼に襲いかかってきたのだ。海の水に親しんできた彼が、これほど海水を怖いと思ったことはなかった。一瞬だが彼は覚悟した、そして思った。
(この船は沈むかもしれない、そして俺も……)

 しかし、そう思いながらも彼は何故か不思議に冷静だった。機械いじりが好きで、海が好きになり、船が大好きな彼は海に関することを勉強し、ようやく機関士の資格を取ったのだ。
 それからようやく、この船の船乗りの一員になったのである。彼は嬉しかった。(これでようやく長年の夢が叶った)とそう思っていたからだ。

(もし俺は死んだとしても悔いはないさ、でも最後まで人の為に尽くさなければいけない。それが俺の使命であり生き甲斐であり、俺は海の男だから……)

 それは、海を愛する男の本当の気持ちだった。
(俺以外にも、この船の男達はそう思っているに違いない)海に憧れてその道に入ったジェームスはそう思わずにはいられない。しかし、海は、海水はそんな彼にも容赦なく襲いかかってきた。思わず海水に足元をすくわれたジェームスは床にドウとばかり倒れ込んだ。

(うあぁっ!)

 思わず叫び、弾みで倒れかけたとき、彼は左手に強烈な痛みを感じ、顔をしかめた。彼は倒れた時、弾みで近くにあった金具に思い切り左腕をぶつけたようである。身体のどこかでボキッッ! という鈍い音を聞いた。同時に、左腕に強烈な激痛が走ったのである。
(しまった! やったかな、腕を砕いたかもしれない。くそっ! こんな時に……)なんとか必死で立ち上がろうとしても彼の身体の下半身は海水に浸かっていた。

(一刻でも早く、このことを誰かに知らせなければ)その機関室にある幾つかのエンジンは既に止まっているだろう。時間と共に、全てのエンジンが、ボイラーが、電気が消える。とっさの判断で彼は少しでもそれを阻止したいと思った。
 ようやく押し寄せる波を掻き分け這うようにし、柱にある緊急連絡用の電話機のところへ辿り着いた。

 左利きのジェームスは馴れない右手で電話機を掴んだ。錨の刺青の入った彼の左腕は腫れて、丸太のように膨らんでいた。熱もある。彼の身体は上から下までずぶ濡れで、海水は胸の所まで浸かっていた。いざ、緊急のダイアルを回しても誰も中々出ない。

 ひょっとして、すでに電話は通じないのだろうか、再びダイヤルを回しながら、彼は祈るように受話器を握っていた。呼び出しの音が鳴っているのだが、誰も出ない。
 彼は、何故かこの瞬間に一年前に結婚して、今は身重な妻のことを思い出していた。今年の秋には生まれるはずだが、男の子か、女の子だろうか……(もし生まれたとしても、俺はその子を抱くことが出来るのだろうか? 顔も見ないままになってしまうのでは……)そう思うと何故か彼の眼には涙が溢れてくるのだ。

(マリア、もし俺がいなくなっても、無事に赤ちゃんを生んでくれ、この俺の分身を丈夫に育てて欲しい。俺の為に、マリアの為に、それから俺がまだ合っていない赤ちゃんの為にも、マリア、どうかお願いだ……)そんな感傷に浸っているとき、急に受話器から音がした。

「ジェームス! ジェームスか?」
「あ、はい、ジェームスです」
「今、船が危なくなっている、どうした?」
「あぁ、マーチン機関長ですね、第三機関室が水浸しで危ないです! やられています」
「そうらしいな、他の機関室も亀裂で海水にやられている、もういいから戻ってこい!」
「でも、もう少し」
「バカを言うな、海水で機関室はどこもみんなやられているんだ、急いで上に上がってこい」
「でも……」
「バカヤロウ! 死にたいのか、死ぬのはいつでもできるんだ、生きるんだ!」
「はい」
「怪我をしていないか?」

「あ、はい、滑って、どこかにぶつけて腕を折ったようで」
「そうか、それは大変だったな! しかし、私はいまここから動けないんだ、誰かを助けに出す、死ぬなよ、ジェームス!」
「いえ、大丈夫です」
「わかった、では直ぐに戻ってこい、良いなジェームス」
「はい」

 いつも、どっしりとした温厚な機関長はどんな時でも冷静だった。少なくともジェームスにはそう見えたのだが。しかし、今の機関長のマーチンは焦っていた。船の安全を守ることは自分の使命であり、それは最高責任者である船長とはまた違った思い入れなのだ。
 それが自分の仕事だといつも自負していた。

(もっと早く事故に気が付いていれば、亀裂が出来たことを早く気が付いていたのなら……)
 クジラによる船底に出来た傷は始めはそれほどでもなかった。しかし、不幸にもそれに気が付かなかったのは機関長である自分の責任である。機関長は船の情況を見極めて、危険を回避できるか、復帰できるかの判断すると同時に、人の安全を確保しなければならないからだ。
 もし、この船が、そうなったときの覚悟は出来ていた。

