第7話 船長の決断

文字数 2,242文字

 船長のクラークはマイクを握りしめながら、何故かこの船が出航したときの自分の挨拶を思い出していた。大勢の客が乗船したときに船内に流れる自分の挨拶を。
 晴れやかなその時、この船の代表者としての自分の高ぶり、興奮を思い出す。豪華客船の船長はその名前の通りに花形である。

 多くの客達は毎日をせわしく働き、疲れた心と身体を携えてこの船にやってくる。高い料金を払い、その代償に心からの癒しを求める人達なのだ。或いはゆったりとした人生の束の間の楽しみ等、そんな人々の心の解放には、大いなる海原の長旅は最高である。

 海に浮かぶ客船には陸のような娯楽施設があり、それなりに楽しめる。気分良く飲みたいときには洒落たバーがあり、泳ぎたいときにはブルーのプールがある。カジノもあれば、素敵なカフェもあり、まさに海上に於ける楽園だった。

 船長は自らは操縦せず、総責任者として全ての権限と責任を負う。積荷や乗客を安全に目的地まで運び、乗組員を管理・監督する任務があるのだ。必要がある場合には、乗組員や時には、乗客に対しても即座に命令をするなど、強い権限が与えられている。困難な場合には自ら操船の指揮をとる場合もあるのだ。

 パーティーに呼ばれ、挨拶をすると割れるような拍手の嵐……求められれば、美しく着飾った女性達のダンスの相手もする。まさに船長とは、最高に洗練されたダンディズムの極みでもある。長い下積みの中で掴んだ船長としての資格と誇り、それはクラークが子供の頃から持っていた夢だった。その夢が現実となって今自分はこの船に立っている。
(私の願いは叶った……マイ・ウイッシュ・カム・ツルー)そう叫びたい気持ちだった。

「ようこそ、このローズ・プリンセスにご乗船して下さり、有り難うございます、私がこの船長をしておりますクラークと申します。西地中海の旅にようこそお越し下さりました。透き通ったような海の青さと、どこまでも広がる海原を楽しんで頂きながら、この船の中で、ゆっくりとゴージャスな雰囲気を楽しんで頂きます。どうか、良き思い出としていつまでも、皆様のご記憶に留めて頂ければ光栄でございます。この旅を満喫されて、心からお楽しみ頂けますよう乗組員一同、心よりおもてなしを致します」

その時の、自分の気持ちは自信に満ちあふれ晴れやかだった。割れるような拍手を浴びながら。輝かしい名声と高揚した気持ち……それも、もうラストになる。
 船の安全を過信し、自己陶酔に溺れていた自分。船長としてもっと真摯に、もっと安全に心を費やすべきだった。

 どんなに最新の設備を持ち、安全を謳っていても、完璧というものはない。こころの中の怠惰と気の緩みこそが、魔物だということ。不可抗力ということもある、それすらも包括してこその安心なのに……その全ての責任は自分にある。部下の責任は船長たる自分にあるのだ。この危機に対し、船長として最後の努めを果たさなければならない。全員を脱出させなければならない。そして、自分は死んではならない。決して船と共に沈んではならないのだ。

 本当は船長としてベストを尽くし、最後には沈みゆくこの船と共に消え去りたい……それが男のロマンだと信じていた自分。しかし、それが間違いだと言うことを知らされた。
「あの船長は死んで、全ての責任を放棄してしまった、生きてはずかしめを受け事故の詳細を明白にし、裁判でその罪を償わなければならないのに」と。

(船長としての非を認め、死んで逃げてはならない)故に、今は最善の努力をすべきであり、感傷に浸っている暇はないのだ。クラークは妄想を振り切るように強くマイクを握りしめた。

「皆様に申し上げます、この船長のクラークです。この船は先程のクジラの衝突により、船底に亀裂が入ったようです、それを塞ぐことは不可能となりました。この船は沈みます、どうか乗員の指示に従って冷静な行動を取るようにお願い致します」

「なに! なんだ! 船長、この船が沈むだと?」
「何とかならんのか!」
「沈むまで、どの位の時間があるんだ!」
「まだ死にたくない、何とかしてくれ」
「あぁ、神様、よりによってこんな船に……」
「救難は来るんだろうな!」
「部屋に戻り持っていきたい物があるんだ、時間はあるのか!」
 乗客はパニック状態になっている。

「申し訳ありません! こうしている間にも船は沈んでいます。乗員の指示に従って下さい!」
クラークは一息ついてから、再びマイクに向かった。

「乗員に告ぐ、安全を確認し、素早く全てのお客様を救命ボートに誘導せよ!」
 船長の声が船内に鳴り響く、船の左舷と右舷には一五〇人乗りの脱出用の救命ボートがそれぞれ二隻取り付けられてある。その他にも予備のボートがあるのだ。ボートに乗る乗客、乗員の数は足りている。それはきちんと整然と乗れた場合だが。

 救命ボートの位置から海面まで一〇数メートルはある。ボートの綱を外し、傾かないように揺れる海面に降ろさなければならない。降ろされて海面に浮かんだボートに、客達を安全に乗せるのだ。殺気立ち混乱する乗客達を誘導し、混乱を防がなければならない。

 もし海面に落ちても、ライフジャケットを着ているので沈むことはないだろう。
 しかし危険が無いわけではない。長い時間冷たい海水に浸っていると体温が奪われ、いずれ死に至るからだ。

 それ以上に怖いのが、船が沈むときの渦に巻き込まれることである。故に、ボートに乗ったら出来るだけ早く船から離れなければならない。

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