第8話 船からの脱出
文字数 2,146文字
その船の甲板には、すべての階の乗客が集まっており、ひしめき合いながら、どの乗客も迫り来る恐怖に怯えていた。それぞれに、生と死を賭けた瀬戸際にいることを余儀無くされており、そこには生きたいと願う人達で溢れていた。
それは、乗員と言えども同じである。ただ彼等が乗客よりも有利なのは、そう言う場合に対し訓練されていると言うことだけであり、恐怖に対する気持ちは誰もが同じなのだ。
多くの客にとっては、楽しい小型豪華客船による船の旅が、一瞬にして恐怖のどん底につき落とされていた。
その時にレストランで食事をしていた人達は、船が揺れた時、倒れたドレッシングの瓶や皿の上の調理のスープなどで一丁来の服を汚していたり、ホールでダンスに興じ優雅に着飾っていた夫人達は、床に倒れて派手なドレスが裂けたりした。
そういう人達が、着替える間もなくそのままの服装で集まっていた。なかには、もう早々とパジャマに着替えて寝ていた人もいるのだ。
誰れもが、悠長に着替える時間的な余裕等はない。こう言う時こそ気軽な出で立ちがベストなのだが、お洒落をしたいばかりに、ドレス等で優雅に着飾っているご婦人達は最悪だった。
ある婦人は船内アナウンスを聞き、甲板に行く時にパーティー用の裾の長いドレスの裾を踏まれ何度も転んだ。そのドレスも床の汚れで着飾ったときの面影など無くなり、無惨にもぼろきれのようだった。
「あぁ、せっかく新調したドレスなのに、なによ! 踏んずけられて、もう最悪っ! 生きて帰れたら、この旅行代理店に弁償してもらわなきゃ……」となにやらブツブツ言いながら覚束ない裸足で歩いていた。
皆一様に共通しているのは、それぞれに不安と恐怖の入り混じった顔をしている。年配の夫婦はお互いの顔を見合わせながら呟いていた。
「ねえ、あなた、どうすればいいの? この船はもうすぐ沈むのでしょう。あの深く冷たい海に放り出されたらどうしましょう、私怖いわ」
「母さん、大丈夫だよ。このように係員がちゃんと誘導しているじゃないか、彼らの言う通りに動けばいいんだよ、なあ母さんや」
「そうかしら、あなた、私の手を離さないでね」
「わかってるさ」
世界各国を回り、これが最後の旅行と決めていた老夫婦はお互いの手をしっかりと握っていた。その隣で、あの藤崎夫妻も不安な顔をして海を見つめている。夫の恒夫は、妻の晴子の肩を抱きしめながら言った。
「母さんにプレゼントした今度の旅行もこんな結果になってしまったね。残念だが仕方がないさ、これが運命なのかもしれない」
妻の晴子は、夫の悟ったように元気がないのが気になっていた。
「ダメよ、あなた……そんな弱気なことを言わないで、お願いですから」
晴子の眼は泣いていた、夫がそっとその涙を白いハンカチで拭いている。
「わかっている、わかっているさ、私たちはまだ死なないよ、母さん。子供達が結婚するまでもう少し生きなければ、そうだよね」
「そうですよ、あなた……」
その藤崎夫妻の隣には及川龍平と佐々木明子がいた。
「大丈夫ですよ、藤崎さん。僕達がついて居ますから、ねえ、明子」
「そうですよ、しっかり気を取り直して頑張りましょう、奥さまも」
「あぁ、ありがとう、あなた達がいて心強いわ」
藤崎夫人は涙顔で、しっかりと明子の手を握りしめていた。
この船の上では様々な人間のドラマが始まっていた。
彼らを含め誰もが見つめる海は薄暗い闇の中で揺れ動いていた。昼間の海は処女のように優しく穏やかだったが、今は薄闇のなかで悪魔のように揺れうねっているのだ。
船が揺れる度に海水が船板を叩き、それは飛沫となって人々の身体にシャワーのように降りかかって濡らしていた。それが顔に掛かり、口に垂れると塩辛い。
乗員は懸命に、左舷と右舷に取り付けてある救難ボートを海面に下ろす作業をしていた。
訓練していたとはいえ、実際にボートを揺れる海の上に安全に降ろすには困難を極めた。
甲板長のポールは降りかかる海水を浴びて、ずぶ濡れになりながら係員達を指揮していた。どうやら船は船首に対し右に傾き始めているようである。
「リッキー! ジャン、船は右に傾いているぞ、左舷の救命ボートは無理だ、諦めよう。急いで右舷の救命ボートの二艇と補助ボートを降ろすんだ、慎重にな!」
「イエス・サー、ポール!」
掛け声いさましく二人の若者とその他の甲板員達は、慎重な手つきでボートの綱を器用に操り海面に降ろしている。ボートは船の横板に当たりながらも、何とか下に落ちた。
それを見ていた乗客達から拍手が起こる。救命ボート二艇と補助ボートは何とか海面に着水したようだ。
「よくやったリッキー、ジャン、君たち、ありがとう」
ポールは(上手くいったな)とばかりにウインクをし、握った右手の親指を立てOKのサインをした。
「はいっ! 甲板長」
彼等はこの時ほど甲板長のポールを頼もしく思ったことはない。いよいよ乗客と乗員の全員を救命ボートに降ろし、この船から脱出しなければならない。
しかし、事故というものは初期の時の対応で明暗が別れるのだ。
誰でも、身の危険が迫っていない時には友愛の精神で譲り合うことが出来るのだが、はたしてこの船の乗客達はそれを守れるのだろうか?