 沢山のエンジン達に囲まれて、全ての機能を発揮させ、それらを駆動、管理するそれぞれの機関士達の仕事を的確に判断し、指示を与えるのが彼の使命である。
 この大きな部屋には電気系統用の発電用タービン、一万馬力のスクリュー、タービン、重油で作動するボイラー等が左右上下にぎっしりと詰まっている。

 これらは機関室全体で上階と下階と別れており、階段を上り下りしながら計器の状態を監視するのだ。しかし、そのエンジン・ルームの下階は海水で被われ、上階まで押し寄せていた。
 マーチンが機関長を務めるその上の階層には、厨房とレストランがあった。このクルーズ船では、朝食、モーニング・ティー、昼食とアフタヌーン・ティー、更に夕食、夜食と一日に六回もの食事や茶菓が用意される。

 始めのクジラの衝突で船は大きく揺れたその時は、夕食の支度で大わらわだった。それぞれのコックは背中合わせで、決められた料理に精を出していた。先の寄港地では大量の野菜類を購入していた。新鮮な野菜や果物は鮮度が保たれない為に、その都度購入する必要がある。それらを詰め込んだ段ボールが倒れ、床を滑っていた。

 衝撃で船が左右に大きく揺れる度に調理器具が動き、床に落ちて出来たての料理が床に撒かれた。高級な皿が空を舞いながら床に落ち、大きな音を出して割れる。
 ガチャン! バリバリ! 重く高級な皿ほど、派手な音をさせ木っ端微塵になる。

「何てことだ! せっかくの料理が、食材が……」
コック達が腕を振るったその船自慢の豪華料理は、床に転がり吸われていく。精魂作った料理が、客の口に入らず、その目的を失った時ほど調理人が悲しいことはない。ここでは安全の為にガスは使用していないが、それでも火災防止の為の処置を怠ってはならない。コック長のマックが叫ぶ。

「まずは、調理器具のスイッチを切って火を止めろ! 火事は出すなよ!」
「イエッサー、マック!」
 ただ一人の日本人コックの吾妻涼太は、素早く近くの調理器具の電気スイッチを切って廻った。彼はまだ見習いである。その調理場は、狭い部屋を有効的に使う為と作業をしやすくする為に、作業テーブルは置いていない。それぞれの壁に対して調理台が固定されているのだ。その部屋では足元が残骸で滑りやすくなっていた。
「材料は後でどうにでもなる! 包丁やナイフなどが飛び出していないか注意するんだ」
「はい、料理長!」
「滑って怪我ををしないように気を付けろ!」
「はい!」

 それぞれに作業をしながらコック長の指示に従っていた。中型の冷蔵庫がバタンと倒れ、中の食材が床に転がる。固定していた器具が弛んでいたらしい。どこにいたのか、小さなネズミが驚きチュウチュウと鳴きながら右往左往している。壁に取り付けたフライパンや大きなスプーン等が、カラカラと音をさせながら楽器のように揺れ動いていた。

 今まで揺れは殆ど無かったし、台風でも大したことはなかった。しかし今回のような大揺れは初めてだった。揺れた拍子に油が飛びそれに火が付いたが、直ぐに消し止められた。

「どうだ、大丈夫か?!」
「はい、マック、火は何とか大丈夫のようです」
「そうか、では足元を安全にしてくれ、涼太、頼んだぞ」
「はい! 料理長」
 給仕係のマリアンは食器戸棚を片づけているとき、垂れてきた床の油で滑ってスカートを翻しながら床に転がり、思わず叫んだ。

「きゃっ!」
 マリアンはその時、調理台の上の熱い食用油が溢れたフライパンの取っ手に手を掛けてしまった。そのフライパンの熱い油が反動で宙を飛び、塊となって倒れ込んだマリアンの上に被さろうとしていた。マリアンがそれを浴びれば大火傷になる。

「危ない! マリアン」
 彼女を愛している吾妻涼太は素早く彼女の上に全身で被さり、自分の背中でマリアンを守った。熱い油が白い涼太の作業服を汚した、(ジュー)という焼けた匂いがする。
「あっ、熱い!」
 涼太は床に流れた油に足を取られ、床に転がった。しかし、涼太の素早い動きで、マリアンも転がりながらも大火傷から難を逃れた。

「涼太! 涼太!」
起きあがったマリアンは倒れ込んだ恋仲の涼太に這いずり近づいた。
「だ、大丈夫だ。背中が熱いけど、大丈夫だよ、マリアン」
「涼太が私を守ってくれたのね、嬉しいっ! でも、直ぐ背中を冷やさなきゃ……」
 マリアンは泣いていた、そんなマリアンを見つめながら涼太が口を開いた。

「よかった、マリアンの身体が無事で、顔も大丈夫だったね」
「うん……」
「マリアンさえ無事ならそれで良いのさ、それで良いんだ」
 マリアンが無事であることに涼太は心から安心した。

「あぁ、神様、ありがとうございます。涼太、ゴメンナサイ……」
マリアンは泣きながら涼太に抱きついた。
 まだ揺れている調理室の床の上で若い二人はしばらく抱き合っていた。
 次第に大きな揺れが収まり始めていた。しかし、それは束の間の安心であり、安閑としてはいられないのだ。

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