第11話 ボートへの綱渡り

文字数 1,748文字

 海に浮かぶ救命ボートに乗る為に、人々はひしめき合いながらその順番を争っていた。
 乗員は別としても、乗客達は三艇のボートに我先にと乗りたがっているのだ。
 しかし、無理矢理に乗り込み、勢い余り海に落ちた男を見ているだけに、今のところはそれほど、強引にする者はいない。
 それも切羽詰まってくればそれどころではなくなる。
 安全の保証等はどこにも無いのだ。

 迫り来る時間との勝負であり、人は最期まで生きたいと思う生き物である。人を押しのけてでも生きようとするのか、それとも聖人君子を装い我慢するか……。
 その我慢とは、死をも意味するからだ。故に、その選択は難しい。
(どちらかを選べ)と言われれば、前者を選ぶ人は少なくないだろう。

 それをエゴというか、理不尽というか、それは他者の言うことであり、自分の身をそこに置き換えれば分かることである。誰もそのことで非難することなど出来ようか……。

「おい! 年寄り子供を早く乗せて、俺たちも乗ろうぜ」
「そうだな、そこの爺さん、早く乗ってくれ、後がつかえているんだ」
「待ってください、そう急がせないで、妻がいるんですよ……足腰が弱っているんだ、おい、大丈夫かい?」

「あぁ、あなた……あたしはもう良いの、もう良いのよ。そこまでして生きたいとは思わないわ、私達の代わりに若い人を……」
「何を言っているんだ、もう少し生きていても罰は当たらないだろう、おいで!」

 老人は老妻の手を握りしめて、船の縁の場所へ近づいた。その夫婦は、世界旅行をして、これを最後の旅行にしようとした老夫婦だった。まさか、その旅がこのような旅になろうとは思ってもみなかったのだが。息子と娘が喜んで快く送り出してくれたこの旅行がこんなことに……。

 二人に買ったお土産も、もう海水に浸かっているだろう。 そう思うと二人は悲しかった。
 しかし、自分たちが旅先で死んだと知ったら、さぞかし悲しむだろう。だから、まだ死んではいけないと老人は強く思った。

(死ぬのはいつでも死ねるんだ、それまでは、まだ……)
「息子達に合うまでは死ねない、そうだろう」
「そうですね、あなた……」
「おいおい、ごたごた言ってないでその二人早く乗ってくれ、後がつかえてるんだ」
老夫婦から少し離れた男が怒鳴り散らした。

「はいはい、わかりました。では婆さんや行こうか、船乗りさんに命を預けよう」
「はい」
「お前から先に行っておいで」
「怖いわ、あなた」
「大丈夫だ、運を天に任せよう」
「はい、あなた、最後かも知れないキスを……」
 妻は夫と闇の中でキスをした。その眼には涙が溢れている。
「いつまで、もたもたしているんだっ!」

 二人は押されるように船の縁に来た、そして妻はボートに降ろされた太い縄を握った。
「お願いしますよ、船乗りさん」
「任せて下さい、さあ奥さんから先に、続いて旦那さん……」
「あぁ、あなた怖い! ボートがあんなに下で揺れているのよ」

 そこからボートが浮かぶ海面をみると、一〇メートル程で相当な距離がある。一〇メートルと言えば、ほぼビルの三階ほどであり、そこから縄で降りたつと思うだけで誰でも足が震えてくるのだ。それはまるで、軽業師がビルからビルを綱で渡る曲芸に似ていた。

「大丈夫ですよ、奥さん。下を見ないで、しっかり縄を掴んで降りて下さい。重みで自然と身体が降りていきますから、下で乗員がしっかり支えますよ。ほらもう沢山の人が降りていますから、安心して」

「婆さん、行っておいで、私も直ぐにいくから、さぁ!」
「はい、あなた……」

 夫の励ましと、船の男に誘導されながら老女は綱を握りしめた。船の縁を跨ぎ、綱を握りしめ、一呼吸すると老女はスルスルと縄を伝って降りた。
「きゃぁ! 神様……」

 途中で船が揺れ、それにつられて縄が揺れ、老女が宙で揺れ動いた、上から夫が手に汗を握りしめ見守っている。下では男達が縄をたぐり寄せ、老女の足を掴みボートに降ろした。
 老女はボートの中に落ちた、弾みでボートが揺れる。

「あぁぁ……神様、ご加護に感謝致します」
 老女は安堵し、ボートの上で喜び泣いていた。

 それに続いて、今度は老夫の番である。
 しかし、彼の時には風が大分強くなり、縄が先程よりも強くなびいていた。
 そして思わぬことが起こるのである。





ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み