それは、乗員と言えども同じである。ただ彼等が乗客よりも有利なのは、そう言う場合に対し訓練されていると言うことだけであり、恐怖に対する気持ちは誰もが同じなのだ。
多くの客にとっては、楽しい小型豪華客船による船の旅が、一瞬にして恐怖のどん底につき落とされていた。
その時にレストランで食事をしていた人達は、船が揺れた時、倒れたドレッシングの瓶や皿の上の調理のスープなどで一丁来の服を汚していたり、ホールでダンスに興じ優雅に着飾っていた夫人達は、床に倒れて派手なドレスが裂けたりした。
そういう人達が、着替える間もなくそのままの服装で集まっていた。なかには、もう早々とパジャマに着替えて寝ていた人もいるのだ。
誰れもが、悠長に着替える時間的な余裕等はない。こう言う時こそ気軽な出で立ちがベストなのだが、お洒落をしたいばかりに、ドレス等で優雅に着飾っているご婦人達は最悪だった。
ある婦人は船内アナウンスを聞き、甲板に行く時にパーティー用の裾の長いドレスの裾を踏まれ何度も転んだ。そのドレスも床の汚れで着飾ったときの面影など無くなり、無惨にもぼろきれのようだった。
「あぁ、せっかく新調したドレスなのに、なによ! 踏んずけられて、もう最悪っ! 生きて帰れたら、この旅行代理店に弁償してもらわなきゃ……」となにやらブツブツ言いながら覚束ない裸足で歩いていた。
皆一様に共通しているのは、それぞれに不安と恐怖の入り混じった顔をしている。年配の夫婦はお互いの顔を見合わせながら呟いていた。
「ねえ、あなた、どうすればいいの? この船はもうすぐ沈むのでしょう。あの深く冷たい海に放り出されたらどうしましょう、私怖いわ」
「母さん、大丈夫だよ。このように係員がちゃんと誘導しているじゃないか、彼らの言う通りに動けばいいんだよ、なあ母さんや」
「そうかしら、あなた、私の手を離さないでね」
「わかってるさ」
世界各国を回り、これが最後の旅行と決めていた老夫婦はお互いの手をしっかりと握っていた。その隣で、あの藤崎夫妻も不安な顔をして海を見つめている。夫の恒夫は、妻の晴子の肩を抱きしめながら言った。
「母さんにプレゼントした今度の旅行もこんな結果になってしまったね。残念だが仕方がないさ、これが運命なのかもしれない」
妻の晴子は、夫の悟ったように元気がないのが気になっていた。
「ダメよ、あなた……そんな弱気なことを言わないで、お願いですから」
晴子の眼は泣いていた、夫がそっとその涙を白いハンカチで拭いている。
「わかっている、わかっているさ、私たちはまだ死なないよ、母さん。子供達が結婚するまでもう少し生きなければ、そうだよね」
「そうですよ、あなた……」
その藤崎夫妻の隣には及川龍平と佐々木明子がいた。
「大丈夫ですよ、藤崎さん。僕達がついて居ますから、ねえ、明子」
「そうですよ、しっかり気を取り直して頑張りましょう、奥さまも」
「あぁ、ありがとう、あなた達がいて心強いわ」
藤崎夫人は涙顔で、しっかりと明子の手を握りしめていた。
この船の上では様々な人間のドラマが始まっていた。
彼らを含め誰もが見つめる海は薄暗い闇の中で揺れ動いていた。昼間の海は処女のように優しく穏やかだったが、今は薄闇のなかで悪魔のように揺れうねっているのだ。
船が揺れる度に海水が船板を叩き、それは飛沫となって人々の身体にシャワーのように降りかかって濡らしていた。それが顔に掛かり、口に垂れると塩辛い。
乗員は懸命に、左舷と右舷に取り付けてある救難ボートを海面に下ろす作業をしていた。
訓練していたとはいえ、実際にボートを揺れる海の上に安全に降ろすには困難を極めた。
甲板長のポールは降りかかる海水を浴びて、ずぶ濡れになりながら係員達を指揮していた。どうやら船は船首に対し右に傾き始めているようである。
「リッキー! ジャン、船は右に傾いているぞ、左舷の救命ボートは無理だ、諦めよう。急いで右舷の救命ボートの二艇と補助ボートを降ろすんだ、慎重にな!」
「イエス・サー、ポール!」
掛け声いさましく二人の若者とその他の甲板員達は、慎重な手つきでボートの綱を器用に操り海面に降ろしている。ボートは船の横板に当たりながらも、何とか下に落ちた。
それを見ていた乗客達から拍手が起こる。救命ボート二艇と補助ボートは何とか海面に着水したようだ。
「よくやったリッキー、ジャン、君たち、ありがとう」
ポールは(上手くいったな)とばかりにウインクをし、握った右手の親指を立てOKのサインをした。
「はいっ! 甲板長」
彼等はこの時ほど甲板長のポールを頼もしく思ったことはない。いよいよ乗客と乗員の全員を救命ボートに降ろし、この船から脱出しなければならない。
しかし、事故というものは初期の時の対応で明暗が別れるのだ。
誰でも、身の危険が迫っていない時には友愛の精神で譲り合うことが出来るのだが、はたしてこの船の乗客達はそれを守れるのだろうか?